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彼の周囲は不思議な青色だった。
欠けてる。
月に照らされた明るい夏の夜空みたいに輝くんだ。今まで見たどんな青よりも青だった。実際には青ではないのかもしれない。でも、少なくとも……少なくとも俺には青色に見える。でも欠けてるんだ。月が欠けるように、青も欠けてる。
青って本当はとても優しい。穏やかで荘厳で広大で優雅で少しいたずらな色なのに。彼から感じる雰囲気はどこもかしこも嘘のようだった。嘘、なのかな? 青は確かに本当にそこにあるのに、欠けた部分はどこまでいっても作り物みたいなんだ。作り物は果たして嘘なんだろうか? そんなことはないはず。作り物、っていう真実だから。
だからやっぱり欠けてる。この青は欠けてる。本当じゃない。
俺はすごく気になってしまった。変な人だ。そんなことを思っているうちに退屈な通学路が彼の姿を見るために存在するようになった。今日はいる、いない、いる、いない……なんて花占いみたいなことを思いながらいつも……いつも店の中を覗き込んだ。絵本ばかりが並んだ本棚の隙間から見えるカウンターに、あの欠けた青色が一瞬でも煌めいた日には、学校でどんなに嫌なことがあっても、思考がそこにもっていかれるからわりとどうでもよくなる。
見るだけでよかった。よかったはずなんだけど。
人間ってやつは強欲だなって自分でも思う。いろんな想像をしてしまうんだ。
どんなふうに喋るんだろう、どんな目をしているんだろう、どんなふうに笑うんだろう……まるで想像できない。見えるのはいつも遠巻きの横顔や後ろ姿だけだ。服装はいつも学ランの上に真っ白なエプロンで背格好は明らかに中学生ではない。だとすると高校生になるんだろうけど、学ランの高校なんてこの界隈にあったかな? 俺の通う高校はブレザーだから、同じ高校ではない。背は高めで柳の木みたいにすらっとしている。
正直なところ、見目や姿よりも彼の内面のほうがずっとずっと気になった。人っていろんな色をしている。たとえば優月兄さんはベージュだし、カケルは赤と黒、郁は透明な桃色で……騎一はオレンジ。日によってまちまちだけどね。
他の人は知らないけど、俺はどうも外見より色のほうが目に飛び込んでしまう。色でこの人苦手だな、とか、好きだな、とか思っちゃう。
とにかく今はあの欠けた青色に触ってみたい。青は好きだ。だけど分からないな。ほんと不思議だな。変わった人だな。話してみたい。声をかけてみたい。そう思うのにいざそういうシーンを思い描こうとすると、どうも尻込みしてしまう。
これって好きってことなのかな。なにも知らない人を気になってしまうなんておかしい。でも俺はたった一つ綺麗な青ってことを除いてはなにも知らないから……だからこそ彼に惹かれている。それはいけないことかな。
でも俺のばあちゃんがよく言ってたよ。チャンスをものにしなさい、って。
うん。雨が降っていたから。口実は雨宿り。『ことりの絵本店』の軒先で、雨降り空の様子を見るふりをしながら、ちらちら店の中を覗き込んだ。
はたから見たらものすごくダサいかもしれない。でもそんなこと考えられなくなってしまうくらいその欠けた青色の人のことばかり考えてしまう
下唇を噛んだ。頬が上気している。雨なのに。なんかさあ……想像だけでこんなに体が火照ってしまうなんて、俺って大概気持ち悪くないだろうか。大丈夫? 優月兄さんならそんなことないって応援してくれるかな。カケルは絶対馬鹿にするからあいつにだけは黙っていよう。ムカつくし。もしここにばあちゃんがいたら、さっさと話かけていらっしゃいってケツを蹴られるに違いない。もうこの際誰でもいい。ケツを蹴ってくれ、あの人と話す勇気を俺にください……。
「いってえ!」
ケツに衝撃が走った。勢いよく前方に体が投げ出される。雨降り地面の水たまりに、ばしゃりとロウファが突っ込んだ。頭上に雨がぱたぱたと落ちてくる。
「なにすんだよ!」
腰を手でさすりながら、睨みつけるような顔で振り返った。
ずっと想いを馳せていた人物が目の前にいる。目の前にいて、自分を見下ろしていた。
「お前がなにやってんだよ、気持ち悪い」
体中が一気に熱くなる。同時に放たれた言葉の意味を考えた。
気持ち悪い……?
「……はあ?」
真っ赤な顔で彼を見上げて睨みつけた。身長高いなおい。俺が低いのか? いやそんなことない。声は裏返って震えていた。
「なんだよこの野郎! 初対面の人間にその言葉はないだろ!」
恥ずかしさを暴言で隠した。彼は呆れ顔で俺を見ている。
「初対面? どこが」
どこが、ってそう言われて心臓がどきっと跳ねる。これが恋? とかいうやつではない。警察に追い詰められた犯人のような気持ちになった。こんなに身体中が熱いのに、背筋が信じられない速度で凍りついていく。心臓がばくばくしすぎるせいで上から容赦なく降ってくる雨の音が聞こえない。
「お前、いつも俺のこと見てるだろ、気持ち悪い」
うわあ……全部ばれてた。
辛辣な顔でそんなこと言われるなんて誰が想像した? しかもずっと気になっていた人に! 胸がずきずきした。突き刺さったカッターナイフをその状態で九十度くらいひねられたような痛みだ。いやそんなこと実際されたことないけど。血ぃ吐きそう。
「また気持ち悪いって言った……!」
声が震えた。自分でも自分のことを気持ち悪いんじゃないかと若干思っていたから余計グサグサくる。
なんだか目が痛い。目が痛いと思ったら鼻水が出てきそうになった。
「だって気持ち悪いから」
「うるせえ!」
全身冬先の雨で冷たいのに、目の周りだけぶわっと熱い。熱くて痛くて、視界がゆらゆらする。前髪から雨が滴ってはらはら落ちた。
「顔のわりに口が悪い」
なあ、頼むからそんな顔で俺を見下ろさないでくれ。
顔を逸らしてしまうけど、それももったいないような気もして、ちらちら見てしまう。冷たい目を向けられていても、やっぱりこの人がずっと見ていた気になる人だって思うと、痛いくらい悲しいのにいろんなことを思ってしまう。
いやあ、青いな。
綺麗な青だな。でも、なんだろう。やっぱり欠けてるし近くで見るとちょっとくすんでる。なにが彼のこんなに綺麗な色をそうさせているんだろう?
雨粒に反射してる髪が青色に光ってる。綺麗だけどなんか透き通り切れてない。なんでだ? もっと青ければいいのに。なんでこの人はわざと色を濁らせる?
俺、誰かが嘘吐いてるとすぐ分かる。いくら顔で笑っても淀んだ色をしてるから。
だからこの人は嘘を吐いてない。確かに濁ってはいるけど淀んでないから。だから気持ち悪いって思われていたのも本当だし、口が悪いと思われたのも本当だ。
きっつ。
「なにか用なの?」
一歩後ろに下がって俯いた。
目から温かい粒がぽろぽろ落ちてくる。三秒で止まれ。三秒で止まる魔法を誰かかけてください。こんな冷たい態度を取られた挙句こんな情けない姿見せてしまったら俺が俺でいられなくなってしまう。そんなのやだやだ。
「……なんもねえよ」
震える声を押さえ付けて言った。雨音を通り抜けて、欠けた青い人の耳にまで届いたみたい。
「じゃあなんでいつも店覗くんだよ、冷やかしなら帰れ」
ねえなんでそんな酷いこと言うの?
ただ見てただけじゃん。見てただけ。見てただけね……ああ……そっか……それが気持ち悪かったのかな。理由もないのに見られてたら気持ち悪いよな、確かに。うん。なんか俺。
悪いことしたな。
他人を不快な気持ちにさせてしまった。よくないことだな。それが気になっていた人なら尚更よくない。
つまり酷いこと言われるくらい酷いことしちゃったってことだよな。
それに気付いたらもう三秒で止まるどころか三十分かかっても止まらないような後悔が目からつぶつぶになって出始めた。
「雨が……降ってたから」
これはさっきの質問の答え。なっているようでなっていない答えだ。分かってんだけどこれしか出てこなかったんだ。
てか俺鼻声だ。気付かれたらまずい。
「はあ?」
「雨が降ってたから! ばーか! お前なんか知るか! ばーか!」
「……泣いてる?」
なんで下向いてんのに気付くんだよ! 最悪だ!
「泣いてねえよ! お前の目は節穴か!」
もういいやと思って顔を上げて思いっきり睨みつけた。
彼の目が髪と一緒の色にきらりと輝いた。流れ星みたいに一瞬だけ。
青い青い。でも欠けた青だ。ラムネの瓶が欠けるみたいに。欠けた青だ。綺麗なのに。
なんでだろ。なにが彼をそうさせているんだろ。もしかして。
もしかして俺? こんな綺麗な青を欠けさせたのは俺? ……最悪だ。
「いや、泣いてるだろ……」
動揺している声だった。
「雨粒だよ! 二度と来るか! 馬鹿野郎!」
俺は勢いよく駆け出した。
「あ……おい!」
引き止める声が聞こえた気がしたけどたぶんきっと気のせい。
もうここには来られない。こんな醜態晒しちゃったんだから。青い色を欠けさせちゃったんだから。俺が俺でなくなっちゃった。ロウファが水たまりを弾いてスタッカートの音符みたいに飛び跳ねていく。
あ、っと思って。立ち止まった。
逃げる前にやることがある。
これだけは言わないといけない。
振り返ったら彼はまだ軒先にいる。雨に打たれてきらきら青く光ってる。自分の髪からも雨粒がぱたぱた落ちてきて、目からは温かい粒が流れていて、鼻からしょっぱい鼻水が垂れていて、もう最高に気持ち悪いのが自分でも分かる。これはさすがに気持ち悪い。
四、五メートルくらい離れていたけど、雨もざーざー降ってたけど、それでも聞こえるように、と大きく口を開けた。彼の目を見て言う。
「気味悪がらせて、ごめんなさい」
鼻声が頭に響いてうるさかった。
「そんなつもり、なかったんだ……!」
頭を下げて、逃げるように踵を返した。
すごく悲しかったけれど謝った分少しだけ胸が軽くなった。
自分が納得したいだけの謝罪だ、これは。でも言わないよりはずっといい。気持ちは言わなければ伝わらないのよってばあちゃんが言ってた。それに悪いことしたと思ったら謝るんだよって、優月兄さんにはちびの頃から言われてる。それはまっとうな意見だと俺は思う。だから謝った。
これでよかったってことにしよう。するしかないじゃん。
今はただ、今すぐ自分の部屋に閉じこもって泣いてしまいたい。もう泣いてるけどね。いや泣いてないけど。
走っているせいで息が上がる。喉が痛いし顔もぐちゃぐちゃなのに。
思うことはやっぱりあの人のことだった。
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