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第240話

「原先生、休憩したら?」 デスクについたまま、何かを真剣に読んでいた原が、日下部の声にふと顔を上げた。 「あ、日下部先生。病棟回りに行ったんじゃ…あれ?とら先生?」 どうしてここに?と不思議そうにする原に、谷野のいたずらな笑顔が向いた。 「サボリや」 ニッと笑う谷野に苦笑しながら、原が椅子から立ち上がった。 「お茶いれますね」 ニコリと微笑んで奥の給湯コーナーに足を向けた原に、日下部がふと声をかける。 「原先生の分もお菓子もらってきた。デスクに置いておくな」 「え?ありがとうございます。日下部先生は?コーヒーでいいですか?」 相変わらず、毎度毎度飲み物を聞いてくる原に、日下部のうんざりした目が向いた。 「だから、飲み物くらいで苛めたりしないから、いちいち聞かないでくれる?」 どんだけ信用ないんだよ、と苦笑する日下部を、勝手に室内のソファにドカッと座りながら谷野がケタケタ笑った。 「そうやって油断させといて意地悪するんがちぃやもんな?」 わかるで~、と笑う谷野に、原が激しく同意し、日下部がベシッと谷野の頭を叩いた。 「でっ…。暴力反対や~」 「うるさいよ。しかもソファ占領しないでくれる?」 邪魔、と手を振る日下部に、谷野の盛大なアカンベーが向いた。 「……」 「なんやねん」 「いや…」 ハァッと派手なため息をついた日下部は、相手にするのが面倒くさいと言わんばかりに、スタスタと自分のデスクまで行き、事務椅子に座って、コロコロと移動してきた。 「どうぞ、とら先生。日下部先生」 バリスタで淹れたコーヒーを2つ、それぞれ谷野と日下部に手渡した原が、自分の分を取りにまた戻っていく。 「さんきゅ~な」 「どうも」 アツアツのコーヒーを受け取り、2人の声が重なった。 「ふぅ、生き返るわ」 「死んでたの?」 「ゾンビか、おれは!」 谷野の呟きと日下部の茶々に、間髪入れず返る谷野の突っ込み。 2人のテンポのいい会話が聞こえていた原が、自分のコーヒーをもってデスクに戻りながら、盛大に吹いていた。 「ぶはっ。お2人の会話、ヤバイ」 ヒーッと涙を浮かべて笑っている原に、日下部の冷たい視線と、谷野の勝ち誇った目が向いた。 「どこに笑う要素があった?」 「へっへん。ウケたわ」 対照的な2人の様子に、またも原がヒィヒィ言いながら笑っていた。 「きみのツボが分からないよ」 「確かに沸点低いわ~」 今度は日下部と意見が一致した谷野が、ゴクンとコーヒーを嚥下した。 「それにしても山岡、どこ行ったかなぁ?遅いね」 ふと、腕を上げて時計を見た日下部に、谷野がチラッと視線を向けた。 「さぁ?まぁなんや用事があるんやろ」 「この時間に病棟出て、どこに用があるんだろうな」 「別に、薬局とか検査室とか…」 いくらでもあるやろ、と苦笑する谷野に、ジーッと日下部の目が向いた。 「なんや」 「とら、なんか知ってない?」 凝視、というのが正しいほど、日下部が谷野をガン見した。 「なんか?なにを?」 「ほら」 「は?」 ギロッと途端に鋭くなった日下部の視線に、谷野が反射的にピクリと頬を一瞬引きつらせてしまった。 「誤魔化すときの自分の癖、知らないの?」 ニコリと微笑む日下部だけれど、その目が全く笑っていなかった。 「誤魔化すて、なにを…」 「そうやって、山岡先生の名前を口にしない」 「っ!」 「話題の対象自体をしらばっくれるときのとらは、確実に何か知ってる。長い付き合いなめるなよ?」 さぁ吐け、ほら吐け、と椅子ごとズンズン迫ってくる日下部から、谷野はシラッと顔ごと目を逸らした。 「なんも知らん」 「へぇ?堂々と嘘つくわけね。なら俺にも考えあるよ?」 ニコリと微笑む日下部の笑みは、慣れた谷野さえ鳥肌が立つような、真っ黒で意地の悪い笑みだった。 「お、脅すんか…?」 「脅しで済めばいいけど」 「っ…」 「原先生。悪いんだけど、山岡先生のロッカーに鞄と私服あるか見てきて」 谷野を威嚇したまま、声だけ原に放った日下部に、原がピョコンと椅子から立ち上がった。 コトンとコーヒーカップがデスクに置かれる音が響く。 「はいっ」 「……」 「なに?」 ドアに向かいかけた原の背に向いた谷野の視線に、日下部が勝者の笑みを浮かべた。 「行かんでええ」 「ふっ。それはつまり、鞄も服ももうないことをとらが知ってるってことだな」 「…そうや」 ホールドアップして笑った谷野を見て、日下部は視線だけで原に戻るように伝えた。 「あ、はい…」 険悪なムードになっている先輩2人を窺いながら、原はオズオズとデスクに戻った。 「俺はとらに、山岡をガードしてくれ、って頼まなかったか?」 「頼まれた」 「それが何?むしろ正反対の協力をしてるって、どういうこと?」 ふざけすぎ、と冷ややかに言い放つ日下部に、谷野はギュッとカップを握り締めた。 「おれは…おれが信じる道を行くことにしただけや」 「それでっ、それが山岡をどんな目に遭わせるか、とらにわからないわけがない!」 「……」 「とら!」 「せやな。おれは、山岡センセが多少の犠牲になってもええと…そう思って送り出した」 どんな罵声も怒りも受け止める覚悟で告げた谷野に、けれど日下部はそのどちらも向けなかった。 「俺、見えてない?」 「え…?」 「まさかとらに裏切られるなんてさ、これっぽっちも思ってなかったよ。俺、そんなに冷静さを欠いてる?」 そんな計算ミスはしないという絶対の自信がある日下部は、だから自分が無意識におかしくなっているのかと、谷野に問うていた。 「っ…ちゃうねん。すまん…」 ストンと俯いた谷野は、わかっていた。 日下部が言うことは、正しい。そして谷野がしたことが、日下部にとっては正しくないということも。 千里の性格を知る谷野も、わかっていた。 だけどただ、大切な相手が違っただけ。守りたい対象が、想いが違っただけ。 「おれが大事なんは、ちぃなんや」 「俺は山岡だけが大事だと、そう言ったはずだ」 「わかっとる…」 「なら教えろ。山岡はどこだ!早く!」 すぐに追わないと手遅れになる、と怒鳴る日下部に、谷野はそれでも渋った。 「とら!」 「……言わん」 ギュッと口を引き結び、貝になるとでも言わんばかりの谷野に、日下部がスッと立ち上がった。 「わかった。じゃぁ無理にでも吐かせる」 「っ…?」 「原先生…。ラボナールもらってきて」 ジッと谷野を睨んだまま、とんでも発言をかました日下部に、原と谷野の目が同時に見開かれた。 「ちょっ、アンタなに頭沸いてんですかっ!」 「ちぃ?!あほゆうなや…」 驚きに騒ぎ出す原と谷野に冷ややかに笑って、日下部は悠然と口を開いた。 「大丈夫。ちょっと口が軽くなるだけだよ」 フッと笑う日下部に半分本気を感じ、2人がゾッと震え上がった。 確かに麻酔導入薬であるラボナールには、ゆっくり投与すれば、自白剤の効果がある薬だと言われている。 けれど人道的にも医師的にも、そんな使い方をしていいわけがない。 「ちぃ…そんなに山岡センセは、ちぃを狂わすん?」 「ずっと言ってる!大事なものはただ1つだと」 「そのために家族捨てて、自分まで省みずに…?」 行き過ぎや、と呟きながらも、谷野はどこか納得もしていた。 (せやったな…。前もそうやった。目覚めない山岡センセの看病に全霊を注ぎよって、自分の身体壊すとこやったな…。ほんま、学習せんやっちゃ) ははっ、と呆れながらも、日下部の強く深く重すぎる想いに、谷野は白旗を上げた。 「はぁ。負けや」 「とら?」 「料亭や」 「料亭…?」 「せや」 ハァッと深い溜息をつきながら、谷野はカサリとポケットから紙を取り出した。 「すぐ出る。原、お先に。きみも適当に帰れよ」 谷野から、山岡の居場所を示す紙を引ったくるように受け取って、日下部が駆け出す勢いでドアに向かった。 「待ちい!おれも行くわ!」 慌ててソファから立ち上がった谷野が、後を追った。 拒否られるかと思った谷野だったが、日下部は何を言うでもなく、けれどついてこいというようなペースで廊下を駆け出した。

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