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「もう知ってるみたいだけど、今回の仕事、偶然じゃないんだ」
「そうだってね。でもどうして?」
「去年の春、祐樹を見かけた」
意外な言葉を聞いて、祐樹は目を瞬いた。孝弘と会った記憶なんかない。
「どこで?」
「広州 の交易会の会場で」
その交易会に孝弘は通訳として呼ばれていたのだが、呼んだ企業が突然の撤退を決めてしまったせいで予定がぽっかり空いてしまったのだ。
せっかくだから勉強がてら見ていこうと会場内を回っていたら、企業ブースの前にいる祐樹を偶然見つけた。
祐樹はブースにひっきりなしに訪れる客の対応に追われていて、孝弘には気が付かなかった。孝弘はそれを幸い、じっくり祐樹を眺めることができた。
いつも優しいのにどこか遠い人だった。甘え上手で意外としたたかで、孝弘に鮮烈な印象を残して姿を消した思い人。
4年ぶりに見た祐樹は堂々としていた。
スーツ姿が恰好よくて、客と話をして笑う顔に目を奪われた。北京で色んなことに驚いたり戸惑ったりしていた祐樹はもういなかった。
声が聞きたくて、裏側のブースに行って耳をすませた。
ビジネス用の滑らかなトーク、やわらかく張りのある声。懐かしくて、胸が震えた。
一度だけ聞いたぞんざいな声。あの声で話しかけられたかった。
だが、横についていた日本人通訳の男に孝弘は腹を立てていた。
そんなテキトーな訳してんじゃねーよ。全然、客の要望が伝わってねーよ。もっと適切な言葉があるだろ。
こいつ、北京語もダメだけど日本語もぜんぜんなってねーな。北京語より先に日本語勉強し直して来いよ。
祐樹の足を引っ張るような通訳が、当然といった顔で傍にいるのが耐えられなかった。
なんで俺があそこにいないんだろう。俺ならあんな適当な仕事はしないのに。もっときちんと祐樹をサポートしてやれるのに。
悔しくて 、気が付いたらかみしめた唇が切れていた。
こんなことをしてる場合じゃない。
強烈な後悔と焦燥に突き動かされて、その日の夜に安藤に電話していた。
ずっと会いたいと思っていた。
けれども見ないふりをして、心の奥深くにしまいこんだ思いだった。
あんな別れ方をして、また会うのが怖くて避けていた。中国国内にいるのはわかっているのだし、消息も知ろうと思えば調べられる。会いに行こうと思えばいつでも会える。
だけど、その勇気をずっと持てなかった。
本当に偶然に見かけて、泣きたいくらい気持ちが揺さぶられた。忘れたふりをしていたが、本当はこれっぽっちも忘れていなかったと思い知らされた。
会場内のトイレに駆け込んで、ざぶざぶ顔を洗った。
失恋して泣いたのも祐樹にふられたときが初めてだったが、見かけただけで涙があふれてくるなんて。
「かっこよくて見とれた。あんなふうにふられたけど、やっぱり好きだと思って諦められなかった。今でも泣くくらい好きだとわかって、どうしても祐樹と仕事がしたいと思って安藤さんに連絡したんだ」
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