35 / 426

第35話

「あの頃…」 未だにまだ血を流す、だけど確かに過去であるその頃を思い浮かべるように、山岡が語り始めた。 「オレはまだ新人で…だけど、あの病院は…オレをただの新人とは扱わなかった…」 「うん」 「オレ、引き取ってくれた家、最後に逃げたって話しましたよね?」 「うん」 「それが、中学卒業間近の頃の話です」 「っ…うん」 サラリと告げるわりに、中身はかなりとんでもない。 それでも、日下部は衝撃を堪えて、静かに頷く。 「それなのに、不思議じゃありませんでした?オレが、医者なの」 「っ…うん、ごめん、不思議だと思った」 「ですよね。医学部って、高いですもんね」 ふふ、と笑う山岡は、この先何を言い出そうとしているのか。 日下部は、ごくりと唾を飲み、覚悟を決めた。 「逃げて、ひっそりと生きようと思ったんですけどね…保証人もいない、金も学歴もない、そんな未成年の子供が、住む場所どころか、働く場所を探すのすら困難で…」 「うん」 「まぁ、考え付く先って…1つですよね?」 ふっと苦笑する山岡が考えたことは、日下部にも簡単にわかった。 「夜の世界か」 「はぃ…。ホストとか、そういういいものじゃなくて…身体…」 売れる物は、それしかない。 自分の容姿を憎んでいた山岡に、その美貌を使うことなど思いつくはずもなく、持てる身体を金に変えようと考えたことは想像に難くない。 「売った?」 「っ…売ろうと、しました…。けど、しませんでした」 「そ、うか…」 日下部は、山岡の言葉に、ホッとする。 けれどその反面、それをしなかった山岡が、どうやって生きる糧を得たのか、それはそれで、大変な事実がありそうでドキリとした。 「身体を売ろうとしたオレを…ある交換条件と引き換えに、買ってくれた人がいました」 「っ?交換条件…?」 「突拍子もない話ですよ…。家族に、なってくれ、と」 ニコリ、と微笑んだ山岡は、その相手に負の感情は持っていない様子だった。 「家族…?」 「まぁ、正確に言うと、相続人」 「っ?!」 クスッと笑い声を上げた山岡は、その相手のことを思い浮かべているようだった。 「不思議な人でした。自分は長くない、だけど、血のつながった息子や親族に金を残すのは死んでも嫌だって」 「へぇ…」 「だから、まったく関係のない他人の誰かに譲ってしまおうと。その日、出会った誰かから選ぼうと」 「……」 「たまたま街で出くわした、身体を穢そうとしていたオレが、目についたって…」 変でしょ?と首を傾げる山岡に、日下部は小さく苦笑した。 「あぁ…」 「後でね、何でオレを選んだの?って聞いたことがあるんです。そしたら、手、だって」 「手?」 「オレの手が気に入った、って。意味がわかりませんでした。でも、その言葉の意味を、オレはすぐに理解することになりました」 微かに震えた山岡が、その後どんな経験をしたのか。 日下部は、また黙って頷いて、先を促した。 「山岡さんは…あぁ、その人、山岡汰一さんって言うんですけど…むかし、お医者さんだったそうです」 「っ…」 「医者で、大学病院の教授で、とても偉くて、とてもすごいお医者さんだったそうです」 「そうか…」 コクン、と頷いた日下部は、徐々に、山岡の話の先が見えてきた。 「もう引退していて…そしてその頃は、ガンを患って…もう、リンパも…肝メタ(転移)も…ううん、全身に…」 「っ…」 「そんな、重いものを抱えながらも、山岡さんは、ずっとずっと、オレには優しかった」 「ん…」 「相続のためにオレを養子にして、引き取って…それでもちゃんと、オレを愛してくれたんです。オレは初めて、人に抱き締められる温かさを知りました」 「あぁ、その人だったのか…」 「え?」 「いや…」 以前、山岡が寝ぼけがてら、『ぎゅってするとあったかかった』と呟いたことがあったのだ。 そのことを思い出して笑った日下部に、山岡はキョトンと首を傾げていた。 「何でもないよ。で?」 「あ、はぃ…。オレは、そんな山岡さんに、どうしても恩返しがしたくて…。山岡さんの病気を、ただ治したいと思って…」 「うん」 「でもその頃のオレは、あまりに無知で…子どもでした」 ステージⅣ。いわゆる末期のがん患者を治すすべは、現代医療にはないと、当時の山岡は理解していなかった。 「オレが治す、って。オレが医者になって、必ず治すから、って…はは、ステージⅣのがん患者ですよ?今なら笑っちゃうけど…あの頃は本気で」 「うん」 幼かった山岡の真っ直ぐな気持ちは、日下部には理解できた。 「山岡さんも、笑ってくれていました。じゃぁ頼むなって。お願いな、って。泰佳になら、きっとなれるって。この、手が…。オレのこの手は…この先、たくさんの人の命を掬いあげる手だ…って。泰佳ならなれる。立派な医者になって、そしておれを治せるって…」 「うん、うん」 「だけど…やっぱり、長くないって言ってたのはほんとうで…それから間もなく、亡くなりました…」 「うん」 シュン、と俯く山岡の、当時の落胆は、想像を絶するものだっただろう。 「初めて絶望を感じました。親に捨てられても、引き取り先を追い出され続けても、あんなに悲しかったことはなかったのに…」 「うん」 「悲しくて、涙が止まらなくて、どうにかなるかと思いました」 「うん」 その慟哭を、日下部は想像するしかできなかったが、生まれて初めて愛に触れたこどもが、それを突然喪失したという思いは、きっと深い深い絶望だということは、容易に考え付いた。 「どうにか…なりそうなのに、公開された遺言状…」 「っ!」 「そうだったんですよね。オレは、山岡さんの相続人になるために、引き取ってもらったんです」 「っ…それは…」 「えぇ。正直いりませんでしたよ、お金なんて。そんなことより、山岡さんを返して欲しかった」 「うん」 「だけど、それが叶わぬ夢だということくらいは、さすがにオレにもわかっていました」 「うん」 ポロリ、と山岡の目から、一滴の涙が伝った。 「だからオレは、それを拒まず、すべて山岡さんが書き遺した通りに相続しました」 「そう…」 「本当の息子や親戚が、いくら責め立てても、譲るものかと。どうせオレは疫病神。だけど山岡さんの想いだけは、裏切りたくなかった」 「山岡…」 「はい。オレは、その受け取ったお金を、進学資金にしました。中卒のオレでも、必死で努力して、高認を取って、医学部を受けて」 「っ…」 それは、小学校も、そして中学すらまともに出ていない山岡にとって、どれほど血の滲むような努力だったのか。 それでも今、こうして医者をしている山岡が、その答えだった。 「おまえは…」 「ん?はぃ。ちゃんと受かりましたよ?ちゃんと、医者になりました」 「うん…」 ケロリと言う山岡の、その先がまたきっと辛いことを察していて、日下部は、そっと山岡の肩を抱いた。 「日下部先生?」 「いや。温もり…分けて?」 「えへへ…はぃ。…それで」 「うん」 「もう1つ、遺言状とは別に、オレへの手紙が…」 「手紙?」 「はぃ。むかし、山岡さんが医者をしていた頃に、世話をしていたという、大学病院の先生の名前が、そこに」 「っ!」 「もしも本当に医者になったのなら、きっと力になってくれる人だから、と」 山岡の将来の心配も残してくれた亡き山岡氏は、本当に山岡を愛してくれていたのだと、日下部は感じた。 「それが…」 「甘えたのが間違いだったんですかね?結局オレは、山岡さんのその好意を、ぐちゃぐちゃに壊してしまった…」 「え…?」 「息子さん…。山岡さんに、本当の息子さんがいたって言いましたよね?その人も、やっぱり医者でした」 「っ…」 「そうなんですよ。同じ、大学病院の」 「それは…」 「親父をたぶらかして、大金をせしめた男娼。その顔使って、身体使って、山岡大先生をたらしこんだ、好き者」 「っ!山岡っ…」 「大丈夫ですよ?ほんとうのことだから」 「嘘言えっ…」 「いえ。周りから見たら、本当にしか見えないでしょう?」 納得しているように微笑む山岡の深い傷は、今でもやっぱり簡単に癒せるものではないと、日下部は痛いほど感じた。 「そんな言われ方をしていたオレを…山岡さんが書き遺してくれた名前の…そのときにはもう、教授であったあの人が、後見を名乗ることで守ろうとしてくれた」 「っ…」 「敵ばかりの大学病院の中、オレはその手に縋ってしまった。だけどあの人は、山岡大先生の残した派閥を、継いだ人だったんです」 「それは…」 「新たな火種。オレ、本当、疫病神で…。何にもわかってなかった」 「山岡…」 ははっと自嘲する山岡が、何故今、ここまで自分を卑下するのかは、日下部は悲しいほど理解できた。 「今度はオレは、その教授をたぶらかした…んですよね」 はたからは、どうしたってそう見えることを、山岡は諦めと共に受け入れていた。 「あの人はね、オレの腕とか、診断とか、ちゃんと医者としての部分も、買ってくれていたんですよ?山岡さんが遺したからだけでなく、オレを見てくれてたと思います」 「うん…」 「でも、反対派閥の人から見たら…そうやってちょっと目立ってちやほやされるオレは、気に入らない存在で。ましてや、色目使って取り入った、って言われてたオレだから…」 「っ…」 「本当は、味方のはずの、あの人の派閥内からも…最初はオレを快く迎え入れてくれていた人の中からも…オレを厭う人たちが出始めて…」 日下部は経験がないが、大学病院の人間の上昇志向は、噂で耳にしたことがあった。 「この醜い顔が全部いけないんですっ…オレが、オレが壊した…。山岡さんが、大事に積み上げてきたもの。あの人が、さらに繁栄させたもの…」 「っ、山岡、やめろ」 あぁっ、と頭を抱えた山岡を、日下部は急いで抱きしめ、制止した。 「あ…。いえ、すみません。大丈夫です…」 日下部の温もりに、過去に引きずられかけた意識が戻ったのか、山岡はふぅっと息をついて、小さく苦笑した。 「大丈夫です」 「山岡。無理するなよ?」 「はぃ。だって、ここから先が、川崎先生の話ですよ?」 そういえば、そうだった。まだ出てきていなかった本題の人間の名前に、日下部がそっと腕を緩めた。 「オレは…ただ、人の命を、少しでも多く、助けたくて…。山岡さんが遺した派閥も、そういう考えが大きな人たちばかりで」 「うん」 「そのために、オペの技術を磨いたし、たくさんの勉強もして…。それはただ、人の命の手助けを、少しでも多くできればというだけで…。決して、権力が欲しいからでも、自分の力を自慢したいからでも、なんでもなくて…」 「うん」 「あのとき…。ただ消えゆく山岡さんの命の前に、なんにもできなかった自分が、何にも知らないで、救えると思っていた自分が情けなくて」 「うん」 「ひたすら、人命を想って…」 「うん」 「それをね…川崎先生は、理解してくれていたんですよ」 ニコリ、と微笑んだ山岡に、日下部はわかっていてもわずかな嫉妬が浮かぶのを感じていた。 「川崎先生か…」 「はぃ。オレが、山岡大教授の養子でもなく、最大派閥の教授の後継者でもなく、ただの、山岡泰佳っていう、山岡さんの命を救えなかったことをずっと気にしている、ただの無力な医者だって…」 「そう…」 「自分の無力を理解して、だからこそ必死で腕を磨いているだけの、そんな人間だって…川崎先生はね、オレを、天才、天才って言いながら、いつもからかってた」 「……」 「敵も、味方も、誰が笑顔の裏で、憎しみを孕んでいるのか、誰が優しい言葉の裏で、足を引っ張ろうと目論んでいるのか。もうオレには、なにもかもがわからなくなっていたとき…」 「ん…」 「川崎先生は…ただ真っ直ぐに、患者の命だけを見つめていた。周囲の思惑にも煩わしい言葉たちにも惑わされず、ただ真っ直ぐに患者を見て…そしてただ真っ直ぐに、オレを、見てくれた…」 「そうか…」 「同じだよ、山岡先生と同じで、ただおれも患者救いたいだけだって。真っ直ぐ、真っ直ぐ命と向き合って、真っ直ぐ真っ直ぐオレを見た。だからオレは…それが眩しくて…。この光は、信じられるって…。最後まで、信じ抜けた人なんです」 ふわりと笑って言う山岡が、温かい涙を一筋、頬に伝わせた。 「山岡先生、もういいよ。もうやめよ?って…最後にくれた川崎先生の言葉を、オレは今でも忘れませんよ」 「っ…」 「ここでなくても医者はやれる。むしろ山岡先生は、ここじゃないほうが医者をやれる」 「っ」 「山岡先生が欲しいのは、地位や名誉じゃないだろう?山岡大教授の遺したものを守ることでもないだろう?山岡先生はただ、目の前にある命を、どれだけ多く掬いあげられるか。救えなかった山岡大先生の命の分も、どれだけ多く掬いあげ、病から解き放ってあげるか。欲しいのは、ただそのためだけの、腕や知識だろう?って」 「あぁ…」 「だからオレは、大学病院を去りました。今の病院で、医者を続けてます」 「山岡…」 「大切な人なんです。だからオレ…精一杯、オレにできること、してあげたいと、思ってます」 スッと顔を上げて、ニコリと微笑んで言った山岡に、日下部は、深い嫉妬を感じると同時に、穏やかに納得した。 「本当は、俺がそこにいたかったな」 「え?」 「山岡がとても辛かった時。川崎先生って人じゃなくてさ、俺が」 「……はぃ」 「でも、山岡が大切な人、っていうのもわかるよ。わかるから…ごめんな?」 嫉妬して。酷いことして。山岡を傷つけて。 真摯な想いをこめて告げた日下部に、山岡は小さく首を振って笑った。 「もう気にしてません。オレこそ、ちゃんと言わなくて…」 「ん」 「好き、ですよ、日下部先生」 「違うだろ」 「ん…千洋…」 初めて、山岡から仕掛ける、つたないキス。 伸びあがって口をつけて、日下部が何度か教えた通りに、必死で舌を使おうとしている山岡のキス。 それは、まだまだとても下手くそなんだけど、日下部には、たまらなく愛しいものだった。 「ふふ。初めて泰佳からしてくれた」 「っ…」 日下部のそれよりはずっと短く、パッと離れていった山岡が、顔を真っ赤にして俯いた。 「泰佳、好きだよ」 「ん…」 「大好きだ」 「はぃ…」 へらりと緩んだ山岡の顔は、とても幸せそうだった。

ともだちにシェアしよう!