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 想像以上に入口の扉を勢いよく開けてしまったのかもしれない。ドアベルが激しく鳴っていたから。いつもは綺麗に響くベルの音が今日は嵐のようにけたたましい。  俯いていたけれど、濡れて束になった髪の隙間からコーヒーカップを磨いていた優月兄さんが顔を上げたのが見えた。ゴシック建築みたいな雰囲気のある店内には客はいないようだった。  すごく寒い。 「おかえりノエル……」  いつものように声をかけてきた優月兄さんは続く言葉を止めて、少し驚いたように目を見開いた。そりゃそうだよね。空の晴れ間とは裏腹に、全身びしょ濡れなんだから。  普通だったらなんで傘を差さなかったのとか、どうしたのその格好とか訊ねてくるんだろうけど、優月兄さんはそんな野暮なことは聞かないで、いつもみたいに柔らかく笑って、寒いでしょうタオルを持ってくるねと言うだけだった。  それで……いつもだったらありがとうって素直に言えるのに、なんだか今はそんな気分じゃなくて、できれば誰とも口をききたくなかった。というか、余計なお世話だってイライラした。誰にも会いたくない。誰にも見られたくない。誰にも存在していると思われたくなかった。 「いらない」  一言そう言って、真っ直ぐ階段のあるほうへ歩いていった。 「そう……温かいものでもいれようか?」  放っておいてほしい。 「いらない」 「でも風邪を引いてしまったら……」 「いらないって言ってんだろ!」  言ってしまったあとではっとした。  兄さんがとても驚いたような顔をする。でもそのあとすぐにまるでさっきの表情がなかったことのように思えるくらい一瞬で表情を変えて、微笑みながら分かった、って頷いたんだった。  なんかそれにもイライラしてしまった。馬鹿にされたような気分になってしまって、なにも言わないで階段を上って自分の部屋に飛び込んだ。  鞄を床に放り投げて濡れている制服も気にしないで、木製のちょっと古めかしいベッドにダイブする。ベッドが軋んで、聞き慣れた音を立てた。  頬に布団の温もりが心地よくて、さっきまで落ち着いていたかもしれない涙が、また勝手に溢れてくるんだった。そしたら胸に漣が起こって欠けた青い人に言われた酷い言葉とか、酷い格好とか、兄さんに言ってしまった酷い言葉とかが、まるで海の底から生まれる火傷しそうな熱いあぶくみたいに沸々と浮き上がって、嗚咽まで漏れ始めた。  枕に勢いよく顔を押しつけて流れる涙を必死で抑えようとしたけれど暖簾に腕押しするように馬鹿みたいにまるで無意味だった。その無意味さときたらあるいは満場一致でそれは無意味ですねと活動内容が謎の科学者とか偉い人とかいろんなことを自分にいいように決めている人とかに反論の余地なく結論付けられるほどだったと思う。なにをどうしたって涙は止まらなかった。悲しいから泣いているのか泣いているから悲しいのかだんだんよく分からなくなってくる。頭のてっぺんと眉間の間ががんがんしたし鼻の奥が渋柿を食べた時みたいに痛んだ。  気味悪がらせてごめんって謝ったけど、やっぱり気持ち悪いって思われていたのは端的に言ってショックだったし、気持ち悪がられていた自分にもがっかりだった。あんまり酷いよ。謝ったけど、そんなすぐに立ち直れないよ。  どこの高校なのかとか、なんでここにいるのとか、そんな踏み入ったことをたくさん聞きたかったのに、ほんとおかしい、名前すら聞けなかった。もう会わないほうがいい。悲しくなる。  頭上になにか落ちてきた。ふわっとした触感だった。顔を上げたら明暗と涙のせいで目がしばしばする。ぼろぼろの三十五センチくらいある黒うさぎのぬいぐるみだった。ビリジアンのリボン帯と同じ色のポシェットを斜め掛けしている。  俺は俯せていた体を起こして、ベッドの上に座り込んだ。黒うさぎを掴む。こいつとは物心つく前から一緒にいる。話しかけてもなにも言わない。顔のわりにクールなやつ……耳を掴んで、壁にぶん投げたくなった……けどできなくて、ぼーっと眺めていた。  ポシェットが目について、ボタンを外して、中を見た。五百円玉が入ってる……小さい頃から入っているんだった。兄さんが入れてくれた。小さい時俺はこの黒うさぎをどこにでも一緒に連れて行っていたから、道に迷ったり、お腹が空いたり、なにか必要になったら使いなさいって、お守りみたいに入れてくれてた……優月兄さん。  そっとうさぎ抱きしめて再びベッドに倒れ込む。濡れた制服は酷く冷たかったのに、黒うさぎは温かい。また涙が出てきた。兄さんにも俺は、なんて酷いことを言ってしまったんだろう。本当に俺は最低だ。最低最悪のゴミみたいなものだ。  兄さんきっと酷く悲しんでる。酷いことを言われた時の気持ちを、ほんの小一時間前に、とても鮮明に感じて深く傷ついたばかりなのに、なんで自分がそんな気持ちにさせてしまう立場になってしまったんだろう。自分のことしか考えてないなんて、もう俺は子どもじゃないのに。なんて酷いことを言ってしまったんだろう。  謝りにいかないと、今すぐベッドから起き上がって、扉を開けて、階段を下って、兄さんに謝らないと、謝って、思ったことを、ちゃんと伝えないと……。  ハッと飛び起きたら、部屋が真っ暗になっていた。濡れた制服のまま眠ってしまっていたらしい。ぬいぐるみを抱いて寝たのなんていつぶりだよ。ぬいぐるみ抱えて寝る高校生男子って……明らかに酷い絵面だな……悪寒がする。扉の隙間から、廊下の光が零れている。  兄さんに謝りに行かないと……!  涙は止まってた。少しすっきりしてる。声はまだ出してないけど、そこまで鼻も詰まってない。大丈夫。目は腫れてるかもしれないけどこの際もうどうでもいい。  もう寝てしまったかな、まだ一階にいるかな、と焦る思いを抱えながらなりふり構わず飛び出した。  そうしたら階段の隙間から下のほうに灯りが見える。階段を一気に下りた。兄さんはカウンターにはいない。どこにいるんだろう? 灯りの先を目で追うと、窓際のテーブルに座っていた。肩にえんじと茶色のチェック柄のブランケットをかけている。なんの気なしに使っているように見せているけれど、すごく大切にしているのを知ってる。だってそのブランケットはカケルが兄さんに贈ったやつだから。  結構な音を立てたはずなのに、兄さんは俺に気付いていないようだった。右手には読みかけの文庫本を持っているけれど、そこに目は向けられていない。いつもは結んでいる髪を下ろして、左手で頬杖を突きながら、窓の外を見ているみたいだった。なんだかおとぎ話に出てきそうな光景に一瞬息を呑む。階段のないすごく高い塔に幽閉されている人の話。そういう話をなにかで読んだ気がする。それを思い出した。  普段とは裏腹に後ろ姿は寂しそうでなんだかよく分からないけどそれと同じくらいすごく艶っぽい色をしていた。いつも笑顔の裏に隠れて見えない兄さんを見ているみたいだ。空気を切り裂くのが躊躇われるくらいそこは静寂に満ちている。  なにを考えているんだろう。 「……兄さん」  静寂に勢いを失われた静かな声で呼んだ。  兄さんは静かに振り向く。まるでたった今この空間にいる自分以外の存在を知ったみたいだった。  腰の上くらいまである綺麗な髪がはらりと靡く。 「……ノエル」  兄さんの目はぼんやりしていた。少し疲れているみたいな感じもした。昼間の活気はなくて、夜のまったりした大人な雰囲気が見え隠れしている。騎一が見たら発狂して死ぬかもしれない。  文庫本を躊躇わず閉じていつもと同じように微笑んでくれる兄さんに、俺は親とはぐれた子犬みたいな気持ちになってたまらず駆け寄った。優しいお茶の匂いがする。  どうしたの、って兄さんが語りかける前に、ごめんなさい、が口を突いて出てきた。 「ごめんなさい、さっき、酷いこと言ってごめんなさい」  椅子に座っている兄さんの手を取って、うるさい声で言った。兄さんの手は温かかった。  優月兄さんはのんびりと首を横に振る。その落ち着きが余計俺を後悔させた。 「気にしてないよ。僕こそごめんね」 「ほんとはタオルもいるんだったの、温かいものも欲しかったの、でもあんなこと言ってごめん、あの……俺……」  俺は言おうと思った、今日の昼間にあったとても悲しいこと……でもどう言ったらいいか分からなくてできれば触れたくないこと。だって俺、このままじゃ理由もないのに兄さんを傷つけてしまったみたい。言い訳って言われたって仕方ない。  意を決して言おうとした瞬間、兄さんの手は俺の手から離れていってそのまま俺の両の頬を包み込んだ。眼差しは落ち着いていたけれど、真っ直ぐで真剣だった。 「言いたくないことは言わなくてもいい」  どきっとした。流している髪も相まってなんだか違う人みたい。少し母さんを思い出してしまった。似ているわけじゃないのに。  すごくもじもじする。そんな自分が嫌だ。 「冷たい……お腹は空いてる?」  押し黙っていると、俺の頬に手を添えている兄さんが静かに聞いてくる。いつもの調子だ。 「……空いてない」 「それならお茶を淹れてあげる。飲む?」 「飲む」 「じゃあ服を取り替えておいで。風邪を引いたら大変……もう手遅れかな」  兄さんは苦笑した。俺はそう言われて初めて体の寒さを実感する。足先から手先まで、全部冷たくてかじかんでいた。兄さんに触れられている頬だけが温かい。 「そんなことないよ! 大丈夫、だって俺体丈夫だし……行ってくる!」  うん、と微笑まれる。弱々しい光に照らされた兄さんの浮き上がった顔は、今までよりももっともっと優しそうで、それで、すごく儚かった。透明になって消えてしまいそう。早くカケルが戻ってくればいいのに。俺じゃ兄さんの寂しさは埋められない。  兄さんの手が離れていく。カウンターに向かう兄さんは長い髪に手をかけた。髪を纏めようとしている。 「あ……兄さん……髪……結ばないで」  口から零れたあとにはっとした。ついうっかり本音が出てしまった。俺は目をうろうろさせて続きの言葉を探す。 「その……そっちのほうが、いいな、なんとなく……今は……」  くす、と笑った兄さんはそれ以上なにも追究しないで、ただ一言、分かったって言っただけだった。  ゆっくり着替えて部屋から戻ると、ハーブティーの香りが馨っていた。俺の中で優月兄さんって言ったらこの香りだ。俺にはハーブのことはよく分からないし今後知るつもりもないけれど、兄さんの淹れるお茶は好きだ。ちなみにりんごの匂いがする紅茶はばあちゃんで、コーヒーは母さんって感じ。じいちゃんは冬の風の匂いがする。カケルはせっけんの匂い。 「いい香り」 「よく眠れるように……制服、ちゃんとハンガーにかけた?」  さっきまで兄さんが座っていたテーブルに、ティーセットとピースケーキが置いてある。 「うん、かけた……まだ濡れてたけど……このケーキもしかして兄さんが作ったの? いちごがいっぱい」  チョコレートケーキなのにいちごのショートケーキにも負けないくらいたくさんのいちごがつやつやになって乗っている。たぶんスポンジの間にもたくさん入っているはずだ。食べることを想像しただけでなんだかお腹が鳴りそうだった。 「うん……ノエルが喜ぶかなって……でも遅い時間だし……お腹も空いてないんだよね。食べるの明日にしようか」 「食べるよ!」  遠慮がちにはにかむ兄さんにそう言って、椅子に座った。兄さんは俺の横でお茶をカップにいれてくれた。兄さんの流している髪が頬に少し触れてくすぐったかった。  胸が温かくなって一口飲んだ。 「あっつ!」  俺の反応を見て正面に座った兄さんが笑っている。今日見た兄さんの笑顔の中で、一番安心する笑顔だった。  体がぽかぽかする。ケーキも美味しい。この美味しさについて思うことはたくさんあるのに、それを伝える言葉を『美味しい』しか知らないからそればっかり何度も繰り返した。騎一だったらもっとまともな反応をしたのかもしれない。あるいは郁だったらもっと、もっと簡潔で、最も伝わりやすい言葉を選ぶことができるのかな。  でも俺は美味しいしか言えない。だけど兄さんは嬉しそうだった。こそばゆい。  目の前に座っている兄さんはちょっと伏し目がちになりながら頬杖をついて、さっきからかかっているラジオの音に耳を傾けているようだった。今日起こった事件やニュースの話が流れている。俺もなんとなくお茶を飲みながら耳を傾けた。  ここじゃない別の土地では、随分酷いことがたくさん起こっているみたい。自分の子どもが泣いていても知らんふりをして少しも相手にしない親や、親を殺す子どもや、自分を殺す人のことや……なんでこんなに苦しくなるようなことばかりなのだろう。  俺の身近ではそんな苦しい話は聞かないから、俺が生きている時間と同じ時に本当にそんなことが起こっているんだろうか、と不思議に思う。兄さんはなにを思ってこれを聴いているんだろう。  兄さんがぴくりとも動かないので、俺は兄さんに話しかけることにした。 「ねえ兄さん……俺って口悪いかな」  今日言われたことだ。  頭ではもう終わったことだって思えるのに、やっぱり心は追いつかない。  兄さんは伏し目を上げて、俺に向かって微笑んだ。 「悪くないよ。なにか言われたの?」 「顔のわりに口が悪いって」 「それは可愛いってことじゃないかな」  思ってもいなかった言葉に、一瞬我を忘れた。顔がぶわっと熱くなる。 「……そういう考えは楽観的過ぎない?」 「いけないことかな?」  兄さんは歌うように言った。 「どんなことにも裏と表があるんだよ。だから……好きな解釈をすればいい」 「じゃあ気持ち悪いって言われた言葉の裏返しは?」 「好き」  兄さんが微笑む。 「嫌悪の裏返しは、好き」  もっと信じられない言葉が出てきた。俺はその意味について深く深く考えた。海の底よりも深く、眠り姫の眠りより深く。  好き? 気持ち悪いって、好きってことなの? いやだってあの顔は明らかに気味悪がられてたし鬱陶しいって顔だった。明らかに好きとはほど遠い顔だった。それなのに好きだなんて、そんなこと……。 「まさか。そんなはずない」 「気になってなかったら、気持ち悪いって思うこともない」  あっけらかんと言う兄さんは、全然冗談を言っている顔をしていなかった。至って真面目だ。 「……そうなのかな」 「きっとそう」  なんでだろう。兄さんがそう言うとそうなのかもしれないって理由もないのに思っちゃう。それで……ちょっと希望に似た気持ちが沸き上がってくる。すごく温かい気持ちになる。なんでだろう。お茶といちごのケーキのせい?  心臓がばくばくして、頬が熱くてちょっと落ち着かないといけない。兄さんの顔を見るのがなんか恥ずかしくて、俺はちびちびお茶を飲んだりケーキを食べたりして適当にラジオを聞いた。  天気の話題になっている。 「……向こう一週間晴れだって、暖かいといいな」  無言の空気が少し気まずくて独り言みたいに言ったら、兄さんがそうだねえ、と間延びした声で言ったあと、空気の匂いを嗅ぐように鼻で息を吸って、少し首を傾ける。 「うん……でも……明後日か、その次の日くらいかな……午後に少し早めの初雪が降るよ」  兄さんの天気予報は当たる。どんな晴れの日でも兄さんが雨が降ると言ったら降ってしまう。今日の狐の嫁入りだって、ラジオの天気予報にも、新聞にも、友だちの話にもなかったけれど、兄さんだけは予言していた。 「その日は手袋とマフラーを……持っていったほうがいい。それと今日どこかに置いてきた緑のチェックの傘もね」  せっかく今日は雨が降るから、って言われて持って行った傘は、学校に忘れていってしまった。朝傘を持って登校してきた俺に郁が「雨なんか降るはずない」って馬鹿にしたように言っていたことを思い出す。明日あいつに会ったら飲みものでもおごってもらおうかな。 「温かくしておやすみなさい……歯磨き忘れないでね」  一段落したあとで、兄さんがいつものようにそう言った。  俺は椅子から立ち上がった。欠伸が出た。兄さんが笑ってる。 「うん、おやすみ……兄さん、このケーキまた食べたい。兄さんの作ったケーキ、俺好きだな……隣町のケーキよりも! お茶もすごくぽかぽかして気持ちいい」  言わなきゃ気持ちは伝わらないって、ばあちゃんが言ってた。  優月兄さんが、すごく嬉しそうに笑う。 「ありがとう」  俺もなんだか嬉しい。鼻がムズムズして、くしゃみが出た。まだ出そう。  兄さんがなにかを察した顔で微笑んで、電気毛布と氷枕はどこにしまったかなあ、と呟いていた。

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