240 / 426
第240話
「原先生、休憩したら?」
デスクについたまま、何かを真剣に読んでいた原が、日下部の声にふと顔を上げた。
「あ、日下部先生。病棟回りに行ったんじゃ…あれ?とら先生?」
どうしてここに?と不思議そうにする原に、谷野のいたずらな笑顔が向いた。
「サボリや」
ニッと笑う谷野に苦笑しながら、原が椅子から立ち上がった。
「お茶いれますね」
ニコリと微笑んで奥の給湯コーナーに足を向けた原に、日下部がふと声をかける。
「原先生の分もお菓子もらってきた。デスクに置いておくな」
「え?ありがとうございます。日下部先生は?コーヒーでいいですか?」
相変わらず、毎度毎度飲み物を聞いてくる原に、日下部のうんざりした目が向いた。
「だから、飲み物くらいで苛めたりしないから、いちいち聞かないでくれる?」
どんだけ信用ないんだよ、と苦笑する日下部を、勝手に室内のソファにドカッと座りながら谷野がケタケタ笑った。
「そうやって油断させといて意地悪するんがちぃやもんな?」
わかるで~、と笑う谷野に、原が激しく同意し、日下部がベシッと谷野の頭を叩いた。
「でっ…。暴力反対や~」
「うるさいよ。しかもソファ占領しないでくれる?」
邪魔、と手を振る日下部に、谷野の盛大なアカンベーが向いた。
「……」
「なんやねん」
「いや…」
ハァッと派手なため息をついた日下部は、相手にするのが面倒くさいと言わんばかりに、スタスタと自分のデスクまで行き、事務椅子に座って、コロコロと移動してきた。
「どうぞ、とら先生。日下部先生」
バリスタで淹れたコーヒーを2つ、それぞれ谷野と日下部に手渡した原が、自分の分を取りにまた戻っていく。
「さんきゅ~な」
「どうも」
アツアツのコーヒーを受け取り、2人の声が重なった。
「ふぅ、生き返るわ」
「死んでたの?」
「ゾンビか、おれは!」
谷野の呟きと日下部の茶々に、間髪入れず返る谷野の突っ込み。
2人のテンポのいい会話が聞こえていた原が、自分のコーヒーをもってデスクに戻りながら、盛大に吹いていた。
「ぶはっ。お2人の会話、ヤバイ」
ヒーッと涙を浮かべて笑っている原に、日下部の冷たい視線と、谷野の勝ち誇った目が向いた。
「どこに笑う要素があった?」
「へっへん。ウケたわ」
対照的な2人の様子に、またも原がヒィヒィ言いながら笑っていた。
「きみのツボが分からないよ」
「確かに沸点低いわ~」
今度は日下部と意見が一致した谷野が、ゴクンとコーヒーを嚥下した。
「それにしても山岡、どこ行ったかなぁ?遅いね」
ふと、腕を上げて時計を見た日下部に、谷野がチラッと視線を向けた。
「さぁ?まぁなんや用事があるんやろ」
「この時間に病棟出て、どこに用があるんだろうな」
「別に、薬局とか検査室とか…」
いくらでもあるやろ、と苦笑する谷野に、ジーッと日下部の目が向いた。
「なんや」
「とら、なんか知ってない?」
凝視、というのが正しいほど、日下部が谷野をガン見した。
「なんか?なにを?」
「ほら」
「は?」
ギロッと途端に鋭くなった日下部の視線に、谷野が反射的にピクリと頬を一瞬引きつらせてしまった。
「誤魔化すときの自分の癖、知らないの?」
ニコリと微笑む日下部だけれど、その目が全く笑っていなかった。
「誤魔化すて、なにを…」
「そうやって、山岡先生の名前を口にしない」
「っ!」
「話題の対象自体をしらばっくれるときのとらは、確実に何か知ってる。長い付き合いなめるなよ?」
さぁ吐け、ほら吐け、と椅子ごとズンズン迫ってくる日下部から、谷野はシラッと顔ごと目を逸らした。
「なんも知らん」
「へぇ?堂々と嘘つくわけね。なら俺にも考えあるよ?」
ニコリと微笑む日下部の笑みは、慣れた谷野さえ鳥肌が立つような、真っ黒で意地の悪い笑みだった。
「お、脅すんか…?」
「脅しで済めばいいけど」
「っ…」
「原先生。悪いんだけど、山岡先生のロッカーに鞄と私服あるか見てきて」
谷野を威嚇したまま、声だけ原に放った日下部に、原がピョコンと椅子から立ち上がった。
コトンとコーヒーカップがデスクに置かれる音が響く。
「はいっ」
「……」
「なに?」
ドアに向かいかけた原の背に向いた谷野の視線に、日下部が勝者の笑みを浮かべた。
「行かんでええ」
「ふっ。それはつまり、鞄も服ももうないことをとらが知ってるってことだな」
「…そうや」
ホールドアップして笑った谷野を見て、日下部は視線だけで原に戻るように伝えた。
「あ、はい…」
険悪なムードになっている先輩2人を窺いながら、原はオズオズとデスクに戻った。
「俺はとらに、山岡をガードしてくれ、って頼まなかったか?」
「頼まれた」
「それが何?むしろ正反対の協力をしてるって、どういうこと?」
ふざけすぎ、と冷ややかに言い放つ日下部に、谷野はギュッとカップを握り締めた。
「おれは…おれが信じる道を行くことにしただけや」
「それでっ、それが山岡をどんな目に遭わせるか、とらにわからないわけがない!」
「……」
「とら!」
「せやな。おれは、山岡センセが多少の犠牲になってもええと…そう思って送り出した」
どんな罵声も怒りも受け止める覚悟で告げた谷野に、けれど日下部はそのどちらも向けなかった。
「俺、見えてない?」
「え…?」
「まさかとらに裏切られるなんてさ、これっぽっちも思ってなかったよ。俺、そんなに冷静さを欠いてる?」
そんな計算ミスはしないという絶対の自信がある日下部は、だから自分が無意識におかしくなっているのかと、谷野に問うていた。
「っ…ちゃうねん。すまん…」
ストンと俯いた谷野は、わかっていた。
日下部が言うことは、正しい。そして谷野がしたことが、日下部にとっては正しくないということも。
千里の性格を知る谷野も、わかっていた。
だけどただ、大切な相手が違っただけ。守りたい対象が、想いが違っただけ。
「おれが大事なんは、ちぃなんや」
「俺は山岡だけが大事だと、そう言ったはずだ」
「わかっとる…」
「なら教えろ。山岡はどこだ!早く!」
すぐに追わないと手遅れになる、と怒鳴る日下部に、谷野はそれでも渋った。
「とら!」
「……言わん」
ギュッと口を引き結び、貝になるとでも言わんばかりの谷野に、日下部がスッと立ち上がった。
「わかった。じゃぁ無理にでも吐かせる」
「っ…?」
「原先生…。ラボナールもらってきて」
ジッと谷野を睨んだまま、とんでも発言をかました日下部に、原と谷野の目が同時に見開かれた。
「ちょっ、アンタなに頭沸いてんですかっ!」
「ちぃ?!あほゆうなや…」
驚きに騒ぎ出す原と谷野に冷ややかに笑って、日下部は悠然と口を開いた。
「大丈夫。ちょっと口が軽くなるだけだよ」
フッと笑う日下部に半分本気を感じ、2人がゾッと震え上がった。
確かに麻酔導入薬であるラボナールには、ゆっくり投与すれば、自白剤の効果がある薬だと言われている。
けれど人道的にも医師的にも、そんな使い方をしていいわけがない。
「ちぃ…そんなに山岡センセは、ちぃを狂わすん?」
「ずっと言ってる!大事なものはただ1つだと」
「そのために家族捨てて、自分まで省みずに…?」
行き過ぎや、と呟きながらも、谷野はどこか納得もしていた。
(せやったな…。前もそうやった。目覚めない山岡センセの看病に全霊を注ぎよって、自分の身体壊すとこやったな…。ほんま、学習せんやっちゃ)
ははっ、と呆れながらも、日下部の強く深く重すぎる想いに、谷野は白旗を上げた。
「はぁ。負けや」
「とら?」
「料亭や」
「料亭…?」
「せや」
ハァッと深い溜息をつきながら、谷野はカサリとポケットから紙を取り出した。
「すぐ出る。原、お先に。きみも適当に帰れよ」
谷野から、山岡の居場所を示す紙を引ったくるように受け取って、日下部が駆け出す勢いでドアに向かった。
「待ちい!おれも行くわ!」
慌ててソファから立ち上がった谷野が、後を追った。
拒否られるかと思った谷野だったが、日下部は何を言うでもなく、けれどついてこいというようなペースで廊下を駆け出した。
ともだちにシェアしよう!