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プロローグ 再会

 五月に入ってからずいぶんと暖かくなり、日中の日差しは上着を着ていては軽く汗をかきそうなくらいだ。  高橋祐樹(たかはしゆうき)が外出から戻ってジャケットを脱いでいると、後ろから声をかけられた。 「高橋さん、緒方(おがた)部長が探してましたよ。来週の北京出張の件で」 「あー、ありがとう。もう来週か。ばたばたしてて忘れてたな。あ、これ、営業三課の清水課長に回しといてください」  クリアファイルに入れた書類を声をかけた女性社員に渡すと、祐樹はそのまま部長室に向かう。そのすっきり伸びた背中に入社したばかりの女性社員の目線が張りつく。 「ホント、さわやか王子さまって感じですよね」 「顔いいし、優しい穏やかだし、彼女いないってホントかなあ」 「でも高橋さんて、あんな優しそうな顔してめちゃめちゃ仕事できるんですよね?」 「中国人との交渉では、ものすごい強気に出るって聞きました」  まだ学生気分の抜けない女性新入社員たちの遠慮ない物言いに、その場にいた男性社員二人は苦笑する。たしかに彼は優しそうな柔和な顔立ちだ。  二重のくっきりした目にすっきりとした鼻筋、きれいといってもいい整った容貌は28歳という年齢よりも若く見えることが多い。  しかしそれは仕事の上ではプラスにならないことがままあるのだが、ついこの前大学を卒業して会社に入ったばかりの彼女たちにはわからないようだ。 「顔で男の仕事は評価されないよ」  入社八年目、堅実な仕事ぶりを評価されている井上が肩をすくめる。  年の三分の一は中国出張というハードな日々ながら、まもなく結婚も決まっていて中国開発室の出世頭だった。結婚相手は同じ海外事業部の北米課の女性社員だ。 「でも顔はともかく、高橋さんが切れるってのはホントですよね。前回の上海出張同行して、こんな国じゃやってけねーって俺、実感しましたもん。けど高橋さん、めちゃくちゃな条件で強気でぐいぐい押して、絶対無理って俺が思ったその契約まとめちゃったんっすよ」  入社二年目の元木が顔をしかめた。  先月、初めての海外出張で祐樹と上海に行ってきたばかりだ。そこで目の当たりにした光景が、元木には信じられないことだらけだったのだ。 「ほんとマジでシャレなんないっすよ。あいつら、仕事する気ないんですもん。仕様書見てないわ、数量間違うわ、責任感もないわでほんと、駐在員の胃に穴開きまくるの、無理ないなって。高橋さん、よく粘るなーってマジで感動しました」  四年も中国に駐在してた人は心臓も押しの強さも違いますよねーと、元木は感動混じりに言う。  初めての中国出張で、相当カルチャーショックを受けたらしい。 「ああ、高橋はすごく粘り強く、しかも強気に交渉するって評判だよな。去年の香港返還で混乱する深圳(シェンチェン)プロジェクトをまとめたのは高橋チームだったよな」  昨年1997年7月1日の香港返還にともなう中国市場の混乱ぶりを思い出すと、海外事業部のメンバーは今でもため息が出てしまう。  あれからほぼ一年、中国経済は落ち着きつつあるが、それでもいろいろ不安定だ。  そもそも改革開放政策が進められて以来、資本主義と社会主義のぶつかり合いであちこち矛盾だらけなのだ。  そこにビジネスチャンスがあると言えばあるのだが、商魂たくましい中国人相手のビジネスが一筋縄ではいかないのも周知の事実だ。 「それこそ去年は高橋さん、年の半分以上中国だったんじゃないっすか?」 「もう赴任したほうがいいんじゃなかってくらいだったな。緒方部長が高橋さんをもう一度中国駐在にするか、東京のスタッフでおいとくか悩んでるみたいですね」  部長の緒方はこの海外事業部中国開発室でもう十年以上のキャリアがある。会社が中国に進出を決めた時からのスタッフで、対中ビジネスを知り尽くした男だった。  急ぎ足で部長室まで来た祐樹は、扉のまえで軽く息を整えてノック した。 「请进(チンジン)(どうぞ)」  中国語の返事に苦笑しながらドアを開けて中に入ると、応接セットの緒方の向かいに座っている男性の後姿が見えた。  テーブルの上にコーヒーが出されているのを見て、社内の人間じゃないとわかる。しまった。客がいるとは思わなかったから、ジャケットを脱いできてしまった。  まずかったかなと多少きまり悪く思いながら緒方を見ると、ワイシャツ姿の祐樹に頓着することもなく、かるく向かいの人物に手を向けた。 「おう、お疲れ。来週の北京出張のコーディネーター、紹介しておく。前にお願いしてた坂井さんが出産で休暇取ったらしい。で、こちらの上野さんが今回のコーディネーターだ」  紹介されてソファから立ち上がった男の顔を見て、祐樹は思わず息を飲んだ。

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