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第246話
シーンと再び、リビングに一瞬の沈黙が下りる。
それを破ったのは、やっぱりお怒りマックスの日下部の方だった。
「で、とら」
「なんや」
「おまえはどういうつもりなんだ?」
ふん、と息を吐きながら流し目を送ってくる日下部に、谷野はクシャリと顔を歪めた。
「まぁ、ちぃのこと裏切ったんは事実やな。おれが見逃したせいで、むしろ止めずに協力したせいで、山岡センセは拉致された。手首に傷を負った」
「っ…」
「どう責任とろか?山岡センセ追いかけるの協力したくらいじゃ、償いにはならんやろ?」
わかっとる、と言う谷野を、日下部はこれでもかというほど睨み付けた。
「病棟に足止めに来たんだろ?あの患者の話は?」
「あぁ、あれはほんまや」
「偶然にしては出来過ぎだな」
「まぁな。さすがにおれの担当患者じゃなくて、無理矢理人の担当分、ぶんどってきたんやけど」
あはは、とあっけらかんと笑う谷野に、日下部の冷やかな目が向いた。
「そんなにしてまで、俺を裏切りたいか」
「ちゃうやん…。わかっとるくせにな」
いけずや、と笑う谷野に、日下部の目が覚悟の光を宿した。
「山岡を多少犠牲にしてもいいと、本気で言えるとらも、俺には必要ない」
「っ…そうして、おれまで切り捨てるんか」
「言っただろう?俺は山岡だけが大事だと。山岡を傷つけるものは全て排除する」
本気が滲む声で言い切る日下部に、谷野の目が泣きそうに歪んだ。
「ちゃうやん…。そんなんちゃうやん。山岡センセは、そんなん望んでへんのや。なんでわからん…」
「わかってないのはとらのほうだ。山岡だ。わかってないんだ。山岡は夢を見てる。本当は自分が1番絶望しているくせに。親というものに、何の希望もないことをわかっているくせに」
「ちぃ…?」
「俺とあの人がわかり合えるなんて、幻想なんだ。親のいない山岡は、居さえすればまだ間に合うと、理解し合えると、夢を描いているだけだ」
それくらいわかるだろう?と呟く日下部に、谷野はひたすら首を振った。
「夢やない。ちぃ、ゆっとくけど、山岡センセは強いで。ちぃが思うより、ずっと強い」
「……」
「ちぃに守られる必要なんて、ほんまはないんや。ゆったやん。ちぃは、山岡センセは漆黒やと。ちぃなんかよりずっと回りが見えとる。人の気持ちがわかっとる。ちぃのことがわかっとる」
「なにを…」
「弱いねん。山岡センセを守るとかゆうてるちぃが、ほんまは誰より1番弱いねん。ちゃんと見い」
「えらそうに…」
「認めえ!叔父貴と向き合う強さがなくて、山岡センセの害になるゆうて切り捨てるんは、逃げてるだけやん!」
「はっ、何を言い出すかと思えば」
「山岡センセを守るためゆうて、おれを切り捨てようとすんのは何でや?ちぃはな、臭いものに蓋をしたいだけやねん。それは、山岡センセのためやない。自分のためや」
いい加減に気づき!と迫る谷野から、日下部はフッと目を逸らした。
「馬鹿馬鹿しい。現に山岡は拉致されて、俺たちが追わなければ、どこに監禁されたかもわからない。いや、監禁で済めばまだいいよな。あのまま失踪させてしまうくらい、あの人には簡単なことだよ」
「嘘やん」
「嘘じゃない!そうして話も通じない、強硬な手段にしか出てこないあの人と、何をわかり合えという。間違っているのはとらだ。山岡だ。あの人を排除する以外、山岡を守る道はない」
本当はどこかで多分、日下部も気づいていた。
あのとき山岡が、逃げ出してきたというのではなく、丁寧に秘書にエスコートされ、隣に乗っていただろう千里にも妨害を受けずにすんなりと車を下りてきたことに。
千里の側に、山岡を本気で害する意志がないだろうことに。
それでもそれを認めてしまうには、長年掘り進めてきた父との溝が深すぎた。
「償う方法を1つ教えてやる。とら、弁護士を紹介しろ。俺の知らないやつだ。あの人の妨害が途中で入らない者だ」
「ちぃ!」
「知りたかったんだろう?責任の取り方。俺が分籍と相続放棄をするにあたって仕事をしてくれる弁護士が欲しい。そうしたら、今回山岡を見逃したことを許してやるよ」
ついにはっきりと計画を口にした日下部に、谷野の顔が限界まで歪んだ。
「…っ。なんで、信じひん…。山岡センセを、信じひんのや…」
「とら?」
「こ、とわる…」
絞り出すような苦しげな谷野の声だった。
掠れたそれを、それでもきちんと聞き取った日下部は、ハッと1つ笑い声を上げた。
「わかった。別にとらの力を借りなくても、弁護士の1人や2人見つかるんだ。それでももう1度信じてやると言ったつもりだったけど」
「ちぃ、おれは…」
「バイバイ、とら。元気でね?」
クスッと、最後はどこまでも日下部らしく楽しげに笑った日下部に、谷野の目がまん丸に見開かれ、ギュゥッと悔しそうに伏せられた。
スッとソファから立ち上がってしまい、谷野に背を向けた日下部からその表情は見えない。
まるでもう存在すら忘れたような態度で、黙って寝室のドアに向かってしまう日下部の背中を見つめ、谷野はそっとソファから立ち上がった。
「大事やねん…。それでもおれは、ちぃが大事なんよ。おれは間違うとるとは思ってへん…」
ポツリと呟きながら、谷野は静かにマンションを出て行った。
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