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 ここ二日閉まりきっていた向かいの出窓のカーテンが開いていた。  その窓から微かに黒うさぎの耳が見える。あれはノエルの黒うさぎのぬいぐるみで、確か名前は『うさぎのノエル』っていうんだ。初めてこの窓から会話した時、すごく恥ずかしそうにその名前を教えてくれた。物心がつくかつかないかくらいの頃に自分で付けた名前らしい。照れくさい名前だったら嘘を吐けばいいのに、ノエルはそういうところが馬鹿だなあって思う。でもそれがあいつのいいところなんだ。真っ直ぐで、正直で、裏表のないところ。それってできそうでなかなかできない。  特に俺には難しい。  自分には難しいことを簡単にできる人はすごいって思う。だけどそれと同じくらい羨ましいと思ってしまうし、自分がもどかしくて嫌にもなる。  そんな気持ちは露も見せないけどね。  部屋の窓を開けて、息を大きく吸った。 「ノエルー!」  向こうの窓を窺いながら続ける。 「いないのかー! 熱下がったのー?」  数十秒後、寝間着姿のノエルが顔を出して窓を開ける。寝癖がついている。でも顔色は悪くない。寝飽きたって顔をしている。そりゃあ三日も学校を休んで寝ていたらそんな顔にもなる。  ノエルは俺を見ると少し青白い顔で笑ってみせて、そしておはよう、と言った。  もうこんにちはの時間だけどな。 「下がったよ。体もいつも通り……騎一は……今日は制服なんだ」 「今学校から帰ってきたばかりだからね」  最後に会った時より幾分かすっきりした顔をしている。それでもまだなにか心に引っかかることがあるような顔だ。こりゃ気になる人となんかあったな。どう転がったかは知らないけどサ。  最近のノエルはまるで自分の心臓に部屋を作ってそこに入ってなにかを延々と考えているような感じだった。自分では内緒にしているつもりみたいだったけれど、たぶん仲のいい人は気付いていると思う。 「今日来ればよかったのに。今日はいちごホイップメロンパンの日だったよ」  いちごホイップメロンパンは月に一回、限定二十個だけ購買で販売されるパンで、ノエルが毎月血眼になって死守しているものだ。いちごでホイップでメロンっていうのが俺にはいまいちくどくて心に響かないけど。なんだよいちごでメロンって。いちごかメロンにしろよ。それにメロンパンの糖質は悪魔的だ。恐ろしい。  ノエルはみなまで言うな、って心底口惜しそうな顔で頭を掻きながら舌打ちしている。 「来月二個買えばいいんだよ」  いちごホイップメロンパンは人気商品なので、一回の会計につき一つしか買えない。てことは誰よりも早く二回並ぶか、誰かに買ってくれるようにお願いするしかない。 「俺は行かないからな」  先手を打つとノエルは困ったように笑う。 「郁に頼むよ。あいつ忍者芸すごいから」  郁の名前が出るとは思わなかった。胸が一瞬きりきりする。 「そんな時ばっかり」 「郁ならいいよって言ってくれそうだけどな……迷惑かな」  言ってくれるに決まっているサ。だって郁はノエルのことが好きだもん。ノエルのお願いならきっとなんでも聞いてくれるに違いない。  俺は郁のことを思うと、地球が最期の日に独りで海を眺めているような気持ちになるんだった。  彼が心から笑える日が来ればいいのにな。その日はきっと、ノエルが郁の気持ちに応えてくれる日に違いない。その日が来ることを俺は願わずにはいられないんだ。 「なあ、それよりさ、川いこう、川!」  気が滅入ってしまう。話題を変えよう。 「はあ? 川……? 紫針(しはり)まで行くの?」  紫針っていうのは、ここから隣のそのまた隣の街の名前。電車で十分くらい。 「行かねえよ! 近所にあるじゃん、海の近くの! 自転車ですぐだろ」 「なにしに行くんだよ。もう冬だし生き物はみんな寝てるよ」 「お前の水切りが見たい」 「なんで今日なんだよ」 「今日ついうっかり見たくなったんだよ。昼休みにさ、屋上でフリスビー投げてるやつがいてさ……馬鹿だろ? 屋上だよ? フェンス越えて下に落ちてったの。ほんと馬鹿。それ見てたら、お前の水切りが見たくなったんだ」  ノエルの水切りはすごい。初めて見た時のことを今でも思い出せる。  こんな馬鹿なお願い、普通はノーって言うだろ? だって風邪で三日も休んでた人間がもうすぐ宵闇が背中を追ってくる時間になるっていうのに、わざわざ自転車に乗って、川に行って、水切りするなんて、そんな馬鹿なことするかって思うだろ。答えはノーだろ。だけどノエルは違うんだ。 「今から?」 「うん」 「分かった、着替えて下行くよ。十分待ってて」 「分かった」  少しも迷惑そうじゃない、彼は出窓を閉めて、最後に俺に手を振って、レースカーテンの向こうに消えた。あいつのこういうところ好きだ。家が隣で本当によかった。  しばらくそんなことを考えて、窓辺でぼーっとしてたら、十秒と経たない間に、ノエルが再び出窓から顔を出してきた。ごめん、言い忘れてた、と言った彼は続けて、 「花、ありがとう……つっても花瓶に生けたのは兄さんだけど……おかげで元気でた」 「ああ……そんなこと……」  不意打ちでろくな返事もできなかった。確かにノエルが風邪で学校を休んだ日に、お見舞いみたいな気分で花を渡したけれど正直言って本意はお見舞いと言うよりは優月にぃに会いたかったっていうほうが正しいし、そんなことすっかり忘れていた。感謝されるなんて思ってもいなかった。 「すごく綺麗な百合だ……今も机に置いてある」  そう言ってノエルは窓辺から離れると、百合の生けてある花瓶を持ってきて俺に見せてくれる。一昨日姉貴が市場から仕入れてきた白い百合をちゃんと長生きするように整えたんだから当分元気に咲いてくれているに違いない。 「病院に持って行くわけじゃないし、いいかなって。お前、匂いが好きだって言ってたじゃん」 「覚えててくれたんだ」  ノエルは百合の花を抱えながらはにかむ。百合の花よりノエルの笑顔は正直言って癪だけど美しかった。見たことはないけれど、きっと母親によく似ているんだろうと思わせる中性的な顔立ちをしている。  なよなよした性格じゃないからあまり気付かないけれど、黙って花の傍にいればだいぶ可憐だと思えるような顔立ちだ。それなのに眉が凛としていて少しも媚びていないし、少しだけ上向きの瞳も可憐なだけじゃない清廉な印象を与える。印象ってだけじゃなくて、ノエルは結構清廉だと思うけれど。あんまり欲がない。電車の席とか、待機列とか、お弁当のおかずとか……なんでも人に譲ってしまう……いちごホイップメロンパン以外は。本当にいちごが好きらしい。俺にはこんなふうにはなれないし、なるつもりもないな。  俺は欲しいものは手に入れたいし、誰にも盗られたくない。どんな手を使ってでも願ったことを実現させたい。誰からどう思われたとしても。 「優月にぃはなんか言ってた?」  冗談半分で聞いたのにノエルは馬鹿正直に言う。 「ちゃんとお礼言うんだよって。あと……いい香りって言って、花びらを触ってたよ」 「その花びらくだい」 「ばーか、どれなのかもう分からないよ」 「印つけといてよ」 「つけねえよ」  笑ってそう言うと彼は今度こそ出窓を閉めてもう戻って来なかった。  俺は大きく背伸びをして、深く息を吸った。制服を脱いで適当な服を突っかけて家を出る。ノエルはまだ来ていない。いつも俺のほうが遅いのにどうしたんだろう、って思って『DEAR ROI』の入り口を見る。  表通りから一本裏道に逸れた石畳の小路に建っている、なんとも古めかしい外観の純喫茶はものすごく趣がある。ゴシック建築に準ずるような佇まいは趣味のいい魔女が住んでそうな雰囲気だ。  そういえば、今は優月にぃが一人で『DEAR ROI』を切り盛りしているみたいだけど、何年か前まではノエルのおばあちゃんがオーナーをしていたみたい。俺はその人を見たことないんだけど、姉貴は「毎日が素敵になる魔法をかけてる人」って言ってたっけ。どんな人なんだろうな。  魔女の孫は魔法使いだよな。ノエルは魔法使いっぽいところがあると思う。特別な感じがするから。俺にはないものをやつは持っている。やだな。嫌な気持ちがぼこぼこと湧いてきそうになったから、俺は考えることをやめた。  そのうちノエルが扉から出てきた。もこもこのワインレッドの品のあるマフラーを首に巻いていて、手にはミトンの手袋を持っている。服装は俺とだいたい同じで、深緑のダッフルとスニーカーだけが違う。 「……まだそんなに寒くないだろ」  きょとんとしながら言ったら、ノエルが微笑んだ。なんだかずっと家の中で寝ていたからなのか、前よりもっと色白な感じがする。このまま透明になって雨と一緒に流れていってしまうんじゃないだろうかってくらい。優月にぃの面影を感じる。 「兄さんが……雪が降るからって」 「雪……?」  真上の夕暮れ空に雲なんてないし、そんな予感もしないけど……優月にぃがそう言うなら俺はもうなにも言うまい。 「兄さん今は手が空いてるみたいだけど……会ってきたら?」  ノエルが何気なく言った。 「ばか。この格好で会えるかよ」  いつも通りじゃん、ってノエルはなんの気なしに言う。そりゃお前からしたら見慣れている格好かもしれない。でもメイクもカラコンもつけ睫毛もファッションウィッグもしてない上にドレスも着てないヒールも履いてない格好で優月にぃの前には出たくない。  だって、なにも言わずに一番欲しい「可愛いね」のたった一言をくれるのは優月にぃだけだったんだ。この格好じゃ「可愛い」なんて言ってもらえない。 「兄さんはどんなお前も好きだと思うけど」 「俺の問題なの! 早く行こう、日が暮れる……でも優月にぃにはよろしく言っておいてよ」 「『よろしく』って?」 「いつも……いつも好きです、ってことだよ」  そっか、ってノエルは笑うけど、どんな気持ちを受け取ったのか気になる。  向かった川は林の中にあって、紫針のほうからずっと続いてるっぽい。よく分かんないけど地理的にそうだと思う。川辺は冬を越す準備をしている生き物でいっぱいだった。広義に解釈すれば、木々も、土も、水も……もちろん俺もみんな生き物であることに違いない。まだ木々の枝には紅葉した葉のいくつかがくっついていたけれど、だいたいが布団のように土の上に落ちてしまっていて、それは若干の湿り気を帯びてふかふかしていた。紅や橙で自然が彩られる時期はもう過ぎている。  ノエルは俺の前を歩いている。口数は普段の半分くらいだった。病み上がりっていうのもあるんだろう。でもなんだか今日のノエルは体の半分を水たまりの向こうの世界に置いてきてしまったような感じだった。  人は三日間家で寝ているだけでこんなにも変わってしまうのだろうか。そんなはずない。彼をいつもと違わせる要因が最近あったに違いない。それがなんなのか、具体的には分からない。今は。  川のせせらぎが近い。小川に着いてもノエルは俺の存在を忘れたかのように水切りによさそうな石を静かに探しているみたいだった。 「最近なんかあった?」  そんな彼の隣にしゃがんで、俺は単刀直入に聞いてみることにした。 「……風邪を引いたかな」  ノエルは表情を変えずにそう言った。 「それは知ってる。でもノエル……なんだかいつものお前じゃないみたいだ」 「いつもの俺ってどんな感じ」  語尾の上がらない平坦な言葉だったけれど、それは俺に対して質問をしている言葉なのだと分かった。  なんかさあ、と彼は自虐的に笑った。こんな笑い方をするノエルを、俺は初めて見た。 「気になってる人がいたんだけどさ」 「知ってる」 「知ってるってなんだよ」  ノエルは笑った。 「お前分かりやすいからな」 「そうかよ」  そのあと悲しそうにため息を吐いた。 「気持ち悪い、って、言われちゃったよ」  彼は今にも泣き出しそうな感じがした。でも俺は悪い気持ちはしなかった。むしろ……嬉しいと思った。ここに郁がいればよかったのに。  答えを探していると、ノエルが手頃な石を持って立ち上がる。  向こう岸まで六、七メートルくらい。  彼はミトンの手袋を外してダッフルのポケットに突っ込むと脚を開いて膝を曲げた。水面に向かって軽いスナップで手に持っていた石を投げると、それはまるで意志のあるもののように遠くへ、遠くへ跳ねていく。  すごく簡単なことのように見えるのに、何度やっても同じようにできないノエルの水切り……俺は思わず感嘆の声を洩らした。そしたらノエルが俺を見て笑う。今日初めて見る嬉しそうなあどけない笑みだった。あ、いつものノエルだ、と思った。でもその笑みは線香花火みたいに一瞬だけ華やいですぐ消えてしまう。 「向こう岸まで行くんじゃない」 「……いい石があれば」  そう言うとノエルは再び屈んで石を探し始めた。鼻からため息が出る。どうしたものかなあ、ってノエルを見ていたら鼻先が一瞬ひやっとした。雪だ。空を見上げた。雲はない。それなのに、雪が降っている。  優月にぃの予報は当たった。 「青空なのに……ほんとに雪が降ってきた」  俺は独り言みたいに呟く。 「兄さんの天気予報は当たる……」  ノエルはちょっと笑って、俺と同じように空を見上げた。そしたら石を探していたことも忘れてしまったみたいにずうっと空を見上げている。林の木々のシルエットが、空を切り取ったみたいに視界に映っていた。西のほうはオレンジなはずだけれど、切り取られた空はまだ青い。東から夜が迫っていて、ほんのり紺色だった。 「俺……青が好きだ」  ノエルがぽつりと呟いた。俺は首にワインレッドのマフラーを巻いているノエルの背中を見ていたけれど、その言葉の続きが気になって隣まで歩いていく。 「あんまりお前に似合わないと思うけど」 「似合わないから好きだ」 「どういうこと?」 「青って綺麗だ。心地いい色をしている」  俺の質問にはまるで答えない。ノエルはそのあとしばらく黙って空を見上げていた。もふもふのマフラーに唇が隠れているノエルの横顔は整って見えたけれど、雪のせいか鼻先が赤くなっていた。鼻先が赤くなっているせいか分からないけれど、なんだか瞳がつやつやしているような気がした。それでその横顔は、悲しんでいるように見えた。  俺はそんなノエルの横顔をずっと見ていた。ただ見ていた。雪がぽつぽつ落ちてきて、冷たい。この雪はたぶん積もらない。 「青ってなんでこんなに綺麗なんだろうな」  困ったような顔をして笑ったノエルの瞳は西日の光を反射させて酷くかわいそうに見えた。そんな苦しくなるような笑顔を俺に向けないでノエル。 「今度は向こう岸まで届く、騎一……見とけ」 「……うん」  そぉれ、と空元気みたいに言ったノエルは石を投げた。  ノエルが彼の気になる人に気持ち悪いって言われたという情報は俺にとっては好ましい情報だけれど、俺はみなまで喜ぶことはなかなかできなかった。  やっぱり……友達が元気ないのは、ちょっと辛い。いつも元気なやつがこんな調子であれば尚更だ。  ノエルの投げた石はすごく遠くまで跳んでいく。最初は広い間隔で跳ねていった石が、向こう岸へ近付くにつれてその幅を狭めていく……川の中へ沈む前に、石は向こう岸まで届いて転がっていった。 「ほら! 騎一! 見たか!」  ノエルが大きな声で歓声を上げた。声とは裏腹に、その姿は痛々しい。でも俺はそれに笑顔で答えた。  ありがとう……ノエル。 「見た、すごい、やっぱりノエルの水切りはすごい!」 「あそこまで……」  あそこまで届くなんてすごいだろ、とか、あそこまで行くとは思ってなかったとか、まあそんなポジティブな言葉が続くはずだったんだろうけれど、ノエルの言葉は向こう岸を指差して見やった瞬間に止まってしまった。  人がいたからだ。  いつの間にいたんだろう? と思って俺も向こう岸の人影を見やった。  美人が立っていた。しかもただの美人じゃない。美しすぎる。美しい、という言葉が陳腐に感じられるほどだった。  人間を卒業している。もう男とか女とか関係ない。人間だったら魅了されずにはいられないような、そんな強い雰囲気が彼にはある。俺は目を見開いた。  身長は俺やノエルよりずっと大きい。俺の身長に大きい林檎四個分足したくらいかな。遠目でも結構身長があるし、実際の身長よりあるなと思ってしまうのは、すらりとした体系と、シンプルな格好のせい。  立っているだけなのに、それだけでももはや芸術だった。彼は。  そこにいるだけですべての人間を魅了してしまうようなカリスマを感じた。しかもただのカリスマじゃない。洗練されている。され過ぎて最初から存在しているかのような自然さが滲んでいた。  誰しもが憧れ、畏怖し、こうべを垂れるような美しさだった。  それにしても。俺のサーチが正しければこの界隈に学ランの高校なんて存在していない。だから格好だけでこの土地の人間じゃないことはすぐに分かった。あまつさえこんなにも目を惹く外見をしている人を俺が知らないはずがない。  どこから来たのかな。海の向こう? 「見ない顔だ……どこの高校だろう。なあノエル……」  と言いながらも、俺はこの人をどこかで見たことがあるような気がしていた。  いったいどこで見たかな?  問いかけたけれど、ノエルは石になってしまったみたいに動かない。不思議に思って顔を覗きこんだ。瞳が台風の夜みたいに揺れている。向こう岸の彼の人を見つめて放さない。 「ノエル……?」  その瞳から、涙がぼろぼろ零れてくる。  背筋が粟立った。言葉が出てこない。 「……ごめ、ん」  ノエルは呆然とする俺を置いて走り去る。その時ポケットからミトンの手袋の片方が音もなく落ちていった。  引き留めるような短い言葉をかけたけれど、彼は少しも気付かなかった。まるで意味がない。あまりにもいろんなことが一瞬で起こって頭がさっぱり追いつかなった。ノエルの後を追うことすら思い浮かばない。  俺と、向こう岸の美人と、雪と、僅かな太陽の光だけが夜と夕方の間に取り残されてしまった。  なんか全然よく分からなかったけれど、一つだけはっきり分かることがある。  あいつが、あの向こう岸の人間を卒業している美人がノエルになにかしたんだ。  美人だからって許されることと許されないことがあるんだけど。  罵声を投げかけようと向こう岸のあいつを振り返った。でもあいつのほうが早かった。 「すまない」  俺は息を呑んだ。  すごく綺麗な声。ビオラみたいな声。こんな声聞いたことない。  強烈過ぎて思わず後ずさってしまう。 「行かないでくれ」  若干の焦りを感じ取った。言葉を返せないでいると、相手はやきもきしたのか、あろうことか服や靴が濡れるのもお構いなしに川を渡ってきた。川は浅いし、流れも緩やかだから渡ろうと思えば渡ることはできるけれど、そんなことしようなんて思う人はいない。あまつさえ初雪の降っているこんな時に。  美人が迫ってくる。  予想だにしない行動と声に俺も一寸前のノエルみたいに固まってしまう。  彼は俺の前までやってきた。焦りが窺える顔と、寒さで紅く色づいている頬と、息遣いを目の前で感じる。  あ、ちゃんと人間だ……。  やばい、なんだこの人。目の前に彼が来た時、俺が思ったことはたった一つだけだった。彼の言葉なんて、少しも耳に入らない。 「今走って行ったやつのことを教えてくれないか」  俺は……この人が欲しい。

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