195 / 426
第195話
そんなこんなで、原に預けられた将平は、それでも午前中大人しく過ごしていた。
原の方も急患も何もなく、のんびり医局で過ごした。
山岡は病棟を回ったり検査室に行ったりとフラフラしていたらしく、昼に外来を終えて日下部がナースステーションに顔を出したときにも、山岡の姿はなかった。
「う~ん、どこ行ったかな?」
はて?と首を傾げながら、日下部はとりあえず更衣室に足を向けた。
携帯のチェックついでに、術衣に着替えてしまおうと考えていた。
そうしていれば山岡が病棟に戻ってくるだろうと向かった更衣室で、日下部はちょうど取り出した携帯の着信が鳴ったのに気づき、計ったようなそのタイミングに苦笑した。
「休憩時間も把握済みってことね。相変わらず有能だこと」
ディスプレイに表示された、父の秘書の名を見て、日下部は通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『こんにちは、千洋さんですか?今お時間よろしいでしょうか』
電話の向こう側から、馬鹿丁寧な男の声が聞こえてくる。
「いいですよ。ですが手短にお願いします」
『ありがとうございます。留守録をお聞きしました。社長が明日お会いするそうです』
本当にいきなり用件だけを告げてきた秘書に、日下部はゆるりと目を細めた。
「明日ですね。土曜だし、都合いいですよ。時間と場所は?」
『千洋さんにご希望がなければ、11時に最上階で』
サラリと告げる秘書に、日下部の表情が苦いものになった。
(あくまで自分のテリトリー内に出向かせるつもりね。本当、性悪)
最上階、の意味は、今更説明されなくても、日下部にはよく分かっていた。
本社社長室。それを敢えて指定してくる父に苦いものを感じながらも、日下部は単調な声を電話口に放った。
「分かりました。ときに預かりものの方は?」
『そちらは今夜、Kホテルラウンジに。お時間の指定はありますか?』
一方的な言いぶんに呆れ返りながらも、日下部は渋々口を開いた。
「7時半で」
『かしこまりました。先方にもそう伝えておきます。急患が出た場合、その限りでないことも。ご一報だけ私に下さい』
先んじて手を打つ秘書の有能さにイラっとしながらも、日下部はそんな感情はわずかも出さずに、淡々と返事をした。
「分かりました」
『では私の方からはこれで。失礼します』
「はいはい、どーも」
電話の向こうで深く一礼しただろう秘書の様子が分かった。
対して日下部はぞんざいに会話終了を告げ、プツンと乱暴に通話を切ってしまう。
「ふん。たぬきが」
ガコンと自分のロッカーに乱暴に携帯を放り入れた日下部が、バサリと白衣を脱いだところに、コンコンと遠慮がちなノックの音が響き、ソロリと山岡が入ってきた。
「あ、日下部先生、見つけました」
「あぁ、山岡先生。探した?」
「いえ、オレの方こそフラフラしてて」
ニコリと笑って首を振った山岡に微笑み返しながら、日下部はシュルリとネクタイを解いてシャツのボタンを外し始めた。
「え、わ、あの、ちょっと…」
急にワタワタと慌て始め、目を泳がせる山岡に、日下部が気づいた。
「ん?」
「っ…。あ、あのっ…まだ昼で…じゃなくて、職場だしっ…」
アセアセと焦っている山岡の目の前で、スルッとシャツを脱いで上半身をあらわにした日下部は、山岡の台詞の意味を察して、思わず吹き出した。
「ぷっ、ふふふ。山岡先生、や~らしい」
クスクス笑いながら、今度はロッカーから緑色の術衣を取り出して、スポッともぐった日下部。
それを見た瞬間、山岡の顔がカァッと真っ赤になり、ガタンッと別のロッカーの壁によろめいてぶつかっていた。
「あらら、大丈夫?ん?やらし~山岡先生は、一体何を期待しちゃったのかな?」
ニコリと微笑む日下部から、全力で目を逸らして、山岡はフルフルと首を振っていた。
「な、何でもありません」
「ふぅん?本当に?」
「ほ、本当ですっ。こ、更衣室ですもんね。午後からオペですもんね」
うんうん、と1人で必死に言っている山岡に、日下部のニヤリとした悪い笑みが向いた。
「そうだな。ここは着替えをする部屋だよな?あれ?でも山岡先生、何か違う用途考えついちゃったみたいね?」
「っ…」
「着替え途中の俺の裸見て、こういうこと思っちゃった?」
ニヤリと意地悪く笑った日下部が、涙目で首を振る山岡の顎を捕らえ、上向かせた。
「んっ…」
容赦無く山岡の唇を自分のそれで塞ぎにかかった日下部に、山岡はあっさりキスを許す。
鍵もかけていないこんな場所で、遠慮なく舌を入れてくる日下部に慌てて、山岡がジタバタと暴れた。
「んっ、ちょっ、日下部っ、せんせ…っ」
唇の間から必死で言葉をもらす山岡にもお構いなしに、日下部は深いキスで山岡を翻弄する。
さすがに慣れた上手な日下部のキスに、山岡の目が理性を失い、トロンとなりかけた、その時。
「おっと、見ちゃ駄目」
「あっ!」
不意に入ってきた人の気配と、聞こえた声に、山岡の頭が一気に現実に引き戻された。
「っ~!」
ドンッと咄嗟に日下部の胸を押し返した山岡に、大人しく離れた日下部。
2人が振り返った更衣室出入り口のドアの前には、将平の目を手で覆った原の姿があった。
「ちょっと原兄ちゃん、これじゃま」
ペシッと原の手を振り払った将平が、ツカツカと日下部の前まで歩いてきた。
「何?何か用…っ!」
ふと将平を見下ろした日下部が、完全に油断していたところに、将平の見事な蹴りが炸裂した。
しかも、日下部の脛に思い切り入ったそれ。
「っ~~!」
声もなく蹲った日下部に、それを見ていた山岡と原の顔が痛そうに歪んだ。
「こんなところでコソコソ、やすくんにへんなまねしないでよね、お兄ちゃん」
ニィッと勝気に笑って、将平が山岡の方に身を翻し、その腕にギュゥッとしがみついた。
「やすくん大丈夫?まったく、ゆだんもすきもないね」
ニコリと今度は無邪気な笑みを山岡に向ける将平に、日下部の殺人的な視線と、原の楽しげな目が向いた。
「こんのクソガキッ!」
「うわぁ、本当、ミニ日下部先生だ。さすがご兄弟」
対称的な反応の2人に苦笑しながら、山岡はしがみつかれた腕をそっと離させ、その場にスッとしゃがんで、今度は山岡が将平の両腕をギュッと掴んで、正面からその顔を見つめた。
「将平くん、オレは別に日下部先生に苛められていたわけじゃないし、まぁ、あの、元はオレが悪かったわけでね…」
「やすくん?」
「でもね、もし意地悪されていたとしてもね、いきなり人のことを蹴ったりしちゃいけないよ」
メッ、と将平の目を真っ直ぐ見て言う山岡に、将平の顔がシュンと俯いた。
「だってぼく、つよいもん。つよいから、やすくんのことだって、ちゃんとまもれるってところ、見せてあげようと…」
「将平くん。暴力は、強い男のすることじゃない。強くて優しい男はね、力で何かを解決なんかしない」
ジッと将平を見つめて真っ直ぐに言う山岡に、将平の顔がクシャリと潰れた。
「ごめんなさい…」
「オレにじゃなくて」
「っ…お、お兄ちゃん…ご、ゴメンッ」
クルンと日下部を振り返って、吐き出すように言った将平の頭を、山岡が後ろからナデナデと触った。
「うん、素直に失敗を謝れるのは、強い男の証だよ。格好いいよ、将平くん」
「っ…ほんとう?ぼく、かっこわるくない?」
「格好いいよ。間違いを認めて、ちゃんと頭を下げることは、意外と難しいことだよ?ちゃんとできる将平くんは格好いい」
大丈夫、と笑って頭を撫でる山岡に、将平がワーッと叫んで飛びついた。
「チッ。許すしかなくなる」
「ぷくく、なんか日下部先生よりずっとパパっぽいですね」
「だから、俺は兄だと…」
「あ~、はいはい、そうでしたね。アンタにはパパなんて到底無理ですよね。何せ、こんな鍵もかけていない更衣室で盛ってんですもんね。一体いくつですよ?まったく、これがオーベンですもんね~。本当、どうかと思…」
ペラペラと、また滑りまくっている原の口に、日下部の周囲の温度がグングン下がった頃になってようやく、ギクリと気づく原。
「あ、えっとぉ…」
「ふぅん。俺はさぁ、きみに、この子、山岡先生に近づけるな、って言ってあったと思うけど。これ何?なんか抱きつかれているんだけど?」
キラリ、と日下部の目の奥に意地悪な光が宿ったのを見て、原がすでに半泣きになった。
「だって!日下部先生、病棟に上がってきたって聞いたのに、一向にこの子の昼を迎えに来てくれないんですもん。そっちがこんなところで山岡先生とイチャついてるのが悪いんでしょうがっ」
おれは悪くない、と叫ぶ原の言葉は、たとえそれが正しいとしても、意地悪モードに入った日下部に通用するはずがない。
「言い訳無用。いやぁ、今日俺、ちょうど早く上がりたかったんだよな~。何?残った仕事やっておいてくれるって?助かるなぁ。いい部下を持ったよ、うん。何なに?ついでに来週のオペの予習もしたいって?勉強熱心でえらいな。そういえば来週、終日オペの日があったよな~。それ全部入る?いいよ、いいよ、入らせてやるな」
ニコリ。綺麗な綺麗な日下部の微笑みは、原には恐ろしいだけの悪魔の微笑みだった。
「うわぁん、鬼オーベンが苛めるぅ」
ヘタンとその場に膝を落とした原に、日下部の楽しげな笑い声が降り注いだ。
「今夜も徹夜だな」
クスクス、と笑いながら、日下部は術衣の上に白衣をバサリと羽織り、いつまでも山岡にくっついている将平をベリッと剥がした。
「ほら、昼ご飯行くぞ。山岡もいい加減立て。まさかさっきのキスで腰が抜けてるわけじゃないんだろ?」
「っ…く、日下部先生っ!」
「うわっ、もうお兄ちゃん、らんぼうはやめてよね。ねぇおひる、やすくんもいっしょ?」
「当たり前だろ」
「わ~い、やすくん、いこいこ」
パッと日下部の手から逃れ、山岡を助け起こそうと手を出した将平。
対抗するようにその横から、山岡の腕を素早く取って、ふわりと立ち上がらせる日下部。
「あ、ありがとうございます」
一瞬よろめいて、トンッと日下部の胸に体を預けてしまった山岡が、恥ずかしそうに照れてから、ニコリと笑った。
それが何ともいえなく嬉しそうな笑顔で、将平の顔がムッと膨れた。
「ぼ、ぼくだって、すぐに大きくなって、ちか、もちになるんだからっ」
「ふふ、それでも俺に敵う日は来ないよ」
ニヤリと笑って応戦する日下部に、山岡の笑みは苦笑に変わった。
「もう、日下部先生ってば…」
「ふん。ほら原先生も、午後すぐオペだからな。早く昼を済ませて、着替えておけよ」
いつまでも床にへたり込んでいる原にヒラリと手を振って、日下部は山岡と将平を連れて更衣室を出て行った。
ともだちにシェアしよう!