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 鼻が冷たいと思って顔を触ってみたら鼻どころの話じゃなかった。頬も目蓋も唇も冷たい。でも一番冷たいのは涙と鼻水が通っていった跡だった。  ようやく涙が止まった頃には日もすっかり沈んでしまっていて、完全に夜だった。小さな山くらいあるとても長い長い坂のてっぺんから見上げる夜空は美しい。白羽坂(しらはざか)って言うんだよ。白萩(しらはぎ)っていう町と羽黒(はぐろ)っていう町の間にある坂だから。星がちらほら見えている。てっぺんにはアンドロメダ座とペガサス座。秋の大四辺形……。  今日は三日月で、空は秋みたいな感じだ。雲が星と月の明かりに照らされて綿毛みたいに夜の天幕に張り付いている。見下ろす町並みも美しい。建物の明かりが、それこそ地上の星のように瞬いている。  この町並みを、カケルは綺麗だって言ってたっけ。でも俺は……今になって思うんだけど、そう言ったカケルは町じゃなくて優月兄さんを見ていた気がするんだよな。  その時は夜じゃなくて夕暮れだった。隣町のお菓子屋さんによく俺とカケルと兄さんの三人でお使いに行ったっけ。優月兄さんに甘えていたら、なんで俺のことは『兄さん』って呼んでくれないんだよってカケルは俺に文句を言った。だってなんか言いたくないんだもん。カケルって、兄さんって感じしないんだもん。だってカケルなら俺の今の顔を見たら冗談っぽく笑うだろう。だけど優月兄さんは微笑んでくれるんだよ。  でも今は……カケルみたいに笑い飛ばしてくれたほうがずっといい。こんな顔をして優月兄さんには会いたくないよ。  だって俺はこの前みたいに酷いことを言ってしまいそうだから。いや、きっと言ってしまうだろう。なんでこんな酷いやつに成長してしまったんだろう。兄さんがくれたミトンの手袋もなくしちゃった。川の向こう岸に、あの欠けた青の人が見えた時はその場から逃げることで頭がいっぱいで……きっと川辺に戻れば落ちているかもしれない。川に流されていなければ。  結構気に入ってたのにな。結構どころじゃない。兄さんがくれたって、たったそれだけであの手袋は特別になったんだ。  騎一にも明日、学校に行ったら謝らないといけないな。置いてきてしまったから。騎一はああみえて寂しがりなんだ、明日会ったらすごく怒っているかもしれない。それくらいのことをしてしまったんだから仕方ないよ。でも本当は怒っているのではなくて、悲しんでいるんだ。  本当になんで、俺は人をこんな酷い気持ちにさせてしまうんだろう。  あの時川辺の向こうにいたのは間違いなく『ことりの絵本店』にいた欠けた青の人だった。俺が気味悪がらせてしまったあの人。名前も分からない人。なんであそこにいたんだろう。名前も知らないのにいろんなことを考えてしまう。  今ならこんなふうに考えられる余裕があるけれど、あの時はなんだか先日雨に打たれた日のことがフラッシュバックしてしまって、意に添わず涙がぶわってなってしまって、それで逃げだしたくて仕方なくて、その衝動に抗えなかった。  ごめん、って言ったの、聞こえたかな……ごめんね騎一。ごめんね欠けた青い人。  あーあ……優月兄さんみたいに誰かを幸せな気持ちにできる人になれたらいいのに。俺ってなんでこんななんだろう。ばあちゃんもそうだ。ばあちゃんの周りは、いつも優しくてあったかい色で満ち溢れていた。俺はばあちゃんみたいになりたいってすごく思った。なれねえよ、こんなんじゃさ。  冷たい夜に吸い込まれそうだった。  ぼーっと突っ立っていたけれど、なんだか足に力が入らなくなってきたので、近くのベンチに腰を下ろして空を見上げた。深い。深い濃紺だ。美しい。青ってなんて美しい……川辺でみた青い人、そう言えば学ランじゃなかった。あれが私服なんだろうか。黒のトレンチコートにしか目がいかなかったけれど。思い出すと、やっぱり胸がきゅうってなる。  いつになったら帰ろうかな。完全に帰るタイミングを見失ったなあ、お腹空いたなあって思っていたら後ろのほうから規則正しい呼吸の音と足音が聞こえてきた。誰かがランニングでもしてるんだろうか。こんな秋と冬の間の夜に! いったいどんな人だろう、ってなんとなく振り返った。  走る音が段々近付いてきて、遠くの街灯に映ったシルエットを見て既視感を覚える。黒の長いコートが靡いている。まさかな。嘘だろ。  俺の目の前の街灯の下に差し掛かる。その人の影が青くきらりと光った気がした。  俺はベンチから立ち上がって暗がりに逃げ込んだ。逃げられる場所なんてたいしてなかったけれど、街灯の光が届かないような闇の端っこでしゃがみこむ。  闇の中で心臓の音がやけにうるさかった。変な汗がこめかみから流れてくる。拍動に合わせて視界がばくばくと揺れ動いた。背中が痛痒くてなんだか怖い。  早く通り過ぎてと願う。耳が敏感に反応した。足音は俺のほうへ確実に向かって来ている。まずい。後ろを振り向いたら目が合ったような気がした。呼び止められた感じがする。  もう気配を消すのは無駄なことのように思えたから、俺は逃げることにした。 「待って!」  後ろから聞き覚えのある弦楽器みたいに綺麗な声がする。無理だと思った。全力で走ろうとするんだけど足がもつれて上手くいかない。いつもの三倍息が切れる。 「来んな!」  走っても走っても追いかけてくる影に向かって叫んだ。 「無理……!」  その声は予想以上に近くから、信じられないくらいはっきり聞こえた。 「あっ……」  聞こえたと思った次の瞬間には左腕を掴まれていた。体が飛び跳ねる。ぶわ、と熱くなって力が奪われていく感じがした。 「離せ!」  小心者の動物のように声だけ威勢がよくて自分でも嫌になる。 「嫌だ」 「離せよ!」 「嫌だ……!」  すごい力だった。俺じゃ敵わないと思った瞬間足の力が抜けた。ぐらついた隙にさらにがっしり掴まれた。膝が崩れ落ちるみたいに地面に着く。腕だけが彼に掴まれてまるで糸で引っ張られているように持ち上がっていた。無駄な足掻きだと知っているけれど腕を引っ張った。痛いだけだ。  なんか目の奥が痛い。 「離してよ……!」  力なく訴えたら、視線を合わせるように彼が屈む。俺はその顔なんて見られなかったんだけど、下を向いていた視界に彼の脚が屈むのが見えたから、屈んだと分かった。  息遣いが近い。こんなに近付いたのは初めてで、心がいろんな色を混ぜて煤けてしまった絵の具みたいになっている。醜い。見ないで。来ないで。離せよ……! 「逃げないって約束してくれるなら離す」  街灯と月明かりに照らされた地面に映る彼のシルエットは揺るぎない。嗚咽が漏れそうになってしまったから、自由な右手で思わず口を押さえた。 「……無理だよ!」 「少し前まで俺のストーカーしてたくせに」  胸が張り裂けるかと思った。  そんな崖から突き落とすようなこと言わないでくれよ。 「なあ、なんとか言って」  うるさい。どっか行ってくれよ。なんで追ってくるんだよ。なんでこんな俺の近くに……。 「来んなよ……っ!」  完全に泣いているのがバレバレの喋り方だったけどどうでもいい。 「……もう……もうあんたに……嫌な気持ちに、なってほし……くない!」 「はあ?」  どんな顔をしてるのか全然想像つかない。したくもないよ。でも……なんか見たくなってしまった。どうせ嫌な顔してるんだろ。分かってるよ。なあ、あの時みたいにさ、気持ち悪いって目で俺を見てるんだろ。  そんな顔やめてくれ。そんな顔をしてほしくない……俺が近付かなければ笑ってくれるんなら俺はそっちのほうがずっといいよ。もう誰かに俺のせいで嫌な気持ちになってほしくない。 「……俺がいると嫌な、気持ちになるんだろ……だから……どっか行け……忘れてよ……ごめんなさい……知らなかったんだよ……あんたが嫌な気持ちになって、るって、知らなかったの……ごめん……そんなつもり、なかったんだよ!」  涙と一緒にぼろぼろ溢れてくる言葉が止まったのは、頭上からあり得ない音が聞こえてきたから。思わず鼻水と涙だらけの汚い顔を上げてしまった。  笑い声だった。  月明かりに照らされた彼の笑顔はまるで海底に差しこむ僅かな光みたいに儚かった。彼のこんな表情を目に映すことなんて絶対にできないと思っていた。少しの警戒心もない穏やかな彼の微笑みにあまりにも驚いてしまって、俺の涙はぴたりと止まった。  涙の流れた跡と、さらさらの鼻水だけが残った。その顔を見て欠けた青い人がまた笑った。すすきが風に煽られた時の音みたいな笑い声が聞こえる。 「酷い顔だな」  その言葉に棘はなかった。  俺は魂を抜かれたみたいな気持ちでただ欠けた青い人の顔を見ていた。鼻もほっぺも口も涙が伝っていった首元も手先も全部冷たいのに、胸だけがなんだか温かい。  そしたら、なんか言わないと、って気持ちがぶわっと弾けてきてしまって、なんの言葉も思いつかないのに口だけが勝手に言葉を発するように開いた。 「顔のことばっかり」  自分で言ってから言葉の意味を考える。なんで俺こんなこと言っちゃったんだろう。馬鹿か! 「……そう?」  真に受けた彼が、初めて会話したあの雨の日からは想像できないくらい穏やかな表情で俺に言葉投げかけてくる。なにこれ。夢? 夢なのでしょうか。 「前も顔のわりに口が悪いって、言われた」 「言ったな。本当にそう思ったから言った。嘘じゃない」  俺は優月兄さんが言ったことを思い出す。それはきっと、可愛いってことじゃないかな、って。 「……どういう意味だったの?」 「どういう意味……?」  彼は微動だにしなかったけれど、考え込むように視線だけ右斜めでゆらゆらしていた。俺はその仕草のただの一つでも見逃すまいとじっと彼の顔を見ていた。  会話してる……こんな近くで。ずっと憧れてた人と。辛辣な感じじゃなくて。  普通に会話してる……!  引っ込んだ涙が胸のほうでぐるぐるしている。金魚が金魚鉢から跳ねるように一度大きくて静かな拍動が胸を突いた。そしたら春の雨のように、心臓がとくとく音を立て始めて、あんなに冷たかった頬がとても熱くなった。 「顔から連想するイメージと口調が釣り合ってなかったってことかな……なあ、とりあえず座ろう」  しばらく考え込んでいた彼が言った。  俺の顔からどんな連想をしたんだろう?  俺は腕を掴まれたまま引きずられるようにさっきまで一人で座っていたベンチのほうへ連れて行かれた。脚は空を歩いているようにふわふわしている。隣に座ったところで、彼が俺の顔を見て言った。 「……ごめん」  思わず、え、と聞き返してしまう。そしたらようやく俺の腕から青い人の手が離れていった。無意識に座る間隔が開くように体が逃げていく。そしたら今度は手を掴まれた。変な声が出そうになる。 「行かないで」  少し迫力のある声色だった。まるで小さな子どもを叱るようにそう言われた。萎縮はしないけれど心が諌められる絶妙な感じだ。ぴたりと体が止まる。距離を詰められた。彼のいるほうの体がむずむずする。  まるで内緒話をするように、自然な感じで顔が近付く。俺は思考が追いつかなくて、ただされるがままだった。  あのさあ! 近いんだけど! 「ごめんなさい。言いすぎた。気持ち悪いって言葉で、お前をそんなに傷つけたとは思わなかった」  欠けた青い人の顔が歪む。なぜか、と彼は続ける。なぜか。 「なぜか……自分でも分からないんだけど……あんなに素っ気なくするつもりはなかった」  彼の言葉が心の中に落ちていく。真っ青な色が俺を一瞬にして包み込んだ。  綺麗な綺麗な青だった。空と宙の間の不可侵で誰にも手が届きそうもない果てしない青。限りなく透明な青だ。本当はこんなに綺麗な青なんだ。でもそれは流れ星のように一瞬だった。  すぐに欠けてしまう。  俺はそれではっと我に返る。首をぶんぶん横に振った。 「そんな……俺……俺が、あんたを、嫌な気持ちに、させてしまったんだから……」 「あんたじゃない」  欠けた青い人の目が、まるで揺れる水面の反射のようにきらりと一瞬光った。薄い唇が弧を描く。 「文雪」  ふみゆき。  それ……ずっと聞きたかった。  名前……! ずっと呼びたかった名前。欠けた青い人の……名前。 「……ユキ」  自分を納得させるように呟いた。そしたらユキが笑った。なにを思ったのかは分からないけど、ちょっと面白そうだった。  ユキの笑顔……ユキ……この人はユキ。  吐きそうなくらい、体がぶわって、熱くなる。 「殴っていいよ」  ユキが言った。俺はめっそうもないって顔で首を横に振る。 「正直気持ち悪いって思ったのは嘘じゃないから」 「よし歯ァ食いしばれ」  腕まくりをして立ち上がった。拳を作って手を鳴らす。  ユキがこちらを見据えている。  その目に映されて、俺はどうにも振り上げた拳を落とすことができない。なんで丸腰の相手に手を挙げなければならないのか。  俺にはそんなこと……できない。乗りかかった船だ、ええいままよと殴ることだってできるけど、でもそれじゃきっと後悔しそう。  何十秒か悩みに悩んで、俺はもどかしい顔をして彼の右頬を優しく抓って手を下ろす。これが精一杯だった。顔が熱くて仕方ない。冬ってことを忘れそうになる。というかもう忘れてた。自分度胸ないわ。恥ずかしくて後ろを向いた。 「もうこの話は終わりにして。俺もごめんだったから、やめやめ」  投げやりに言ったら後ろから笑い声が聞こえてきた。  それに釣られて振り返ったら、彼が右頬を抑えて笑ってる。 「全然痛くない」 「うるさいばーか!」 「でもちょっと赤くなったかも」 「え⁉︎ 嘘、ごめん痛かった? 優しくしたつもりなんだけど、大丈夫……」  勢いよく振り返って大慌てでユキのほっぺを覗き見る。ユキはまた笑った。 「冗談」 「ふざけんな!」  俺はもう胸がいっぱいで溺れそうだった。クソ! ちゃかしやがって! 俺はしばらく彼を睨みつけていた。夜の街灯の明かりじゃ優しすぎてユキのほっぺが赤くなったかどうかなんてよく分からなかった。赤かったかもしれないし、赤くなかったかもしれない。そのせいでついうっかり彼の顔をまじまじと見てしまう。目が合った。目力がすごいな。一度囚われたらもう逃げられないような力強さだった。不気味さが散らつく。この人はやっぱりどこかが欠けている。俺のせいだと思っていたけど違ったみたいだ。それはよかった。よかったんだけど……じゃあなんでだろう? なにを装っているんだろう? どうしてこんな顔をしてる? 「お前さ」  ユキが静かに口を開く。 「どうして俺を見ていたの? やっぱり美人だから……?」  彼は心底うんざりしているような顔をして、美人だから? と俺に訊ねる。 「みんな俺の顔しか見ないし……顔がいいって、それだけ」  彼は嘲るように笑うんだった。 「正直……顔ってあんまりよく分からない。顔じゃなくて、なんていうか……顔がいいってどういうことなんだろうか? 顔ってなに?」  逆に質問してしまった。俺たちはお互い顔を見合わせて首を傾げる。  俺は言うか言わないか躊躇った。こんなこと言ったらまた引かれてしまうんじゃないかって思ったから。でも言うことにした。二人で首を傾げていたってどうにもならないし。 「顔っていうか……なんか青かったから」  そう、青かったから。この人はなんか青い。その青さが気になった。痛切に惹かれた。  空を掴むことができないように、海の青さを掬えないように、絶対に手が届かなくて尊い色。そして、透き通って触れられない。不可侵の青。なのに、欠けてるんだ。歪なんだ。それが不気味で俺は怖い。怖いけど、触れてみたかった。  どこか寂しそう。  この思いをユキにどう伝えていいのか分からない。 「青かった……?」  俺は腕を組んで足の爪先でリズムをとりながら、どう説明すればいいのかを必死で考える。 「とりあえず青いんだよ」  ユキはポカンとしている。俺は眉間に皺を寄せてもっともっと考えた。 「青いんだけど、欠けてるよ」 「欠けてる?」 「色が、本当は綺麗なのに……どうしてそんなに欠けてるんだろう? 嘘じゃないけどなんか欠けてるんだよ……うーん……ごめん上手く言えない」  でも今はわりと欠けてないよ、って俺はフォローするように言ったけど全然フォローになってない。  ユキは最後まで腑に落ちないような顔をしていた。  困ったな。これじゃあ彼の質問の答えになってないよね。どうしようかな。  俺は肩を落として残念そうに言う。 「俺がユキを見ていたのは美人だからじゃないよ。ユキを美人なんて思ったことないし……あ、いやごめん、あの……美人だと思ったことがないっていうのは、その……言葉の綾で……」  口籠もっていたら、ユキが月光みたいに静かに笑う。 「いいよ。ありがとう」  彼はなぜか怒ってはいなかった。  わけが分からなくなったので、俺は話題を無理矢理変えることにした。 「つーか、俺はお前って名前じゃない。ノエルっていうんだよ、言ってご覧、はいどうぞ」 「ノエル」  顔が真っ赤になるのが見ないでも分かった。改めて言われるとなんか照れるな。うん。もう一回言ってほしい。もう一回と言わず何回でも呼んでほしい。 「変な人」  ユキが苦笑しながら言ってくる。変な人、というわりには言葉に棘はない。褒められてんのかこれは。釈然としないな。  少し俯く彼の隣に、俺はおずおずと座り直した。ぶどうみたいな匂いがした。好きだなこの匂い。ユキはなにかを考え込んでいるみたいだった。それがどんなことなのか聞いてみたい。会話が途切れたと思ったら、ユキが思い出したようにトレンチコートのポケットに手を突っ込んだ。 「これ」  出てきたのは、ミトンの手袋だった。見覚えのあるフォルムに目を細める。よくよくそれを見た。  俺は目を見開いて飛び跳ねる。 「俺の手袋だ……!」  俺は素直に受け取って右手にはめた。間違いない。兄さんが俺に贈ってくれた手袋だった。もしかしたらもう二度と戻って来ないかもしれないって思っていた。その手袋がここにあるのがなんだか奇跡みたいだ。 「ありがとう……!」  手にはめたままその手袋をそっと胸の前で包み込んでユキに言った。自然と笑みが零れてしまう。すごく幸せで安堵した。  そしたらユキが不意に目を逸らしたんだった。俺は不思議に思って、彼の顔を覗きこむように顔を傾ける。彼の手がそれを遮った。顔を見られたくないみたいだったけどまあいいや。 「この手袋、兄さんがくれた大切なものなんだ。ミトンの手袋なんて子どもっぽいなって思ったんだけど……でも使ってたら不思議と馴染んでさ……手袋はこれじゃないと嫌だなって思うようになった……大切な手袋なんだ……だから本当にありがとう。本当に……嬉しい」 「……やっぱお前変わってるよ」  ユキが言った。 「……嫌いじゃないけどさ」  その一言を聞いて安心する。また嫌われたら嫌だと思ったから。 「兄さんって、優月さんのこと?」  思いがけない言葉にびっくりした。 「そう。なんで知ってるの?」 「さっき会った。この場所も、その人から聞いたんだ」 「俺の家に行ったの? どうやって……」 「お前と一緒にいた人から聞いた。やんちゃそうなやつに」  騎一か、と俺は思った。ああ、騎一に明日、ちゃんと謝らないといけない。  自分の世界に入りそうになっていたら、ユキが言葉を続けた。 「優月さんって、本当の兄さん?」 「本当の……?」 「顔があんまり似てないなと思って」  そう言われて、俺はようやくユキがなにを言いたいのか察した。 「血は繋がってないよ」 「でもずいぶん慕ってる」 「うん。ちびの頃からずっと世話をしてくれて……優しくて、強くて、綺麗で、完璧でかっこいい……俺の自慢の兄さん」 「……完璧、か」  ユキは考え込むように組んだ脚に肘を立てて頬杖を突いた。横顔が夜空を見上げて、少しだけ微笑んでいる。 「なにかおかしい?」 「……おかしくない。お前には優月さんがそう見えてるんだ、って思っただけ」 「じゃあユキにはどう見えた?」 「さあ……」 「さあ、ってなんだよ」 「ノエルのことが、すごく好きだ」  一瞬ドキッとした。 「そう見えた」 「ああ……」  ユキが笑う。この人案外よく笑う。ことりの絵本店にいる時はそんな様子片鱗も伺えなかったけれど。むしろすごく孤独そうだった。一人で、分厚い石膏みたいに滑らかな殻の中に閉じこもっている感じがしていた。まるで、なにかから身を守るかのように。寂しそうって言ったら、軽すぎるかもしれない。青かった。姿に惹かれた。 「でも……綺麗な人だと思う」  分かる、と俺は前のめりになって言う。 「でも兄さんは相手がいるから口説いてもだめだよ。その前に俺が許さないけどね」  へえ、って少し興味がありそうな感じでユキが相槌を打った。 「俺が物心つく時にはもうずっと一緒にいたんだよね」  俺はカケルのことを思い出す。優月兄さんもカケルも俺のことが大好きって言ってくれるけれど、でも俺に対する好きとあの二人の間の好きがちょっと、いやかなり違う意味なんだって知ったのは小学校に上がってからだったな。  なんか、初めは兄さんを取られたみたいですごく嫌だったんだけど、でもカケルといる時の兄さんはいつもとはまた違うベクトルで幸せそうで、あの顔を引き出せるのはカケルしかいないんだって思った。だからそれでもいいかなって、なんかそのほうがしっくりきたし。 「待つことしかできないと言っていた。一緒にいる感じはしなかった」  俺は少し後ろめたい気持ちになって笑う。確かに今は一緒にいない。俺と兄さんの二人暮らしだから。 「カケルは医者なんだ。いろんなところにいるみたい。詳しくは知らないけど子どもを看てるんだって。母さんも旅してるから家にいない。詩人なんだ」 「詩人?」 「そう……緑川かぐやって名前」  ユキが目を見開いた。 「知ってる、その人。会ったことがある」 「本当に⁉︎ 母さん元気そうにしてた? どんな感じだった?」  彼は昔を思い出すように遠くを見据えて、そうだなあ、としばらく過去に酔いしれるように考える。 「とても迫力のある人だった。すべてを見透かされてしまいそうだった。不思議な魅力のある人で、すごく……自由な感じがした」  そして伏している目を一瞬俺に向けて笑う。 「確かにノエルと似ているかもしれない。面影を感じる」  俺は素直に照れて頬を掻く。純粋に嬉しかった。母さん、今どこでなにしてんのかなあ。会いたいな。 「作品も読ませてもらったことがある。絵本も出ているよね。叔父の……ことりの絵本店に何冊か置いてあったから」  嬉しい。俺とユキの共通点を見つけたみたいな気分だ。  一気に距離が近付いた気がする。気がするだけかもしれないけれど。かもしれないっていうか、気のせいで間違いないけど。 「……寂しくはない?」  内心でうきうきしていたら、ユキがそんなことを俺に投げかけた。  俺は笑う。 「寂しくないよ。兄さんがいるし、友達もいるし……それにこの町が好きだから」  ユキはしばらく黙りこんでしまった。そのあとなにも言わないでベンチから立ち上がって、七歩か八歩くらい向こうの坂の柵のほうへ歩き出した。俺はよく分からないままユキの隣に歩み寄る。  ユキは柵に凭れかかって、坂から見える景色を見るように遠くを見据えていた。俺も真似して坂の景色を見る。ここから向かって東側は小さな山がいくつかある山岳地帯で、そこをよけるように羽黒の町の市街地が広がっている。その向こうには海が見える。生まれたての三日月が海の上を優雅に昇っているみたい。百八十度くらい向きを変えれば俺の住む白萩の町。羽黒町はオフィスビルが多い。白萩にもビルはちょっとあるけれど住宅街や下町はとても馴染み深い感じがするんだ。 「この土地にいると、まるで絵本の世界に入った気分になる」  ユキが自分に言うように呟いた。 「俺の住んでいる街と全然違うから」  その言葉を聞いて、やっぱりこの町の人じゃないんだと腑に落ちた。学ランの学校なんてここらへんにはないと結論付けた俺の答えは正しかったみたい。見かけるようになったのも一か月くらい前からだし……ユキの隣は、それを裏付けるみたいにちょっと変わった香りがした。 「どんな町なの?」  ユキが俺の顔をちらっとみて、また同じように景色のほうを見やる。 「大きな山の麓にある古い古い誰も住んでいなかった集落の家々を、何十年って年月をかけて改築したんだ。俺の祖母の時代だ。その集落の真ん中にはブドウの木を植えた。俺が生まれた時にはとても立派な大樹だった。決して多いとは言えない人口しかいなくて、買い出しには峠を越えないといけない。かろうじて電気は通っているけれど、途切れがち。不自由だったけれど、不便ではなかった。快適なくらいだ。土の香りや、空の青さが、ここにいる以上に身に染みて、溶けてしまいそうだった。花の香りが風に流れて、草木が繁茂する濃い温かさが家にまで伝わってくる」  だからぶどうの匂いがするのかあ、と激しく納得する。 「だけど……二年前かな、隣の集落とちょっとした問題を抱えてしまって、俺の住んでいる集落は隣の集落と合併することになった。隣の集落は俺の住んでいる町を全部ぐちゃぐちゃに壊した。一本立っているブドウの樹があまりも立派で、そこでブドウの栽培をすることになったからだ。俺の帰る場所はもうない。俺の家はブドウの苗床になったから」  そこまで言うと、ユキは静かにため息を吐いた。そのため息が白くなって消える。  俺はなんて言葉をかけていいのか分からなかった。 「全部冗談だけどな」 「……は?」  ユキが俺のほうを見て笑った。 「信じるなんて思わなかった。普通にこの海を越えたどこにでもあるような都会育ちだよ」  ユキが風みたいに俺の横から消えた。そのままどこかへ向かって歩き出す。  俺の心の中は本気で同情してしまった恥ずかしさとか真に受けてしまった間抜けさとかそういう穴があったら入りたくなるような感情が洪水を起こしていて、とにかく俺から離れていくあの背中を蹴とばしたくて蹴とばしたくて仕方なくなった。 「ばか!」  最近で一番心を込めて放った馬鹿を、ユキは手を上げて合図するだけでかわす。 「今度は店の中に入ってこいよ」 「はあ?」  ユキが振り返って俺を見る。その目が流れ星みたいにきらって光った。口が三日月みたいに綺麗に弧を描いている。 「待ってるから」  その言葉はずるい。胸がどき、と脈を打った。  声が震えそう。 「……待ってるって? お、俺を……?」 「お前と話すの面白いからな」 「からかうつもりだろ! ふざけんな!」 「からかわないよ」 「嘘吐け!」 「俺は嘘は吐かない」 「さっき呼吸するように吐いてただろうが!」 「あれは冗談だから」 「変わんねえよ!」 「じゃあね、ノエル」  吠えていた声がぴたっと止まってしまったのは、不意に名前を呼ばれたからで、背中が遠く離れていくのを見ると、さっきまで普通に会話していたのが幻みたいに思えてきて、キツネにつままれたような気分だった。  だけどユキは言った。待ってるからって。 「あの! 待って! ユキ!」  大きい声で引き留めた。ユキが振り返る。 「手袋、本当にありがとう」  そうしたらユキが破顔した。 「お前やっぱり変なやつ」  空から雪が降ってきた。 続

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