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第35話
「あの頃…」
未だにまだ血を流す、だけど確かに過去であるその頃を思い浮かべるように、山岡が語り始めた。
「オレはまだ新人で…だけど、あの病院は…オレをただの新人とは扱わなかった…」
「うん」
「オレ、引き取ってくれた家、最後に逃げたって話しましたよね?」
「うん」
「それが、中学卒業間近の頃の話です」
「っ…うん」
サラリと告げるわりに、中身はかなりとんでもない。
それでも、日下部は衝撃を堪えて、静かに頷く。
「それなのに、不思議じゃありませんでした?オレが、医者なの」
「っ…うん、ごめん、不思議だと思った」
「ですよね。医学部って、高いですもんね」
ふふ、と笑う山岡は、この先何を言い出そうとしているのか。
日下部は、ごくりと唾を飲み、覚悟を決めた。
「逃げて、ひっそりと生きようと思ったんですけどね…保証人もいない、金も学歴もない、そんな未成年の子供が、住む場所どころか、働く場所を探すのすら困難で…」
「うん」
「まぁ、考え付く先って…1つですよね?」
ふっと苦笑する山岡が考えたことは、日下部にも簡単にわかった。
「夜の世界か」
「はぃ…。ホストとか、そういういいものじゃなくて…身体…」
売れる物は、それしかない。
自分の容姿を憎んでいた山岡に、その美貌を使うことなど思いつくはずもなく、持てる身体を金に変えようと考えたことは想像に難くない。
「売った?」
「っ…売ろうと、しました…。けど、しませんでした」
「そ、うか…」
日下部は、山岡の言葉に、ホッとする。
けれどその反面、それをしなかった山岡が、どうやって生きる糧を得たのか、それはそれで、大変な事実がありそうでドキリとした。
「身体を売ろうとしたオレを…ある交換条件と引き換えに、買ってくれた人がいました」
「っ?交換条件…?」
「突拍子もない話ですよ…。家族に、なってくれ、と」
ニコリ、と微笑んだ山岡は、その相手に負の感情は持っていない様子だった。
「家族…?」
「まぁ、正確に言うと、相続人」
「っ?!」
クスッと笑い声を上げた山岡は、その相手のことを思い浮かべているようだった。
「不思議な人でした。自分は長くない、だけど、血のつながった息子や親族に金を残すのは死んでも嫌だって」
「へぇ…」
「だから、まったく関係のない他人の誰かに譲ってしまおうと。その日、出会った誰かから選ぼうと」
「……」
「たまたま街で出くわした、身体を穢そうとしていたオレが、目についたって…」
変でしょ?と首を傾げる山岡に、日下部は小さく苦笑した。
「あぁ…」
「後でね、何でオレを選んだの?って聞いたことがあるんです。そしたら、手、だって」
「手?」
「オレの手が気に入った、って。意味がわかりませんでした。でも、その言葉の意味を、オレはすぐに理解することになりました」
微かに震えた山岡が、その後どんな経験をしたのか。
日下部は、また黙って頷いて、先を促した。
「山岡さんは…あぁ、その人、山岡汰一さんって言うんですけど…むかし、お医者さんだったそうです」
「っ…」
「医者で、大学病院の教授で、とても偉くて、とてもすごいお医者さんだったそうです」
「そうか…」
コクン、と頷いた日下部は、徐々に、山岡の話の先が見えてきた。
「もう引退していて…そしてその頃は、ガンを患って…もう、リンパも…肝メタ(転移)も…ううん、全身に…」
「っ…」
「そんな、重いものを抱えながらも、山岡さんは、ずっとずっと、オレには優しかった」
「ん…」
「相続のためにオレを養子にして、引き取って…それでもちゃんと、オレを愛してくれたんです。オレは初めて、人に抱き締められる温かさを知りました」
「あぁ、その人だったのか…」
「え?」
「いや…」
以前、山岡が寝ぼけがてら、『ぎゅってするとあったかかった』と呟いたことがあったのだ。
そのことを思い出して笑った日下部に、山岡はキョトンと首を傾げていた。
「何でもないよ。で?」
「あ、はぃ…。オレは、そんな山岡さんに、どうしても恩返しがしたくて…。山岡さんの病気を、ただ治したいと思って…」
「うん」
「でもその頃のオレは、あまりに無知で…子どもでした」
ステージⅣ。いわゆる末期のがん患者を治すすべは、現代医療にはないと、当時の山岡は理解していなかった。
「オレが治す、って。オレが医者になって、必ず治すから、って…はは、ステージⅣのがん患者ですよ?今なら笑っちゃうけど…あの頃は本気で」
「うん」
幼かった山岡の真っ直ぐな気持ちは、日下部には理解できた。
「山岡さんも、笑ってくれていました。じゃぁ頼むなって。お願いな、って。泰佳になら、きっとなれるって。この、手が…。オレのこの手は…この先、たくさんの人の命を掬いあげる手だ…って。泰佳ならなれる。立派な医者になって、そしておれを治せるって…」
「うん、うん」
「だけど…やっぱり、長くないって言ってたのはほんとうで…それから間もなく、亡くなりました…」
「うん」
シュン、と俯く山岡の、当時の落胆は、想像を絶するものだっただろう。
「初めて絶望を感じました。親に捨てられても、引き取り先を追い出され続けても、あんなに悲しかったことはなかったのに…」
「うん」
「悲しくて、涙が止まらなくて、どうにかなるかと思いました」
「うん」
その慟哭を、日下部は想像するしかできなかったが、生まれて初めて愛に触れたこどもが、それを突然喪失したという思いは、きっと深い深い絶望だということは、容易に考え付いた。
「どうにか…なりそうなのに、公開された遺言状…」
「っ!」
「そうだったんですよね。オレは、山岡さんの相続人になるために、引き取ってもらったんです」
「っ…それは…」
「えぇ。正直いりませんでしたよ、お金なんて。そんなことより、山岡さんを返して欲しかった」
「うん」
「だけど、それが叶わぬ夢だということくらいは、さすがにオレにもわかっていました」
「うん」
ポロリ、と山岡の目から、一滴の涙が伝った。
「だからオレは、それを拒まず、すべて山岡さんが書き遺した通りに相続しました」
「そう…」
「本当の息子や親戚が、いくら責め立てても、譲るものかと。どうせオレは疫病神。だけど山岡さんの想いだけは、裏切りたくなかった」
「山岡…」
「はい。オレは、その受け取ったお金を、進学資金にしました。中卒のオレでも、必死で努力して、高認を取って、医学部を受けて」
「っ…」
それは、小学校も、そして中学すらまともに出ていない山岡にとって、どれほど血の滲むような努力だったのか。
それでも今、こうして医者をしている山岡が、その答えだった。
「おまえは…」
「ん?はぃ。ちゃんと受かりましたよ?ちゃんと、医者になりました」
「うん…」
ケロリと言う山岡の、その先がまたきっと辛いことを察していて、日下部は、そっと山岡の肩を抱いた。
「日下部先生?」
「いや。温もり…分けて?」
「えへへ…はぃ。…それで」
「うん」
「もう1つ、遺言状とは別に、オレへの手紙が…」
「手紙?」
「はぃ。むかし、山岡さんが医者をしていた頃に、世話をしていたという、大学病院の先生の名前が、そこに」
「っ!」
「もしも本当に医者になったのなら、きっと力になってくれる人だから、と」
山岡の将来の心配も残してくれた亡き山岡氏は、本当に山岡を愛してくれていたのだと、日下部は感じた。
「それが…」
「甘えたのが間違いだったんですかね?結局オレは、山岡さんのその好意を、ぐちゃぐちゃに壊してしまった…」
「え…?」
「息子さん…。山岡さんに、本当の息子さんがいたって言いましたよね?その人も、やっぱり医者でした」
「っ…」
「そうなんですよ。同じ、大学病院の」
「それは…」
「親父をたぶらかして、大金をせしめた男娼。その顔使って、身体使って、山岡大先生をたらしこんだ、好き者」
「っ!山岡っ…」
「大丈夫ですよ?ほんとうのことだから」
「嘘言えっ…」
「いえ。周りから見たら、本当にしか見えないでしょう?」
納得しているように微笑む山岡の深い傷は、今でもやっぱり簡単に癒せるものではないと、日下部は痛いほど感じた。
「そんな言われ方をしていたオレを…山岡さんが書き遺してくれた名前の…そのときにはもう、教授であったあの人が、後見を名乗ることで守ろうとしてくれた」
「っ…」
「敵ばかりの大学病院の中、オレはその手に縋ってしまった。だけどあの人は、山岡大先生の残した派閥を、継いだ人だったんです」
「それは…」
「新たな火種。オレ、本当、疫病神で…。何にもわかってなかった」
「山岡…」
ははっと自嘲する山岡が、何故今、ここまで自分を卑下するのかは、日下部は悲しいほど理解できた。
「今度はオレは、その教授をたぶらかした…んですよね」
はたからは、どうしたってそう見えることを、山岡は諦めと共に受け入れていた。
「あの人はね、オレの腕とか、診断とか、ちゃんと医者としての部分も、買ってくれていたんですよ?山岡さんが遺したからだけでなく、オレを見てくれてたと思います」
「うん…」
「でも、反対派閥の人から見たら…そうやってちょっと目立ってちやほやされるオレは、気に入らない存在で。ましてや、色目使って取り入った、って言われてたオレだから…」
「っ…」
「本当は、味方のはずの、あの人の派閥内からも…最初はオレを快く迎え入れてくれていた人の中からも…オレを厭う人たちが出始めて…」
日下部は経験がないが、大学病院の人間の上昇志向は、噂で耳にしたことがあった。
「この醜い顔が全部いけないんですっ…オレが、オレが壊した…。山岡さんが、大事に積み上げてきたもの。あの人が、さらに繁栄させたもの…」
「っ、山岡、やめろ」
あぁっ、と頭を抱えた山岡を、日下部は急いで抱きしめ、制止した。
「あ…。いえ、すみません。大丈夫です…」
日下部の温もりに、過去に引きずられかけた意識が戻ったのか、山岡はふぅっと息をついて、小さく苦笑した。
「大丈夫です」
「山岡。無理するなよ?」
「はぃ。だって、ここから先が、川崎先生の話ですよ?」
そういえば、そうだった。まだ出てきていなかった本題の人間の名前に、日下部がそっと腕を緩めた。
「オレは…ただ、人の命を、少しでも多く、助けたくて…。山岡さんが遺した派閥も、そういう考えが大きな人たちばかりで」
「うん」
「そのために、オペの技術を磨いたし、たくさんの勉強もして…。それはただ、人の命の手助けを、少しでも多くできればというだけで…。決して、権力が欲しいからでも、自分の力を自慢したいからでも、なんでもなくて…」
「うん」
「あのとき…。ただ消えゆく山岡さんの命の前に、なんにもできなかった自分が、何にも知らないで、救えると思っていた自分が情けなくて」
「うん」
「ひたすら、人命を想って…」
「うん」
「それをね…川崎先生は、理解してくれていたんですよ」
ニコリ、と微笑んだ山岡に、日下部はわかっていてもわずかな嫉妬が浮かぶのを感じていた。
「川崎先生か…」
「はぃ。オレが、山岡大教授の養子でもなく、最大派閥の教授の後継者でもなく、ただの、山岡泰佳っていう、山岡さんの命を救えなかったことをずっと気にしている、ただの無力な医者だって…」
「そう…」
「自分の無力を理解して、だからこそ必死で腕を磨いているだけの、そんな人間だって…川崎先生はね、オレを、天才、天才って言いながら、いつもからかってた」
「……」
「敵も、味方も、誰が笑顔の裏で、憎しみを孕んでいるのか、誰が優しい言葉の裏で、足を引っ張ろうと目論んでいるのか。もうオレには、なにもかもがわからなくなっていたとき…」
「ん…」
「川崎先生は…ただ真っ直ぐに、患者の命だけを見つめていた。周囲の思惑にも煩わしい言葉たちにも惑わされず、ただ真っ直ぐに患者を見て…そしてただ真っ直ぐに、オレを、見てくれた…」
「そうか…」
「同じだよ、山岡先生と同じで、ただおれも患者救いたいだけだって。真っ直ぐ、真っ直ぐ命と向き合って、真っ直ぐ真っ直ぐオレを見た。だからオレは…それが眩しくて…。この光は、信じられるって…。最後まで、信じ抜けた人なんです」
ふわりと笑って言う山岡が、温かい涙を一筋、頬に伝わせた。
「山岡先生、もういいよ。もうやめよ?って…最後にくれた川崎先生の言葉を、オレは今でも忘れませんよ」
「っ…」
「ここでなくても医者はやれる。むしろ山岡先生は、ここじゃないほうが医者をやれる」
「っ」
「山岡先生が欲しいのは、地位や名誉じゃないだろう?山岡大教授の遺したものを守ることでもないだろう?山岡先生はただ、目の前にある命を、どれだけ多く掬いあげられるか。救えなかった山岡大先生の命の分も、どれだけ多く掬いあげ、病から解き放ってあげるか。欲しいのは、ただそのためだけの、腕や知識だろう?って」
「あぁ…」
「だからオレは、大学病院を去りました。今の病院で、医者を続けてます」
「山岡…」
「大切な人なんです。だからオレ…精一杯、オレにできること、してあげたいと、思ってます」
スッと顔を上げて、ニコリと微笑んで言った山岡に、日下部は、深い嫉妬を感じると同時に、穏やかに納得した。
「本当は、俺がそこにいたかったな」
「え?」
「山岡がとても辛かった時。川崎先生って人じゃなくてさ、俺が」
「……はぃ」
「でも、山岡が大切な人、っていうのもわかるよ。わかるから…ごめんな?」
嫉妬して。酷いことして。山岡を傷つけて。
真摯な想いをこめて告げた日下部に、山岡は小さく首を振って笑った。
「もう気にしてません。オレこそ、ちゃんと言わなくて…」
「ん」
「好き、ですよ、日下部先生」
「違うだろ」
「ん…千洋…」
初めて、山岡から仕掛ける、つたないキス。
伸びあがって口をつけて、日下部が何度か教えた通りに、必死で舌を使おうとしている山岡のキス。
それは、まだまだとても下手くそなんだけど、日下部には、たまらなく愛しいものだった。
「ふふ。初めて泰佳からしてくれた」
「っ…」
日下部のそれよりはずっと短く、パッと離れていった山岡が、顔を真っ赤にして俯いた。
「泰佳、好きだよ」
「ん…」
「大好きだ」
「はぃ…」
へらりと緩んだ山岡の顔は、とても幸せそうだった。
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