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第241話
料亭を連れ出された山岡は、流れていく車窓からの景色を、ジッと見つめていた。
暗い空に、線を引いて流れていく街の灯りが見える。
焦点をずらせば、窓に映る自分の顔と、その後ろに前を見ている千里の静かな表情が見えた。
「っ…」
ゴソリと身じろげば、後ろに縛られたままの手が痛んだ。
すでに痺れてしまっている指先に、もう感覚はない。
シートに寄りかかるにも寄りかかれず、車が揺れるのが辛い。
「はぁっ…」
思わず漏らしてしまったため息に、隣の千里がゆっくりと首を巡らせた。
「なんだね?」
「っ、いえ…」
言いつけを守らず、谷野にまで日下部を裏切らせて、挙げ句こんな目に遭っているのは自業自得だ。
きっとそろそろ病院内にいないことがバレて、日下部が怒っているんだろうな、と思ったら、ついついため息が出てしまう。
しかもこれからどうなるのかもわからない。
「……」
車の窓から目を離し、車内の千里の方を直に見た山岡は、ジッと自分を見つめてくる千里の目に気がついて、ビクリと身を竦めた。
「あの…」
「なんだね?」
ジーッと山岡を見たまま、同じ言葉を繰り返す千里。
その声が思いの外柔らかくて、山岡は混乱しながら、ストンと目を落とした。
「病気…」
ポソリと呟いた山岡に、千里がスッと足を組み替えて、フゥーッと長い息を吐いた。
「知りたいか?」
「っ…」
「どうぞ?何が聞きたい」
「っ…あの…」
拒絶されるかと思っていた山岡は、思ったよりもずっと柔らかい空気を纏っている千里に勇気が出て、ゆっくりと口を開いた。
「重いんですか?」
およそ医師とは思えない発言に、思わずといった様子で千里が吹き出した。
「ふっ…。てっきり病名や病状を聞かれるかと」
「え…あ」
「ふふ。きみなりの気遣いだと受け取らせてもらう」
ニコリと笑う千里は、やっぱり日下部にとてもよく似ていると山岡はぼんやり思っていた。
「どちらにせよきみを帰す気がないのだから、病名を聞かれてしまっても困らないよ」
「っ…」
「食道癌だ」
サラリ、サラリと言葉を重ねた千里が、その流れでサラリと病名を口にした。
おかげで一瞬、山岡はスルリと聞き流してしまう。
「え…」
「だから、食道癌だと」
「っ!」
聞き分けのない子供に聞かせるようにゆっくりと繰り返した千里に、山岡の目がフラフラと揺らいだ。
「そういえばきみの専門分野だな」
「っ…びょ、病期は?」
ドキドキと緊張しながら声を震わせた山岡に、千里はあっけらかんと口を開いた。
「Ⅱ期」
「っ…」
「進行癌というんだそうだな」
フッと吐息とともに言われた千里の言葉に、山岡は静かに頷いた。
「すぐに治療を始めないとならないらしいな」
スッと山岡から窓の外に視線を逸らしてしまった千里の声に、山岡がパッと顔を上げた。
「当然ですっ…」
「でも今はできない」
薄く目を細めた千里の表情が、暗い夜の街を背景にした車の窓に映っていた。
「っ、食道はっ…他に比べて、漿膜がないからっ…浸潤しやすいし、周囲にも、気管支や肺に心臓…大動脈だってあって…。リンパ管も血管も多い、だから…転移も早いっ…。放っておいたらそれこそすぐに…」
待っちゃ駄目だ、と声を震わせる山岡に、千里は静かに頷いた。
「病気を見つけた医師にも同じことを言われたよ」
「じゃぁ!」
ガバッと身を寄せてしまった山岡に、ゆっくりと視線を戻した千里が、静かな表情のまま首を振った。
「すぐにすぐ、入院したり、手術を受けたり。ましてや抗がん剤治療を始めたりは、できない。する気がない」
「どうしてっ…」
「私には、大事な会社がある」
「っ、そんなの…」
「聞いたんだ。手術や薬で治しても、完治する確率や、再発率。そして、5年生存率…の数字をね」
グッとどこか覚悟を決めたように低い声で言葉を紡ぐ千里に、山岡は小さく息を飲んだ。
「食道というのは、がんの中でも特に予後が悪いものだそうだね。生存率はもちろん、合併症や後遺症もだんとつに多い」
「っ…」
言葉を詰まらせてしまう山岡は、医師であるがゆえ、その事実を千里よりもずっとよくわかっていた。
「そうと知れば、何を優先してやるべきかは自ずと見えてくる。私は、治療よりも、今後の会社経営を。治療をしたところで、5年生きられる可能性が決して高くはないのならば…治療より先に、やるべきことがある」
「それは…」
「リスクの高い賭けに出るより、今ならまだ動けるから。その動けるうちに、私がいなくなっても大丈夫だという会社にしたい。正式な後継者を迎え、安心して隠居したい」
「っ…」
「同じない時間ならば…私は、数年後の未来を後悔しないために、今は、命よりも、大事なものがある」
わずかも揺らがない口調で告げられた千里の言葉を、山岡は落ち着いて受け止めた。
「QOLという考え方ですか…。だから時間がないと?日下部先生を、何が何でも連れて行こうと…」
「クオリティーオブライフ…そう言うそうだな…」
「でもっ、でもまだⅡ期なんでしょう?」
「もうⅡ期だ」
「諦めてしまうには早すぎますっ…。Ⅱ期なら切れる。資料を見なくちゃわからないけど…オレは、そう低くない確率で治ると思います」
きっと見つけた医師もそう説明したはずだ。
必死で言う山岡に、千里はゆるりと目を細めた。
「治せるか?」
「え…?」
「きみが、治してくれるのか」
挑むように、試すように。ジッと山岡を見て尋ねる千里から、山岡は目を逸らさなかった。
「手を貸すことはできます」
単調な、なんの起伏もない声だった。
けれどだからこそ、山岡の本気が伝わる言葉だった。
「治せるとは言わないのか」
「言えません…」
「そうか。きみはやはり、優秀らしい」
フッと笑った千里が、そこでようやく山岡から目を逸らした。
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