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日がすっかり沈んでしまって、店内も眠り始めたように静かだった。
あと五分で閉店時間だ。店内のBGMは優雅で静かなJAZZ。まだこれは消さないでいよう。
オレンジと黄色の真ん中の落ち着いた照明がちらちら点いたり消えたりした。電球を変えなければならないな。そういえばマダムは照明の色にかなりこだわっていた。『オフィスビルのような真っ白な蛍光灯は絶対にダメ。あんな優雅の欠けらもないただ明るいだけの照明では、素敵な恋も始まらないわ』って。
最初は言ってる意味がよく分からなかったけれど、今は少し分かるかもしれない。顔が綺麗に映える角度があるように、照明もそうなのかもしれない。
僕は背伸びをした。そんなことで不安が紛れるわけもない。
ノエルがまだ帰って来ないんだ。
大抵閉店時間前には帰って来て夜ご飯のメニューを聞いてくるのに。ちなみに今日はロールキャベツ。
きいちゃんと出かけてから三時間か四時間くらい経ってるはずなんだけど。なにか落ち着かないことでもあったんだろうか。
でも……仮になにかがあったとしても、きっと僕には解決できないことなんだろう。僕が彼の問題を解決することができるなら喜んで力になるけれど……彼はもう片手で数えられるくらいの幼い子どもじゃない。もう。
もう僕たちが守らなくたって彼は大丈夫なんだ。
だからどれだけ怪我したとしても生きていればそれでいい。後悔しないで生きてくれればそれでいいって、僕は何度も何度も自分に言い聞かせるけれど、やっぱりそわそわせずにはいられない。ノエルが夜遅くまで帰ってこなかったことなんてないし……そうかと言って事情に首を突っ込まれるのも嫌だろうし……。
僕は最悪の結末を考えずにはいられない。どうしよう、ノエルがもう帰ってこなかったら? ここに? 僕は独りになるんだろうか……それを考えると、まるで底の深い井戸の中に落ちていくような気持ちになってしまうから、僕は考えることをやめた。
なんだか、ここ数年、誰かをずっと待ってばかりだ。恋しい、愛しい、って想いが募って募って、それでも待って……待つって、とても忍耐がいる。でも、待ってる時間が長いほど、会えた時は満たされる。待つ楽しさを見出すことができるようになったくらいには僕は歳をとった。
目が自然と扉のほうを向いてしまう。
なんだか耳についてしまうので、僕はちょっと悩んで店内の音楽を静かに消した。そしたら今度は時計の針の音がやけにうるさく聞こえてくる。まいったな。
深いため息が出そうになった時、控えめに店の扉が開いた。まるで店内の様子を恐る恐る見るかのような扉の開き方で、ノエルではないということを感じ取る。
時間は閉店一分前。
お客さんは歓迎しないと、と気持ちを切り替えた。接客しているほうが気が紛れるかもしれない。
ひょこ、と長身の好青年が扉の影から顔を出した。その表情はとても緊張していたけれど、驚くほど整った凛とした顔立ちをしている。驚くほど、という形容じゃ足りないくらいに整い過ぎていた。作り物めいていて、かえって不気味に感じるほどだ。美しいというだけで、大多数に畏怖と羨望を与えることができる才能がある人に違いない。
こんな選ばれている人が、海に囲まれたのんびりしている田舎の小さな町にいったいなんの用なんだろう?
「こんにちは」
僕は疑問に思いながらも彼を言葉で迎え入れた。青年は若干困惑した様子で会釈して、真っ直ぐ僕のほうへ向かってくる。年齢はノエルの少し年上くらいかな、と思う。
あの、と一言のあと、続きの言葉を探すような無言になる。綺麗な声だ。容姿も素晴らしければ声の響きすら美しい。まだそこまで低くはない、落ち着いた海のような声だった。
「……なにかお飲みになりますか」
僕は困っている彼に助け舟を出すように言ってカウンターに座るように促す。彼はそれに従って腰を下ろした。
「あの……おすすめ、は?」
「ブレンドコーヒーになります」
今日のコーヒーは特におすすめですよ、と僕は笑う。
「……ではそれを……ブラックで」
彼は砂糖を入れるか入れないか、ミルクを入れるか入れないかで一瞬迷ったような間合いを取った。僕はありがとう、と言いながらも、その微妙な間合いに酔いしれる。
顔立ちは信じられないほど整っているし、身長も高くて骨格も綺麗だった。それに加えて洗練されている。でも……なんとなく影がある感じがした。氷の張った美しい湖の底を覗き込んでいるみたい。不安定で……とても儚い。それに僕から見れば、彼もまだまだ幼い感じがした。
そんな彼は僕との会話の糸口を探しているようだった。僕は自慢のブレンドコーヒーを丁寧に淹れて彼に差し出す。
彼は小さく頭を下げてカップを持つと、伏し目になりながらコーヒーの香りを嗅いだ。
「……いい香り……」
僕に向かってそう言った。彼の表情と言葉には迷いがある。いい香りをいい香りだと信じきれていないような雰囲気だった。
僕にいい香りなのかどうか尋ねているようにも感じ取れる。というか、たぶん、僕がどんな答えを求めているのか、彼はただそれだけを考えている気がした。
この子は……もっと自分を信じればいいのにな。この歪みが彼をもっともっと人肌から遠いところへ追いやっているのかもしれない。
「……ありがとう」
僕は微笑しながら呟く。
彼がカップに口をつけた。
彼は静かに、美味しい、という言葉を紡ぐ。僕は優しく微笑んだ。
彼はまた黙り込む。そしてまたコーヒーに口をつけた。無音の空間。これじゃあ喋り辛いかな。
「音楽をかけましょうか」
そう言いながらレコードのところへ体を向けたけれど、彼は首を横に振った。
「大丈夫です……あの……」
また言葉が詰まる。反応がとても初心で、ちょっと可愛くて、僕はとうとう笑ってしまった。戸惑いの揺らぎは、僕に彼が人間であることを思い出させてくれる。
「ごめんなさい……悪気はないの……僕に話したいことがあるのかな?」
彼は顔を赤くして俯いてしまった。コーヒーカップの中をじっと見て、それから意を決したように顔を上げる。
僕を見ながらダッフルコートのポケットから見覚えのある手袋を取り出してカウンターに置いた。
灰色のミトンの手袋。
僕は思ってもいなかったものが彼のポケットから出てきたことで若干動揺してしまった。
「ノエルの……手袋……」
しかも片方しかない。そして持ち主のノエルはここにはいない。
「なにかあったの……? 君はノエルの友達?」
喫茶店の店主っていう立場をすっかり忘れて彼に訊ねてしまった。それに気付くことも忘れるくらい焦りがお腹の奥のほうからせり上がってきている。
彼はイエスともノーともとれない首の振り方をしたあとに言った。
「俺は……文雪。文章の文に、雪って書いてフミユキ。ここの路地裏を抜けた大通りのはずれの絵本屋で……居候をしています」
彼にぴったりの名前だと僕は思う。みんなにはなんて呼ばれているんだろう? ユキくん、とかいいかもしれない。ちょうど初雪の日に出会ったんだから。
「ことりの絵本店の?」
それを聞いたユキくんは、少しだけ緊張が解けたみたいに固まっていた口元を緩めた。
「そう……それで……俺、その……ノエルに……謝りたくて」
まるで『ノエル』って初めて口にしたかのようなぎこちなさだった。それで、彼も動揺しているんだなって分かった。そんな感じがする。たぶん普段はもっと落ち着いていてクールなんだと思う。でも今の彼を僕の目から見ると、取り返しのつかないことをしてどうしていいか分からなくて困っている小さな子どものようだった。瞳がそよ風に揺れるロウソクのように揺らめいている。
「ノエルはいますか、手袋を返したい。ここが家だって、聞いてきたんだ」
僕は答えに困った。彼は僕を真っ直ぐ見つめていた。真剣で嘘偽りのない言葉のように思えた。できることなら僕だって彼の願いを叶えてあげたい。
苦笑が零れる。残念に思っていることが彼に伝わるように眉を下げて目を伏せる。
「まだ帰って来てない。連絡もない。いつもならとっくに帰ってくるんだけど……」
ユキくんはとてもショックを受けたような顔をして、そのあと一瞬酷く悲しそうな顔をした。年上の人にしか気付きようがないような一瞬の悲しみだった。
「でもたぶん、そういうこともあるよね」
僕は彼の気持ちを落ち着かせるように、冗談交じりに言う。
「無事ならそれでいいよ」
「不安じゃないんですか」
「不安だよ」
ユキくんは不思議そうな顔をした。
「不安で心配だよ」
僕は息を深く吸った。ここ何年かを思い出すと、今のこの状態がすごく寂しいことのように思える。僕が今より若かった頃はノエルもまだ幼くて、マダムもいた。そして僕の隣には大好きな人がいて……大変なこともあったし、喧嘩したこともあったけどすごく……楽しかった。
お客さんに対して言うことじゃないって分かっているのに、なぜだか僕はついつい言葉を漏らしてしまう。
「ノエルのことは大好きだけど、僕は待っていることしかできないからね」
ユキくんは釈然としない顔をしている。よく分からないよね。分からなくって当然だ。だって僕もよく分からないんだもの。もどかしい。気を抜くとため息が零れてしまいそうになる。寂しいなんて口が裂けても言わないけどね。僕は。透明になって消えてしまいそうになる。
消えてしまいたくもなる。
僕の大切な人たちは自由で真っ直ぐな人たちばっかりだ。生きたいように生きている。自由奔放で翻弄される。それが心地いい。だから僕はその人たちの帰ってくる場所を……ここを守ろうって、そう思った。ノエルもいつかここを出て行ってしまうだろう。生きたいように生きていくんだろう。それでいいんだ。それで。いや違う。それがいいんだ。
「うまく言えないけど」
彼が口を開いた。
「待ち続けることは強い人にしかできない」
僕はなんて返事をしたらいいか分からなくて、そうかな、とか変な相槌を打ってしまった。
「あなたはすごいと思う」
ユキくんは吸い込まれそうな瞳をしている。海に沈んでいくような心地よさを感じた。息ができなくて苦しいのに受け止められたらどこまでも安らかに包み込まれそう。
「ありがとう」
柄にもなく彼の言葉が骨身に沁みてしまった。僕は店員という皮を脱いだ、自然なありがとうを彼に贈ってしまう。気が抜けてしまった。大人げないと思ったけど今までずっと溜め込んでいた心細さがするすると解けて、取り返しのつかないような津波になって僕の心を翻弄し始めていた。郷愁が溢れかえっていく。
決して現状に不満があるわけではない。だけどこういう気持ちになると、ふいに浮かんで来る……一度でいいからあの頃に戻りたいという気持ちを、僕は言葉にしてしまいそうにもなった。
「俺、ノエルに謝りたいんです。この前酷いことを言ってしまったから……会おうにも手がかりがなくて……やっと居場所が突き止められたんです」
僕はノエルが雨に濡れて帰ってきた先日のことを不意に思い出す。
彼の周囲が鮮やかな青色に彩られていくような感じがした。……こんな顔ができるなら、君はきっと幸せになれると思う。
「自分でも、分からないんだけど……こんなに気を揉んだのは初めてで、どうしていいのか……あんなこと言うつもりも、するつもりもなかった、んだけど……」
「ノエルって不思議な子だよね」
僕は数年前まで一緒にここで仕事をしていたマダムのことを考えた。マダムとノエルが並ぶと、まるでおとぎの国に迷い込んでしまったような感覚に陥ってしまったものだった。
「ノエルのおばあちゃんって魔法使いみたいな人だったから……きっとノエルも魔法使いなんじゃないかな」
僕は彼に出会った時からそう思っていた。
ユキくんは魔法使い、と言葉の意味を咀嚼するように呟く。彼は顔を上げると真っ直ぐに僕を見た。
「なんとなく……分かるかもしれない……一回しか話したことはないんだけど……」
彼はもっと自分に正直になれるといいのに。自分の気持ちを伝えることに不器用すぎると思った。いや……違うのかもしれない。自分の気持ちに確信が持てないのかもしれない。だからすべてにおいて半信半疑なのか。
思ったことが、真実なのに。彼はそれにいつ気付くことができるのかな。
「ノエルが行きそうな場所に心当たりはないですか……えっと……」
優月、と僕は名乗る。
「優月さん」
僕は翔に名前を呼ばれたような気がしてどぎまぎしてしまう。……翔に会いたい。もうずっと前から。最後に会って、別れた時から、ずっと会いたい。
昔みたいにノエルと翔と三人で散歩にでもお使いにでも、どこへでも行きたい。寂しいって気持ちが溢れてたまらなくなると、僕は彼の笑顔を思い出す。彼とまだ幼かったノエルの今と少しも変わらない純粋な笑みを……思い出してしまう。
よく三人で歩いたっけ……昼下がりにマダムがケーキを食べたいと駄々をこねて、レポート課題が山積みだった学期末に、隣町まで続く長い長い上り坂を、三人でくだらないけど飴細工みたいにきらきらした話をして……夕日が沈むのを見て、綺麗だねってばかみたいに笑って……僕は、本当はあの日々に帰ってみたい。一度でいいから帰ってみたい。そうしたら今にちゃんと戻るから。
「……あるよ」
ふと正気に戻って目の前にいるユキくんに言った。
僕にとっての大切な思い出が、ノエルにとっても大切な思い出であるなら、彼はきっとあの坂にいるに違いない。
そうであってほしい。
頬に手を寄せるふりをして、ちょっと出てきた涙を拭った。
そしたらユキくんがどこですか、って聞いてくる。何気なくハンカチを差し出された。
……可愛くないの。
ハンカチと一緒に渡された気遣いのお礼に僕は彼に告げたんだった。
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