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第36話
「さてと。大分遅くなったけど…夕食作るか」
はぁっ、とさすがに疲れたように言って、日下部がソファから立ち上がった。
「山岡、昼も抜きでこの時間じゃ、さすがにお腹ペコペコだろ」
「あ~?はぃ」
いまいち響かない返事に、日下部は苦笑する。
「本当にな、おまえ、もうちょっと食事をだな…」
「ぁ。今日はオレも手伝います」
「は?」
「オレも一緒に…」
料理、と呟く山岡に、日下部はたまにはいいかと頷いた。
「じゃぁしてもらおうかな。おいで」
キッチンに回って行きながら、日下部が山岡を手招いた。
素直にピョコンとやってくる山岡に、並んで立つスペースを空けてやる。
「オレ、何すればいいですか?」
「あ~、じゃぁ、とりあえず玉ねぎ切って」
はい、と包丁と玉ねぎを渡した日下部に、山岡は嬉しそうに頷く。
「まな板そこな」
ひとまず包丁と玉ねぎを台の上に置き、前髪を持ち上げている山岡を振り向く。
「お~、そっか、邪魔だもんな。いいねぇ」
綺麗な山岡の素顔が晒されて、日下部が嬉しそうに目を細めて見ている。
「ちょ…あまり見ないでください…」
途端にウロウロと視線を彷徨わせてしまう山岡は、本当に顔を出すのが苦手だ。
日下部も、大部分を聞いた過去の話で、それが仕方のないことだとも思うけど、やっぱりもったいないとも思うのだった。
「ほら、見ないから、どうぞ」
サラリと嘘をつける日下部は、やっぱり悪い人なんだろう。
それでも、見ないという日下部の言葉をあっさり信じ、山岡は示されたまな板を出して、玉ねぎをその上に乗せる。
「スライスな」
「えっと、薄く切ればいいんですよね?」
「うん…うんっ?」
まな板の上に乗せた玉ねぎに、ストンと包丁の刃を入れた山岡の手元を見て、日下部がギクリと身を強張らせた。
「ちょっ…山岡…待て…ひぃっ!」
ストン、ストンといい音を響かせて玉ねぎを切ってはいるのだが、その手元があまりに危うくて、見ている日下部にとって怖すぎた。
「山岡っ…ちょ、それ…」
「え?」
「うわぁ!手元見ろ、手元~!」
とてつもなく危なげに包丁を扱う山岡に、日下部はハラハラしすぎて見ていられなくて、ついに横から手を伸ばしかけた。
「待て、もういい、止めてくれ…」
「っ!痛っ…」
日下部が手を出すより一瞬早く、ストン、と包丁を下ろした山岡が、ついに押さえていた手の指先を切った。
「あぁぁ…」
手遅れだった、と思ったときにはもう、スッと赤い筋が出来た山岡の指先から、ジワリと湧いた血が、ポタポタ落ちていた。
「取りあえず洗って!診せてみろ」
包丁を取り上げ、切った方の手をグイと掴んで水道に導き、ジャーッと流水で洗った日下部。
痛むのだろうか、山岡が微妙に顔を歪めている。
滲んだ血が軽く流されたところで、水から外した山岡の指先を、日下部はじっと見た。
「まぁ、縫うほどじゃないけど…。山岡、おまえな…」
「はぃ…」
「何で、メスを持たせれば、ミリ単位で正確に腕を揮うやつが…包丁持ったらこんなに不器用なんだよ?意味がわからん…」
はぁっ、と溜め息をつきながら、救急箱でもあるのだろう。リビングにそのまま山岡の手を引っ張っていく日下部。
「もう山岡、料理禁止」
「えぇっ?」
「当たり前だろ?あんな恐ろしい包丁の使い方するやつに、やらせられるか!」
リビングのキャビネットから救急箱を持ち出した日下部が、山岡をソファに座らせて、グイッと手を引っ張る。
怒りながら消毒され、絆創膏を貼られている山岡は、とても不満そうだ。
「でも…慣れてなかっただけで…」
むぅ、と口を尖らせる山岡は、珍しく表情が全開で見えるせいで、ますます思っていることがだだ漏れだ。
「慣れの問題か、あれ」
「そうですよ…」
「いや駄目だ。駄目。絶対禁止」
「何でですか…」
やりたい、と思っているのがバレバレの、山岡の完全な不満顔。
「山岡な、自分が何者か忘れてないよな?」
「え?」
「おまえは外科医。その大事な大事な指をな、こんな傷つける恐れがある真似、俺がさせられるか」
「っ…ぁ」
「わかったら料理は今後一切禁止。もし破ったら…」
「っ!」
「痛いお仕置きな」
「ぅ…」
ビクリ、と身を強張らせた山岡に気づき、日下部は満足そうに笑った。
「明日オペないよなぁ?」
「え~と…」
ツゥッとあらぬ方に視線を向ける山岡に、日下部はスケジュールを思い出す。
「…昼間は外来とカンファだけど…おまえ、オンコールか」
「あ~…」
「はぁっ。よっぽどな急患来たら、変わってやるよ…」
監督不行き届きだしな…と苦笑する日下部に、申し訳なさそうな山岡。
「ある程度はできますよ、これくらいの傷」
「まぁ、オンコール0、もしくはそこそこの急患なのを祈るさ」
「すみません…」
「でも山岡、逆に、あのメス捌きはなんなんだ…?」
日下部が惚れた、完璧なオペを行う山岡の手。
それがまさか、オペ以外には不器用だなんて、誰が想像するだろう。
「オレも初めて知りましたよ?包丁って扱いにくいですね」
難しいものだ、と首を傾げている山岡に、毒気を抜かれてしまう日下部。
「ぷっ…。まぁそれじゃぁますます、俺が美味しいものを作ってやらないとな」
ニコリ。極上の笑顔を見せた日下部に、山岡が恥ずかしそうに俯いた。
「いい子で待ってろ」
ぽん、と1つ山岡の頭を撫でて、日下部がキッチンに戻っていく。
ソファに座ったままの山岡の、珍しく前髪を上げてバッチリ見える顔が、カァッと赤く綺麗に染まった。
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