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02 シェアリ 三枝

 *  彼が客を迎えたのは初めてのことだった。  コワーキングスペースでは当然、接客用のスペースもある。会員になっていれば、ゲストを呼ぶこともできる。ソファー席や会議席はそのために設置されているのだ。  4月だというのに、例年にない台風のような雨と風が、予報通り関東地方を襲っていた。公共交通機関は大幅な遅れをどこも当然のように報せている。沿線の木や電柱が倒れたとか、線路内に飛ばされてきたもののせいで遅延を訴える電車が続出している。それでもどうにかこうにか職場へ向かうサラリーマンに、心の中で拍手をしながらも、冷ややかな視線で連続するスマホの緊急速報を眺める。  特に予定のない三枝はこの日も『シェアリ』に来て仕事をしていた。昼を過ぎても一向に雨はやむ気配もない。それどころか、冬に逆戻りしたようにかなり冷えてきた。窓際の席はとくに冷える。  先月までは週2・3回程度しか現れなかった黒猫の彼が、今週は毎日顔を出すようになっていた。一ヶ月前から存在を知っていながら、いまだに一言も言葉を交わしたこともないというのは難だが、彼の姿を見られるだけで、一日いい気分になれる。仕事もアシスタントがいた頃より進んでいる気がするし、うまく行っていた。職場をなくして2か月だが、このコワーキングスペースで仕事をするほうが気分も弾むので、環境を変えようとも思ってなかったのだ。  だからこんな悪天候になるとわかっていても、朝からいつもの席を陣取った。時々窓を叩く雨にびくつきながら、さすがにこんな日に来るわけがないと思い、酷くなる前に帰ろうかと考えていたころ、黒猫の彼がやってきた。  黒の革ジャン姿だ。スリムなシルエットに似合っている。来るなり椅子に座ることなく、立ったままキーボードをたたくとプリンタの前にやってきてはプリントアウトを待つ。  やはり猫だ。移動の気配も感じさせない行動だった。画面を確認してはプリンタの前に移動する。その繰り返しで、一ヶ月も経ってようやく彼の顔を確認することができた。  想像どおり、いや想像以上に整った顔だった。アイドル好きの女子ならすれ違ったら振り返るだろう、自分は知らないが芸能界で誰似と言われるかあるいはスカウトされるほどに、テレビ業界にいてもおかしくないというほどに、笑うと胸をぎゅっと掴まれるほどだった。  そう、彼はプリントアウトされたものを見返して笑ったのだ。自画自賛というところだろうか。実に満足しているようだ。ここ数日かけて作ったものが手元に現れたのだ。彼が何度も見直してブラッシュアップをし、あの黒い画面を修正しながら膨大な資料を作成してきたことを、自分は知っている。プリントアウトされたのはそれらのもの成果だろう。 「見過ぎだ」とでもいうように、バラバラと激しい音を立てて雨が窓を叩く。忠告を受けて慌てて視線を手元に戻す。この世界に、黒猫の彼と自分と二人きりだったらよかったのにと思う。が、残念ながら、いつもの受付嬢も相変わらずいるし、いつも自分とは反対側の窓際を陣取っている腹の出た眼鏡の男もいる。週一で来る胃の弱そうなシルバーグレーもこの悪天候の中、ここに来ている。どうやら運命を感じるほど、無人島に二人きり、黒猫の彼が自分と鉢合わせる確率はまだまだ低いと言える。さらに――。  彼が待ち合わせていたのは女性だった。まぁそうだろう。自分が同性愛の趣向があるからといって、目に留まった対象がそうである可能性など低いとわかっている。営業スマイルとは思えないほど破顔して迎える彼に、少なからずショックを受けたのだ。ショックというか、失恋を思い知るような胸の痛みだった。  黒猫の彼はこの悪天候の中やってきた彼女をねぎらいながら、いつもいるガラス張りの外のソファー席に彼女を招いて横に座った。対面ではなく横に…。それをみて、かなり彼女に心許しているのだと思ったのだ。  良く見積もっても40代以上の女性だった。この席からは二人の後ろ姿しか見えないが、彼女が何かしゃべる度に黒猫の彼の肩が揺れる。笑っているのだろう。声を潜めているのか、そもそも声が低いのか、懸命に耳をすませても会話は聞こえてこなかった。だが徐々に笑い声は高まって、黒猫の彼の笑い声を初めて聞いて、見過ぎてはいけないと思いながらもくぎ付けになっていた。後ろからみても、黒猫の彼が弾かれたように頭をそらしたかと思うと、腹を抱えるようにして笑っていた。クールだと思っていたのに、無邪気な姿を見せられて驚いた。  ひとしきり彼を笑わせたあと、彼女が鞄から資料らしきものをテーブルに出すと彼も、手に持っていた資料を引き寄せ、打ち合わせらしきものが始まった。肩と肩が触れるような距離で。どちらかが頷き、肩が揺れる。恐らく紙面を指さしながら、「これはどういうこと?」「ああ、これは」という形で質疑が繰り返されているような。  仕事仲間だろうか。クライアントだろうか。仕事関係と思えば少しは胸の痛みも消えそうなものだが、囁きあうようなその距離感に仕事だとしても打ちひしがれる。先輩後輩の関係だろうか。なんの仕事なのか。考えれば考えるほど、嫉妬というよりは疎外感が膨らんでいく。もともと黒猫の彼と友達でもなければ知り合いでもないのに、はっきりと線を引かれたような気がして、ひどく寂しい気持ちになった。

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