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第288話

「キャァァァ!ちょっとねぇ、聞いたっ?」 午後一番のナースステーション。 いきなり看護師の大絶叫から始まった、お決まりの噂話は、一体どこからどうやって嗅ぎつけるのか、昼食時に日下部が山岡と話していた内容そのもので。 「昼の食堂で、日下部先生、山岡に堂々のプロポーズ!」 「聞いた、聞いた~!もうどの科もその話で持ち切りだよ!」 ワァッ、と盛り上がる看護師たちの話は、通路を筒抜けて、病室にまで響き渡る勢いだ。 「クスクス、千洋さん、やりますねぇ」 「はぁぁっ、頼むから、やめてくれ…」 たまたま回診で秘書の病室を訪れていた日下部は、微かに届いてくるその声に頭を抱えながら、目の前でからかうような表情をしている秘書に大袈裟な溜息をついていた。 「でもまさか何事にも完璧を貫き通すかと思われたあなたが、職場の食堂で、しかも白昼堂々」 「まったくね。俺だって、まさかうっかりあんな場所であんなシチュエーションで、山岡にプロポーズまがいの発言をするとは思っていなかったよ」 フルフルと頭を軽く振りながら、日下部が疲れたように苦笑した。 「本当ならプロポーズは、夜景の見える豪華なレストランかホテルで、指輪と花束を用意して、ばっちりスーツを決めて…とか思っていたのに」 「クスクス、ベタですね」 「あぁベタさ。でも山岡にはそれがいいんだって」 「それが?ついうっかり思い余って、職場の食堂で、なんの用意もムードもなく?」 「はぁぁぁっ、だからそれは。ったく、おまえ、面白がっているだろ」 クスクスと笑い声を絶やさない秘書に、日下部のジトッとした目が向けられた。 「えぇ、非常に面白いです」 「はぁっ。あの人には言うなよ」 「どうでしょうね?あぁ、でも今日は見舞いに来る予定はありません。来週まで」 にこりと微笑む秘書もなかなか、これでいて底意地が悪い。 「ったく。だけど、助かるな。日曜日に、会って来ようと思ってる」 「そうですか」 「アポは取った。自宅に足を踏み入れるのは何年振りか…。なぁ、俺は…」 「クスクス。あなたがすべての計算を狂わされて、うっかりこんな噂話を晒すほど惚れ抜いた相手です。なにも恐れることはないでしょう?」 思わず弱気が顔を出した日下部の様子を瞬時に悟り、からかうように励ます秘書は、出来た男だ。 「っ…勝つ、ことしか頭にない。だけど…」 「大丈夫ですよ。これは、勝ち負けではありません。あの方に、お会いになればすぐにわかります」 ふわりと微笑む秘書にギュッと眉を寄せて、日下部は唇を噛み締める。 「おまえは…」 ふと、そこまで言葉にしたところで日下部は、ナースステーションの方の空気が、ドヨッと不自然にどよめいたのを感じた。 「きたぁーっ!山岡先生っ、ねっ、ねっ、ねっ?」 「日下部先生からのプロポーズ!ずばり、今のお気持ちはっ?」 キャァァァッ、と、さらに割れんばかりの悲鳴が聞こえて、日下部はハッとして部屋のドアの方を振り返った。 ーーーあ、いえ、その、プ、プロポーズって、日下部先生はそんな… オドオドと、困り果てて俯く山岡の様子が手に取るようにわかるような気がする。 「クスクス、診察はお済みでしょう?行って差し上げたらどうですか?」 「っ…言われなくてもっ」 秘書に揶揄われて、日下部はムッとなりながらも、パッと踵を返して駆け出す。 「クスクス。ドクターが院内を走ったらいけないでしょうに」 急患でもあるまいし、と笑う秘書の声が、すでに白衣の裾を翻して姿を消してしまった日下部の、いなくなった室内にポツリと響く。 「どうか、願わくば」 シーンとした室内に、秘書の声が小さく落ちる。 「和解が成立し、社長の病に希望の光が宿り、あなたがたすべてに、幸あらんことを…」 頼みます、山岡先生。と呟かれた声は、空気を揺らすことなく秘書の口の中で溶けて消えた。

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