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03 アイリッシュバー 三枝
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意外なところで黒猫の彼を見つけたのは、春の終わりの金曜日。
3周年パーティでお呼ばれしていた。新宿二丁目ほどではないが、近くにはハッテン場と言われる公園もある西新宿で、ソレとは宣伝せずにオープンした店にも関わらず、来る客は皆そっち系の客ばかり。西口ビル群から迷い込んでしまうノーマルカップルも拒むこともなく、オープンテラスに案内しながら、カウンターでは、夜を共に過ごす相棒を探す男ばかりを寄せる、マッチングの場として人気店となっていたのだ。
『3周年記念 貸切』とそっけないボードが入口の脇の椅子に置かれていた。普段は男女が陣取っているオープンテラスも今日ばかりは女性の姿はないようだ。ただ、記念パーティのそれとも、飲み放題のそれとも違う、殺気だったような雰囲気がそこにはあった。カウンターに向かう前にテラスで、苦々しい酒をすすっているような顔見知りにそっと近寄ってみる。
「よお、遅かったな。会社潰れたって?」
関連業者のくせに出鱈目に声を上げる男につられて、同じテーブルにいた何人かがこちらを向いた。
「潰れてない。ちゃんとやってるよ」伏せられたグラスを手に持つと、彼は手近にあった白ワインをなみなみと注いだ。
「彼は三枝君。建設関係の仕事をしているんだよ」と簡単に紹介してくれ、乾杯をしながら軽く挨拶をする。
「で? なにかあった?」と率直に切り込むと店の奥を一人が指さした。オープンテラスは小さなテーブルが3セットあり、テラスの中央にはここまで成長するはずのなかった大きな柚の木が枝をひろげている。ガラス張りの店は奥へ行くほど狭まった形となっていて、確か奥にはカウンターの2席があったと思う。
「あそこに、招かれざる客が座っているんだよ」誰かが言った。
「7人モーションして、玉砕したんだ」
声の元へ目を合わせようとしたが、テーブルを囲ったメンバーが落胆するようにうつむき加減だったので、誰の発した言葉かわからなかった。
話をまとめると、どうやら近くのライブハウスに出演予定だったアマチュアバンドマンらしき人物が奥のカウンターに座っているそうだ。ビール、カクテル、焼酎、ハイボール、あらゆる酒で誘ってみるが、彼は一切口をつけず、明らかにナンパ目的で近付いてきた彼らを論破し、3時間もここにいるのに、酒も飲まずに居座っているという。飲み屋にきてお酒を飲まず、ましてや誰とも仲良くするつもりもない、ということは今日この場所にもっとも似つかわしくない招かれざる客、と若い従業員が一度退席願ったらしいが、後で連れが拒否った分の酒代も払うからほっといてくれと言われ、その凄みに押し黙ってしまったそうだ。
「だけど、もうそろそろ終電の時間じゃないか?」
実際、知り合いにはあまり顔を合わせたくなくて、この時間ならある程度いなくなっていると踏んでやってきたのに、テラスまで人があふれるほどの盛況さに驚いたくらいで。
「そうなんだけど、お迎えはこない!」
悪意ある笑顔で誰かが言った。
「さっき、そのライブハウスとやらを見に行ってみたら、閉まってたよ」
音の問題があるため、大概路地にあるライブハウスは夜十時には店を閉めて、店の前に屯する若者も許さないほどマナーで釣っている。
「要するに、バンドマンの彼は、なんらかの原因で喧嘩して飛び出してきたものの、ここで落ち合うはずの彼が来ないだよ」
たしか埼玉の北のほうに住んでいる男がいった。すでに終電がなくなっているのに、まだいるということは、ラストチャンスを狙っているのだろうか。この男だけではなく、この時間に未だにこの人数が残っているということは、その彼を誰が持ち帰るか気に掛けているということか。
「…そんなに好みなの?」
誰にともなく問いかけた。
「まぁ、放っておけないお姫様的なやつだよ」
「誰が持ち帰るか、気になるだろう?」
おそらく、追い詰められた鼠なのだろう。罠を仕掛けても捕まらない知恵や体力のある鼠がいたとしても、多勢で囲えば限界は来る。あと一振りで爪痕を残せるなら、それくらいの努力はなんでもない。そんな『狩り』の心理に、もはやここに残っている人々は侵されているのかもしれない。
この場所からは柚の木を照らすスポットライトのせいで、問題の彼がいる席は見えない。だが、周りの彼らはその光の先をじっと射止めるように視線を送っていた。
いつの間にか空いてしまったグラスがすっと下げられ、焼酎ロックらしきグラスを悪友のバーテンが笑顔で突き出した。一応のお祝いの言葉を吐くと、バーテンは嘘くさい笑顔で頷きかえし耳元でそっと囁いた。
「そういえば三枝様、田中様とは終わったとか?」
傷口にアイスピックを突き立ててくる。やはり来た。周りに聞かれない配慮はするが、客をいじるのが好きな悪癖がある。身体を軽く捻りバーテンにだけ聞こえるように呟く。
「終わりましたよ、クリスマスイブに」
バーテンは満足そうに口角を上げながらテーブルを拭き、他の空いているグラスにおかわりを注ぎながら、「そういえば」と周りに聞こえる声で続けた。
「三枝様、この店でナンパしてお付き合い始めたんですよね?」
酒代がどうのというより、すっかり追い込まれた鼠が、ここにいる誰もが気にしている状態では店を閉められないのだと、カウンターで店主はあきらめ顔で言った。悪友から逃れ店内に入ると、店内はいつものように落ち着いた雰囲気だった。常連がいつもの席で、静かに酒を飲んでいる。
バンドマンと言われて違うものを想像していたが、店の奥をみると、細見の後ろ姿が見えた。一瞬、黒猫の彼と、スツールに座る後ろ姿が重なって胸が高鳴った。
いやいや…。黒猫の彼を見るのは好きだが、私の好みは正直「ぽっちゃり系」だ。この店でひっかけ、3年付き合った田中くんもぽっちゃりだった。歴代、かわいいと思って付き合った男は皆ぽっちゃり系だ。黒猫の彼は、猫のようで見ているだけで楽しい、そう、たぶん、可愛い猫を見ている気分なだけだ。
店の奥にあるそのシルエットは黒猫の彼と同じように、細く頼りなげだった。衣装といえるだろうか、目を凝らせば肌も透けて見えそうな扇情的な服を着ている。ネパールやインド辺りのスルっとした滑らかな生地で作られた民族衣装のような女性ものの服のように見えた。スカートのように長い布から、素足が覗いている。裸足できたというのだろうか。こんな格好では街も歩けないのでは、と思った。
「多分、誰かが公然とお持ち帰りしないと、明日の朝、公園のトイレでボロ雑巾のような姿で見つかるだろうな」
店主がヘタにお開きの言葉を告げられない理由を口にした。
成程。酒の勢いも借りて、ラストチャンスを力づくでと考える輩もいるかもしれない。
「ウーロン茶か100パーオレンジジュースとか、あるかな?」
黒猫の彼に片想いしている身分として、気は進まなかったのだが、店主のセリフでボランティアの気分で、店の奥へオレンジジュース片手に進んだ。いざ彼の真横まできた瞬間、一拍、否、気分的には3分くらいは呼吸が止まったような感覚だった。
黒猫の彼だ。
顔を間近で見るのは初めてだが、直感した。同一人物だ。
視線を下げると彼の纏っている服の作りが見えてくる。シースルーという以上に、太ももはレース越しにシルエットがしっかりと見える。裸足。ふわりと肩にかけたストールらしきもので、残念ながら胸や股間は見えない。髪全体はシルバーだが、毛先だけ赤い髪。左耳にピアスが3つ。薄化粧をしているのだろうか、きめ細かい肌は白く艶めき、長い睫毛を目立たせるアイラインを入れている。これほどに、接近したことはないのに、あの女性に微笑んでいた彼の顔が、目の前にある顔に簡単に重なった。
三枝の気配に気づくと彼は、小さすぎるスツールに、まるで防御するように左足の踵を乗せた。
心臓が破裂するのではないかと思いながら、できるだけ平静を装い、オレンジジュースのグラスを彼の目の前に置いた。
「アルコール分は100パー入ってないよ」
彼は一瞬こちらをみて、またすぐに目の前のガラス窓を睨む。
新しく貰った焼酎のグラスが冷えすぎていてカウンターにそっとおく。外からも見えないように、ガラスの向こう側でこちらを睨んでいる野郎どもの顔は見えないのは幸いだ。
「飲み屋にきてなにも飲まないのは失礼だよ?」
店主の気持ちを伝える。
「…ついには脅迫、ですか」
小さな声だが聴きとりやすい、なめらかな声だった。
「そうなのかな…」思いが零れる。皆、最初は心配して声を掛けたのだけど思うが、露骨にナンパ目的だったのかもしれない。
「誰か待っているの?」「家は近いの?」と聞いてみても無視された。聞こえてないとでもいうように瞬きもせず、受け流される。誰もがした質問だからか。なかなか手ごわい。コワーキングスペースでも何度か声を掛けてみようかと思ったものだが、気安く声を掛けなくてよかったと思った。しかしこのままでは終われない。
彼はいつもどおり腕時計もしていない。服にポケットがあるとも思えないから、スマホも財布もないことは確かだろう。冷たすぎると感じたグラスにおっかなびっくり触れると普通だった。半分ほど一気に飲んで、できるだけ軽い口調で続ける。
「今、何時か知ってる?」
彼の視線が動くのが、横から見えた。
「お節介な奴が確認しにいってね。ライブハウス、もう閉まっているって」
彼の唇が開くのが見えた。「誰もいなかったらしいよ」と続けると、彼は表情を変えることなくこちらを向いた。無表情に見えるが、驚いたり、怒ったり彼の中で何かしらの感情が動いていたのだろう。小さなため息をつくと、オレンジジュースに口をつけた。ちびりと舐めるように一口だけ。
「出禁のハコがまた増えた…」
小さな声だがしっかりと聞こえる。バンドマンという想像は、どうやら正解だったようだ。
「いい声だね。ヴォーカル?」
「二言三言でそんなことわかりますか?」口の端を上げ、自嘲気味に彼は早口で返してきた。
「まあ、そうだね。でも楽器だったら、置いて飛び出してこないのかもって予想もつくからね」
「レンタルのとこだってありますよ」
けんか腰だ。即答。まぁ、喧嘩して出てきたのだとしたら、腹立たしい気分のままでいたのだろう。さらにナンパされ続け、腹立たしさも倍増するのだろう。爪を立てる猫のようで、可愛いと思った。
「僕はそういうの、詳しくないよ」
「なんで笑ってるんですか? だいたいなんでアルコールがダメってわかったんですか?」
何を言っても噛みつかれる。ついに攻撃された。
「お酒が好きなら、喧嘩してムカムカしてるときはアルコールで流したくなる。こんなお酒の匂いの中で飲みたくならないなら、ってね」
彼は眉間に皺をよせて、足を下におろすと正面に向き直って、オレンジジュースをまた舐めた。
「僕は今お金を持ってません」
頷いて焼酎のグラスを傾ける。
「何人かが持ってきたグラスが手を付けられずここにある場合、これは僕の支払い分でしょうか?」
たしか店員には、あとから連れが来て払うと言い切ったのではなかったか?
「さぁ、ナンパの流儀は知らないけど、断った人に要らないものを奢られるって気分はどう?」
彼はなにか言おうとして、それからまたオレンジジュースを、今度は軽く流し込んだ。暫くの沈黙が続き、また一口飲んで意外なことを口にした。
「お腹すいてて、気絶しそうです」
「アハッ。僕もだよ」
益々可愛い。笑いが漏れてしまう。
「なら…」言いかけて、彼が視線をこちらに向けてきた。視線が絡む。値踏みされているようだ。
どうする? 紳士のふりして、このままお酒も食事もご馳走してあげて、タクシーで送ってやろうと提案するか。それとも…。
「…なら?」
張り付いた笑顔のまま、彼に主導権を渡した。
「帰りの交通費と着替えも加算で、一晩なら対価に値しますか?」
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