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第290話
「っ…」
「失礼します」
スッと軽く頭を下げて、日下部が入っていったのは、リビングと呼ばれるだろう空間だった。
ソファーとテーブル、大画面のテレビが壁際にあり、遠く奥行きがあるだだっ広い部屋だ。
その部屋の片側の中央辺りの、上質そうなソファの上に、2人の男女がそれぞれ座っていた。
「よく来たな、千洋。それから、山岡先生」
静かで感情が窺えない声で、千里が2人を出迎えた。
「今日は、わざわざ時間を取ってもらって、どうも」
ツン、と素っ気ない態度で、それでも軽く頭だけは下げた日下部に、父の目がスゥッと細められた。
「ふっ、相変わらず、可愛げのない」
「あなたに可愛いなどと思っていただかなくて結構」
ふん、ぷいっ、と、顔を合わせれば何故かこの調子。素直じゃない2人の、ひねくれた会話が、唐突に勃発する。
「あ、あの、日下部先生?」
オロオロと、隣の日下部の袖を引いた山岡が、忙しなく日下部と父に視線を行き来させた。
「っ、あぁそうだ。今日は喧嘩を売りに来たんじゃない」
座っても?と視線で尋ねる日下部に、日下部の父が無言で頷く。
「おいで」と山岡を促した日下部が、山岡をエスコートして、両親の向かいのソファに腰を落ち着けた。
「で?」
「あぁ。あなたには今さらだろうけれどね。今日は俺の、とても大切な人を紹介しに来た」
そっと優しく微笑んで、日下部が山岡にチラリと視線を向ける。
山岡はその視線を受け止めて、ほんのりと淡く微笑んだ。
「山岡泰佳さん。俺の、何よりも大切な人だ。この先、一生共に歩いて行こうと思っている。唯一最愛のパートナーです」
ピクリと震えた山岡の手を、テーブルの下でそっと握って、日下部が堂々と真っ直ぐに言い放った。
日下部の父の目は、何の驚きも新鮮味も見せずに、無言でそんな2人を見つめている。
隣に座る穏やかそうな綺麗な女性の目元だけが、ピクンと微かに震えた。
「男性よね?」
コロリ、と鈴が鳴るような、涼し気な声だった。
柔らかく右に傾げられた首につられて、サラリと綺麗な栗色の髪が肩を滑る。
日下部や千里の年齢を考えると、初老あたりかとは思うのだが、その美しさと凛とした佇まいは、それよりもずっと若く見える、日下部の母親の最初の一言だった。
「えぇ、正真正銘の男です」
「そう。千洋さんは…」
「はい」
「ゲイでしたの?」
おかしいわね?と首を傾げる母に、日下部は苦笑を浮かべて首を振った。
「男は山岡限定です」
「そう」
ふーん、とさして興味もなさそうに目を細めた母が、今度は山岡に視線を移した。
「あなたは?男性がお好きなの?」
「っ、い、え。オレが好きなのは、日下部せ…ち、千洋さんだけで」
突然の質問に、ビクリと怯みながらも、きちんと顔を上げ、母の目を見て山岡は答えた。
「ふぅん。相思相愛なのね」
「はぃ…」
にこり、と唐突に微笑んだ母に、山岡がビクッとしながらも、コクンと頷いた。
「山岡泰佳さん、でしたわね?1つ、答えていただける?」
「母さん?」
「っ、な、んでしょう、か」
「あなたは、千洋さんから、地位と、名誉と、富と、そして子を成すとういうこと、全てを奪い去り、その人生を背負う覚悟が、おあり?」
「っ、は、ぃ」
「私から、孫を抱く喜びを奪う、その重さを背負う覚悟が、ちゃんとおありですの?」
ゾクリとするような、底の知れない母の強い視線だった。
それでも怯まずに、山岡はその視線を受け止めて、ゆっくりと頭を上下させた。
「っ、山岡」
「はぃ。覚悟しています。きっとオレは、あなたに憎まれる。あなたの血を引く千洋さんの、血を引く子供を、オレは残せない」
「山岡」
「あなたの唯一の息子さんである千洋さんに、センリの椅子に座らせてあげることができません」
きっぱりと、堂々と顔を上げて、山岡は静かに静かに言葉を紡いだ。
「そのすべての罪と業を背負ってでも、オレは、千洋さんの手を取ります。愛しているんです、彼を。なにに代えても」
「っ…」
「幸せになります。幸せにっ…。あなたがお腹を痛めて生んで下さった千洋さんの、その大切な人生を、オレは、なによりも幸せに、誰よりも誇れるものにしますから…っ」
ボロッと目から涙を溢れさせて、山岡が必死に必死に日下部の母を見つめた。
「あなたの息子さんを、オレに、下さいっ」
ぎゅぅっと膝の上で拳を握り締め、ポロポロと零れる涙をそのままに、山岡が深く深く頭を下げた。
「っ~~!泰佳っ」
感極まって、日下部がそんな山岡をガバリと横から抱き締める。
「幸せなんだ。俺は、この人と共に歩いて行けることが、本当に、幸せなんだ、母さん」
「く、さかべ、せんせ…」
「人を愛する喜びを、人から愛される幸せを、この山岡だけが教えてくれた。なぁ?俺の選んだ人は、こんなに格好いい、最高の人なんだ」
強く、そしてとても幸せそうに、日下部はにこりと微笑んだ。
日下部の母の目が、ふらりと揺れて、小さな雫が、その瞳からはらりと滑り落ちた。
「私は、千洋さんのそんな笑顔、もう何十年も見ていないわ」
「か、あさん…?」
「孫は、諦めなくてはならないのね」
切なく、そして少しだけ寂し気に、日下部の母がゆるりと微笑みを浮かべた。
「千里が認めているものを、私がどうこう言うつもりは初めからないわ。私は出来損ないの母よ。千洋さんの愛し方が、いつの間にかわからなくなっていた。あなたが徐々に笑わなくなっていくのを、あなたが家に寄りつかずに、外ばかりを転々としていたのを、挙句に家を出て医者になってしまったのを、ただ黙って見ていた。千里の女癖の悪さのせいにして。日下部家という、この家のせいにして。挙句に私も外に男を作り、ますますあなたの笑顔を奪い去った」
「母さん?」
「今さら、私に千洋さんの人生に口を出す権利など、本当はどこにもありはしないの」
ほほ、と笑う日下部の母の泣き顔は、それでもどこまでも美しかった。
「それでも…それでも、良かったってっ…っ、ふ、うぅ…」
「母さん…」
「あなたが幸せそうに笑っていて、嬉しいだなんてっ…」
「っ、麗子」
「私は、母親失格なのに…っ」
わぁっ、と顔を覆ってしまった日下部の母に、父と日下部の手が同時に伸びた。
「麗子」
「母さん」
スッと伸ばした手が重なり、父と日下部が気まずそうにサッと手を引っ込める。
その隙間を、山岡が不意にスッと埋めた。
「お、お義母さん…」
「っ!」
「お義母さん…と、お呼びしても、いいですか?」
そっと小さく首を傾げて、俯いた日下部の母の顔を覗き込むようにポツリと尋ねた山岡に、3人が一斉に息を飲んだ。
一瞬後、うあぁ、とさらに大きく泣き出した母が、涙でくしゃくしゃになった顔を持ち上げた。
「は、は、と…?私を、母と?」
「お義母さん」
「っ…あ、あ、あぁっ」
「母さん。山岡には、母親がいない。俺からも、頼むよ。義母(はは)と、呼ばせてあげて」
「あなた、までっ…。っ、あ、りがとう。ありがとうっ…泰佳さんっ、千洋さん…っ」
ぶわっと新たな涙を目に溢れさせた母が、くしゃくしゃの顔でふわりと微笑んだ。
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