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01 コワーキングスペース 三枝

 猫のようだと思った。  黒のTシャツに黒のジーンズ、黒の靴下。彼は大概そこに座ると自然に靴を脱ぎ、靴下だけになる。その片足を小さなスツールにのせ、膝を抱えるような恰好でパソコン画面を眺める。椅子に乗せた方のつま先がリズムをとるように上下に動いているせいか、投げ出された足は猫のしっぽのようにプラプラと揺れている。この位置から顔は見えないが、時々右肘が見え隠れすることから恐らく、ノートパソコンをしきりにスクロールしていることが窺える。左耳にはピアスが3つ。髪はかなり明るい茶、というよりシルバーに近いだろうか。ミュージシャンかファッション系だろうか。  ふいに椅子に乗せていた足が落ちると、凄い勢いでキーボードを叩き始めた。「凄い」といえるのは、遠くて内容までは見えないが、あっという間に画面が白から黒へ塗り替えられていくのが見えたからだ。ミュージシャンではなくIT系がアーティスト系だろうか…。  その姿を眺めるのが最近の楽しみだった。 ここ、渋谷のコワーキングスペース『シェアリ』は2か月前から利用している。オフィスに使っていたマンションを改築工事のために追い出され、そのタイミングでアシスタントに雇っていたインターンも就活に成功し、大企業への中途採用が決まったため離れていった。自分ひとりのためにあらたな仕事スペースを作ることが億劫になっていた。 とはいえ、自分の居住スペースにいると、いつまでたっても仕事を開始しようという気分になれない。場所や開始時間という縛りがないと、無駄にダラダラと過ごしてしまい、仕事に取り掛かるまでにかなりの時間がかかり、いざ仕事を始めても集中力が続かず、無駄に遊んでしまうのだ。クリエイティブな職業にありがちなことだが、ネットさえ繋がればどこでも仕事ができる。だが、実際にはやる気が起きるまで、通勤にもまれないユルイ朝からワーキングへの切り替えができないジレンマに襲われたのだ。 このコワーキングスペースに決める前はネットカフェに行ってみた。個室だし、ネット環境は整っているから集中できるかと思ったが、その閉塞感になじめなかった。なにより店内ですれ違う人の雰囲気に恐怖を感じたのかもしれない。ネットカフェは、派遣切りや就活難民で一躍有名になったというイメージがある。偏見かもしれないが、なにかうつろな人間とすれ違うたびに、「さぁ仕事しよう」という自分の存在に、違和感というより罪悪感に苛まれた。落ち着かない気持ちがずっと、尻の座りの悪さを訴え、閉塞的空間に押しつぶされそうで、2時間と滞在することができなかったのだ。 コワーキングスペースは、月額の費用はそれに比べて高額になるが、ゆったりとした空間を提供してくれた。ソファー席、テーブル席、カウンター席などがあり、空いているスペースは自由に使え、また来客の対応も可能だ。スマホの充電や印刷、ドリンクもフリー、出入りもフリーなので、働きやすい環境と言える。間仕切り変わりの緑の植物は場所によりさまざまで、枠のない窓越しには都会のビル群とマッチした緑の公園が望める。いざ仕事を始めると意外なほど集中できた。締め切りの迫っていた依頼も一気に片づけることができたのだ。 そんなこんなで、朝起きて、ノロノロながらも、とりあえずここに来れば仕事にスイッチできるというパターンをみつけ、ここに通うようになったのだ。  その猫のような彼に気付いたのは、恐らく一ヶ月くらい前だ。自分のお気に入りスペースは、窓際のソファー席だ。二人掛けの向いの椅子に荷物を置き、時々外を眺めながら、パソコンに向かう。部屋の中央にはガラス張りのカウンター席が8席ほどある。入口に大きな植物があるがほぼ金魚鉢状態のこのカウンター席はほとんど使われることがない。一人での利用だとしても、自分と同様にたいていの人間が二人掛けの席に落ち着くからだ。そのガラス張りの外側にプリンタが設置されている。プリントアウトして始めてその金魚鉢の中に人がいることに気付いたのだ。全身黒の彼だ。  最初に目を惹いたのが細すぎる腕だ。黒いTシャツを軽くまくった腕がやけに白くて細かった。そのコントラストと、猫のようなシルエットに一瞬で気に入ってしまったのだ。プリンタの位置からは滑らかな背中しか見えないので、ガラス張りの部屋の前に回ろうと歩くと自然に受付に向かう形になる。馴染みの受付嬢が目敏く察知して首を傾げるのが視界に入った。  男を物色していると思われたくはないので、受付嬢に話しかけることにした。Uターンすれば彼の顔は拝める。 「やあ。この辺で簡単な食事できるとこってあるかな?」 「こんにちは。三枝様」  受付嬢は目の前でまず一礼をして、笑顔で返した。 「コメ派ですか? パン派ですか?」  営業マニュアル的な話し方をしないところを三枝は気に入っていた。受付嬢は箸でご飯は掻き込むようなジェスチャーをする。 「んー、人が少なくて、のんびりできるところならどちらでも」  そう答えながら、ハンバーガーでも食べるようなジェスチャーをすると、人差し指を立てて頷いた。 「高速の方の道出ると、一つ目の脇道にSで始まるコーヒーチェーンがあるじゃないですか」  受付嬢は頷きながらその方角を指した。 「あー。僕はDで始まる派だなー」 「あー。私はTで始まる派なんですけど、そのSで始まる店、その看板で隠れてますけど隣に喫茶店があるんですよ」  イニシャルトークが女子は好きだ。 「そこのベーグルサンド、結構おいしいんですよー。二階はウッドデッキとまったりできる内装で、お昼休憩に眠たい時とかにバッチリなお店なんですー」  排気ガスを吸いながらコーヒーを飲む気分にはなれないので、Sの看板のせいでその奥まで目線が行ってなかったのだろう。よく通る道なのに、店があることなんて知らなかった。  へぇという感嘆の言葉に被せるように、「ただ…」と受付嬢の声が被った。 「ぱっと見、入りにくい外観なんですよね」  続きを聞こうとしたが、そこで電話が鳴った。彼女は一礼して電話を取るので、手を振って元来た道を行く。  ガラス張りのカウンター席、端っこの席。シルバーに近い茶髪、顔を拝めるはずだった。  残念ながら彼はノートパソコンを閉じ、突っ伏して寝ていた。      *  奥手な方ではない。だが、なんとなく自分の定番の席を決めてしまうと、別の席に座るという冒険はなかなかできない。比較的広いフロアのど真ん中に、黒猫の彼がいる金魚鉢があり、カウンター席は8つ並んでいる。三枝が占拠する二人掛けのソファー席はコの字になった窓沿いをぐるりと囲むように20席ほどあり、日当たりのよい方向に、4人席、室内中央よりに6人、8人席など打ち合わせ用のセットが用意されている。金魚鉢の前には、一人掛けの背もたれのないソファーや、サウナにあるようなリラクゼーション系の大型のもの、子供用のような丸椅子、海外アーティストが作りそうな斬新な椅子など、椅子コレクションのようなスペースとともに、ドリンクや新聞・雑誌が置かれている。 ガラス張りのカウンター席は受付方面に向いているが、その前のスペースでくつろぐ人とも目が合わない設計だ。だからこそ、黒猫の彼もその席を陣取っているのだろうと思うと、下心を抱えてそのスペースをうろつくことも気恥ずかしい。ドリンクがフリーだからといっておかわりをしたこともない。仕事はじめにホットコーヒーをもって席に着くと、プリントとトイレ以外、席を立つ理由はなくなる。戻るときにこっそり彼の方を眺めてみるが、ノートパソコンを打ち込んでいる時は、画面が邪魔をして顔を拝むことはできなかった。 片足をスツールに置き、足をプラプラさせる黒猫のポーズはどうやら、確認中のポーズのようだ。  だから相変わらず窓際の席で仕事をしながら、彼が来れば心を躍らせ仕事を進め、行き詰まると猫のような彼を眺めては目の保養をし、また仕事を進める。そんな心地いいルーティンを確保し始めていた。

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