291 / 426
第291話
「あぁ、取り乱してしまって、失礼したわ」
ふと、思う存分泣きじゃくったのだろう日下部の母が、スッと背筋を伸ばして気を取り直した。
泣き腫らした目が赤く充血していても、この女性はとても美しい。
「それで?あなた。まだ私に隠していることが、あるのではなくって?」
チラリ、と隣に座る千里に向いた母の目に、千里の身体がギクリと強張った。
「隠していること?」
なんだ、それは、と空惚ける日下部の父に、母の追及の手がさらに伸びる。
「この私が、気づかないとでもお思い?あなたは先ほど、泰佳さんを、山岡『先生』と呼んだわ」
「っ、それが、なんだ。そこの山岡くんは、千洋の同僚の医師だからな」
何の不思議もない、と言い返す父にも、母は怯まなかった。
「どこがお悪いの?」
「な…。おまえ、なにを」
「私に隠し事ができると思うのが、甘いのですよ。あなたにとって、この泰佳さんは、『先生』なのでしょう?今さらくん付けに呼びなおしても遅いのよ。あなたの、主治医か何かなのね?」
お見通しよ、と笑う母に、山岡と日下部の父が同時に顔を見合わせた。
「あ…」
この日下部の母、その見た目や最初の印象とは違って、随分と強かで凛々しく、とても聡明な人のようだ。
「日下部先生の、お母様…」
なんだか納得だ、と呟いている山岡に、日下部がクスクスと笑って、そっと小声で囁いた。
「強かな人だろう?」
「はぃ…」
日下部は、父に似ている、と思っていたけれど、この母の観察眼の鋭さや頭の回転の速さ、じわじわと相手を追い詰める言い回しなどは、日下部にそっくりだ。
「さすがは、センリの頭の奥さんを務めるだけはあるんですね」
「そうだね。この人が、見た目通りのおっとりとしたお嬢様じゃないのは、当然だね。センリのトップの妻の座についているのは伊達じゃない」
「お母さんにすごい言いようなんですけど…」
「そう?だってほら、あの父が、タジタジだよ?…ねぇ?いい加減、白状するときなんじゃないの?」
にこりと微笑む日下部の目は、日下部の父から、ゆっくりと山岡に向き戻ってきた。
「おまえもね」
つい、と顎を指先で捉えられ、山岡の身体がギクリと強張る。
「あ、あ、あぁ…」
ふらりと視線を泳がせた山岡と、こちらを困ったように見ていた千里の目がパチリと合った。
「ふっ、この母子(おやこ)に掛かったら、もう隠し通せるものじゃないかな…」
はは、と乾いた笑いを漏らした日下部の父に、母と日下部の目がスッと真剣なものに変わった。
ともだちにシェアしよう!