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 僕はカウンターテーブルに座っているきいちゃんに注文されたコーヒーを淹れて差し出した。ミルクも砂糖もいりません、と彼は可憐な声で言うんだった。いつもは紅茶を頼むのに、なんだか少し面白い。どんな心境の変化だろ。 「お待たせしました」  長い睫毛が際立つ伏し目がちだった視線が僕と交わる。大きな瞳はヘーゼルナッツ色のカラーコンタクトが入っていた。最近のお気に入りなのかな。この前までの青色のカラーコンタクトも素敵だったけど。 「……どうもありがとう」  声変わり途中の掠れた高い声がすごくいいな。  彼はウェーブのかかった長い銀髪を肩のほうに左手で流して両手でカップを持った。カップは毎日綺麗に磨いているからぴかぴかしている。それと同じくらい彼の手もぴかぴかして陶磁器のように白かった。  彼がカップの口元に寄せると、着ているロリータのワンピースの姫袖が、まるで幕が閉じるようにはらりと下がる。右手の小指にしている華奢なピンキーリングがきらりと光った。 「……苦い」  しかめる顔すら洗練されている。 「なにか入れてみたら?」  微笑みながら提案したけれど、彼は静かに首を横に振るだけだった。 「エスプレッソはブラックがいいって言っていたから……その……優月さんが」  吹き出しそうになるのをなんとか抑えた。『優月さん』だってよ。 「そんなこと言ってたっけ?」 「言ってた」 「好みがあるんだし、きいちゃんが美味しく飲めるほうがいいと思うけどな」  きいちゃんが笑った。さっきの慎ましさなんて吹き飛んだような闊達な笑顔だった。 「ぶっちゃけこの姿でブラック飲んでる高校生男子ってシブくない? 話し方も控えめな感じにしてサ」  しかもエスプレッソ! と彼は可愛いレースのネイルをしている指先をカップに向けてまた笑う。 「俺にエスプレッソは無理だな……砂糖とお湯と大きいカップを頂戴」  割って飲むわ、と困ったように笑った。  飲み残すという選択肢がないのは、コーヒーを淹れた僕からすればとても嬉しい。僕は言われたもののほかに、おまけでマーマレードのクッキーを添えた。彼は嬉しそうにありがとうと言う。  お湯で割った甘い甘いエスプレッソを半分くらい飲んだところで、彼は不意にところで、とコーヒーカップを置いた。  椅子から立ち上がるとちょっと距離を取って今日の服装をみせるようにくるりとその場で一回転する。  男子の体格だと思えないくらい完璧にロリータファッションを着こなしている。正直僕はあまりロリータの服には詳しくないけれど、メルヘンな色のデコレーションケーキみたいな可愛い服ということで解釈は落ち着いている。 「可愛いでしょう? ……可愛くない?」  きいちゃんは一瞬顔を曇らせた。銀色の髪がはらりと肩から首のほうへ流れていく。 「うん、可愛い」 「服が?」 「服も」 「もう一回言って」 「今日のきいちゃん可愛い」  僕は笑った。きいちゃんは嬉しそうに笑って満足そうに頷くとまた椅子に座り直す。ドレスに皺がつかないように気をつけて座っている。自然とこういうことをしちゃうんだから、きいちゃんはやっぱり根は丁寧なんだよなあ。 「今日はノエルがいないから、今一番気に入ってるコーデで来たの」  確かにノエルはいない。なぜなら高校に行っているから。平日だからね。  僕は自分から向かってほぼ正面にかかっている掛け時計をちらりと見た。この時間帯だと、ノエルは下校中か高校を出たくらいだろう。 「ノエルと喧嘩でもしたの?」 「ううん、優月にぃと二人きりになりたかったの。ノエルがヤキモチやくでしょ。俺の兄さんになにすんの! って顔するし。あいつ自分では気付いてないけど分かりやすいから。それに今日はお店もお客さんが少ない曜日でしょう? そう思って高校バックれた」  あまりにも清々しいのでつい吹き出してしまった。こういう子は嫌いじゃない。  それに僕と二人きりになることと高校へ行くことを天秤にかけて、僕のほうを選んでくれたのはとても光栄だ。この可愛い男の子に、尚更なにかあげたくなってしまう……と、そう言えば冷蔵庫に試作品のお茶菓子があるのを思い出した。ちょうどいいや、と思って冷蔵庫に向かう。屈んだら後ろに束ねている腰上くらいの長い真っ直ぐな髪が前のほうへ落ちてきた。ちょっと邪魔だけど邪魔すぎるほどではない。片手で髪を梳きながら、彼に見えないようにチョコレートのホールケーキを持っていく。  中にストロベリーのホイップクリームを入れてみた。上には刻んだいちごのグラッセとラズベリージャム。いちごが好きなノエルが気に入るかなって思って作ったけれど、さすがに全部は食べられない。でもつい作りすぎてしまう……以前なら、ワンホールのケーキを作っても二、三日でぺろりと平らげてしまう人達が僕の周りにはいた。その感覚でなにを作るにしてもつい作りすぎてしまう。  きいちゃんは頬杖をつきながら僕のことを見つめているみたいだった。視線を感じる。ヘーゼルナッツ色の瞳が艶めいて、恍惚に満ちた顔になっていた。 「優月にぃってほんと綺麗、見てるだけで幸せ。ノエルが羨ましい。死ぬほど羨ましい」  僕は苦笑する。 「綺麗なんてとんでもない。君より十五くらい上なんだから……もうとっくに青春は終わっている歳だよ」  そう言いながら自分の手を見た。記録がないから確実なことは分からないけれど、僕の指は間違いなく十年前より皺が増えたし、相応に使い込まれた姿になっている。思うことも考えることだって変わった。髪型だって変わった。  でもそれは悪いことじゃないんじゃないかなって思う。だってなるようになるしかない。過ぎた日々は戻らないし、戻って欲しいとも思わない。それを受け入れる余裕があるし会う度に綺麗って言ってくれる僕を慕ってくれる子もいるし……僕にかかった時間と同じくらいノエルも成長していて、環境が変わっていって……変わらないものもあって……今はそんな時が愛しい。 「まるでそうは見えないし、髪だってこんなに綺麗! 地毛でしょ? 俺のヅラだし!」  そんなことない、ってつい言ってしまいそうになるけれど、慕ってくれている子に向かって謙遜するのも彼の自尊心を深く傷つけてしまうことになるかもしれないと思ったから、ありがとう、と困ったように笑った。 「どうぞ」  切り出したピースケーキを出すと、きいちゃんはうわあ、と声を上げる。 「なにこれ!」 「作ってみたの、よかったら食べてみて」 「え! 優月にぃの手作り?」 「うん……僕の手作り」  なんかみなまでそう言われるとちょっと照れるなって思ったら顔が熱くなった。隣町のお菓子屋さんのケーキには遠く及ばないけれど、それなりに頑張って作った。 「コーヒーにも合うと思うよ」 「食べるのもったいない……でも食べないのももったいない……優月にぃの手作り……ありがとう優月にぃ! いただきます!」  笑顔がきらっきらしている。太陽を反射する水しぶきみたいに。控えめな口調のロリータファッション男子の設定はどこにいったんだろう。でもきらきら笑顔もその服に合っているよ、きいちゃん……っては言わないでおいた。たぶんこの子はそれを分かっている。端的に言うとセンスがいいし、自分を客観的に見るのが上手い。  美味しい、と感激したようにきいちゃんは言った。彼はその口でお湯で割った甘いエスプレッソを口に含む。小さい顔がリスみたいに膨れている。可愛いなって思う。この年頃の子をそう思えるくらいには、自分も歳を重ねたなあって思ったり思わなかったりする。 「コーヒーに合う! てか、飲める!」 「よかった」  面白いなあ……ノエルはこんな友達と毎日を過ごしているんだって思ったら思わず安心した気持ちになる。 「これは? 優月にぃの?」  カウンターにはきいちゃんの分ともう一皿ピースケーキが置いてある。皿にはフォークも乗っていて、まるで誰かのためにそこにあるみたい。彼が疑問に思うのも分かる。  だけど僕は首を横に振った。 「ううん、僕の分じゃない」 「じゃあノエルの?」 「ううん、ノエルのものでもない」 「えー? じゃあ誰の分なの?」 「これは……ここにはいない人の分」 「どういうこと?」 「ここにいない人たちが……旅先でも食べ物に困りませんようにって、お祈りみたいなもの」  へえ、と彼は少し興味がありそうな声で相槌を打った。 「いつもやっているの?」 「ううん……自分で作った時だけ」  言っててなんだか恥ずかしくなる。自然と肩をさすってしまう。 「……作った物を、食べて欲しいなって、思った時だけ」 「優月にぃ、顔赤い」 「……気のせいだよ」  笑ってごまかしたけど、聡明な彼はなにかを感じ取ったに違いない。僕ってこういうところがスマートになれないからダメ。ここにマダムがいたら笑われてしまう。 「でもこれノエルのために作ったでしょ」  きいちゃんがなにかが含まれているような笑みで言った。 「……どうして?」 「いちごまみれだもん」  僕は破顔して正解、と右手の人差し指と親指で丸を作る。きいちゃんがなにその仕草可愛い、と呟いたのを、そっと聞き流した。 「喜ぶかなって……なんか最近、ノエル、なにかに思い詰めているみたいだから」 「やっぱりそう見えるよね。俺にもそう見える」  思いがけずきいちゃんが賛同したので、僕はちょっと驚いた。 「きいちゃんもそう思う?」 「思う。まあだいたい想像つくけど。あいつ分かりやすいから」 「本当?」  できたらその想像とやらを聞いてみたい。でも大人が首を突っ込むことでもないだろうっていう気持ちが歯止めをかける。ノエルたちにはノエルたちのコミュニティがあって、彼らはそれに干渉を許さない時期になってしまった。ちょっと寂しいけどそういうものなんだろうって言い聞かせている。 「気になる人ができたって感じ。学校でもよく上の空だよ」  きいちゃんは口の端についているいちごのホイップクリームを舌先で舐め取りながら、なにかに思いを馳せるように笑うんだった。少し複雑そうだった。その複雑さは流れ星のように一瞬で洗練された表情の向こう側へ消えていってしまった。  僕はなにも言わなかった。言えなかった。気になる人、ってどういうことだろう? いろんな感情が津波のように押し寄せてきそうになったから、静かに思考に蓋をした。僕は今お客さんであるきいちゃんと会話をしている店員なんだから。  私情に呑まれるのは大人げないって自分の気持ちを見ないふり。 「ねえ、優月にぃの話を聞かせてよ」 「僕の話?」  クリームの付いたナイフや食器を片付けながら、僕ははぐらかすように微笑する。 「ノエルとはいつから一緒なの?」  目を輝かせる彼は本当に噂話やお喋りが好きな女の子みたいだった。 「俺くらいの時ってどんなことしてた? 恋人はいたの? 好きな子とか! なにやってたの?」  好奇心に満ち溢れている彼は本当に楽しそうだった。こんなふうにすべてが綺麗に輝いていた時代が僕にもあった。ここまできらきらしてなかったし、苦い思い出ばかりだけど。でも、すごく幸せなこともたくさんあった。  そういうことを思い出すとやっぱりノエルとの出会いは僕にとってかけがえのないものだ。今の僕の幸せは、ノエルが運んできてくれたって言っても過言ではない。 「さあ、どうだったかな?」 「今日は聞くまで帰らないからね!」  くすくす笑ってごまかした。  店内のBGMはゆったりとしたコントラバスのJAZZ。静かな昼下がり。  もう一時間もすれば、ノエルが帰ってくるだろう。  それまで彼に付き合うのも悪くない。  窓の外の天気は快晴だけど……まもなく雨が降るだろう。

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