1 / 20

第1話 再会

「おにーさん席ないの? 俺ひとりだし、相席でよかったらどーぞ」  竹林誠一郎が声のするほうに目をやると、声の主は鼻から下にお碗をあてていた。彼は壁際のソファ席に座っていて、テーブルをはさんでむかいあった椅子が一つ空いている。  混み合った店内で、誠一郎は定食の載ったプラスチックトレーを持ったまま、ちょっと迷った。実際に迷った、というよりは、礼儀としてここは一度遠慮するそぶりをみせるべき、という自分の良心に従った。 「遠慮しないで。俺も、もうちょいで食べ終わるし」  案の定、彼は人なつこい笑顔をうかべて、向かい側の椅子を目で示した。  小柄な青年だった。髪の色は明るい茶色で、親しみやすく人好きのしそうな雰囲気だ。丸顔で目の大きな童顔だが、二十代後半にはなっているだろう、と誠一郎は思った。  彼はからっぽになった樹脂のお碗を自分のトレイに置いた。メインの皿の上には、大きな海老フライのしっぽと半壊した千切りキャベツの山がある。 「ああ、そっか。ここ喫煙席だしね。俺は吸うけど、おにーさんはダメな人?」  テーブルの上にある彼のトレイの脇には、メンソールの紙箱と安物のライターがあった。彼に上目づかいにたずねられ、誠一郎は一瞬、言葉を失った。  見覚えのある顔だった。でもまさか、こんなところで再会できるとは。 「やっぱ、スーツに匂いがつくよねえ」  煙草を嫌がっていると思ったのか、彼は苦笑する。誠一郎は我に返り、あわてて言った。 「いえ、僕は平気です。すみません、失礼します」  トレイをテーブルにおろす。さっきから空席を探してうろうろしていたのだ。彼もそれに気がついていたのだろう。  大型オフィスビルの地下一階。同じフロアに飲食店はいくつも入っていたが、手頃な値段で家庭的な食事のとれるこの店は、いつもすさまじい混み具合だった。カフェテリア方式で、待たされずにすむのも人気の理由だ。 「あー、鯖か。いいね。俺今度はそっちにしよっと」  誠一郎のトレイに載った鯖の煮付けを見て、彼は無邪気に笑う。目の端に、細い笑いジワが寄る。それを見て、誠一郎はなんとも言えない気持ちになった。  誠一郎の脳裏に浮かぶのは、若い頃見たフーゾク情報サイトの写真だった。ゲイ向け派遣サービス店のトップ画像だ。  尻のかたちをあらわにした下着一枚で、ベッドに腹ばいになって両肘をついたあざといポーズ。カメラのほうを見上げ、小型犬のような愛くるしい顔で微笑む顔。その頭の部分に小さな王冠のアイコンが乗っかっているのは、先月の売り上げナンバーワンの証だ。人気ウリ専ボーイ「ユート」。目の前にいるのは本当に彼なのだろうか。  くだんの彼は、黙々と残ったキャベツを口に詰めこんでいた。心もち表情が険しくなったのを見ると、野菜が苦手なのかもしれない。 「え、ええと、このビルでおつとめなんですか」  わざわざ訊いたのは、スーツ姿であふれかえった店内で、彼の格好があまりにも自由でラフだったからだ。赤いTシャツにダメージジーンズ。片耳にはバッファローホーンのピアスをしている。 「まさか。俺は運転手でね。たまたまこのあたりにきたから」  赤いTシャツには「送迎おまかせ! こどもたくしー」と白で印字されていた。  そうか、今は運転手なのか。普通の仕事をしているのだ。誠一郎は、なにか胸につまったような感じがした。やっと腰をおろして箸を持ったというのに、なかなかご飯が喉をとおっていかない。  誠一郎はどんどん減っていくキャベツの山をみつめた。マヨネーズが細いヒモのようににょろりとかかっている。それを彼の箸がかきまわして、重機のようにすくいあげ、口にはこぶ。あれがなくなったら、彼の食事は終わりだ。  誠一郎の身に現在進行形で起こっている「再会」という奇跡も、そこで終わってしまう。  そう考えたとたん、誠一郎は憤然と食事を始めた。彼の食後の一服が終わる前に、自分も食べ終えてしまおうという勢いだった。  食事を終え、目を細めて食後の一服を堪能する彼は、文句なしに幸せそうだった。 「ん? なに、俺の顔になんかついてる?」  笑いジワをつくったまま、面白そうに誠一郎にたずねる。 「いえ、うまそうっすね」  ふふ、と笑う口元から、ふわと紫煙が漏れて周囲をただよい、誠一郎の頬を撫でる。 「うん。うまいの」  うっとりと微笑む。飼い主の膝でくつろぐ猫のようだ。満足そうな顔は、男性だというのに、このうえなく可愛らしかった。そして彼があのユートであることを、誠一郎は確信した。 『一日の生活の中で、人が一番上機嫌で無防備になるのは食後の一服のときである』というのは、誠一郎の同僚が語った考察だった。だから、気むずかしい上司に取り入りたい時や、同僚にちょっとした頼みごとをきりだすときは、食後の一服を狙う、という。  営業マンの涙ぐましい生き残り戦略だと思ったが、煙草を吸わない誠一郎には、正直あまりぴんとこなかった。しかし、今の誠一郎の胸のうちでは、とうとうそれを実践するときがきた、と開戦を告げるほら貝が吹き鳴らされていた。  あの日、誠一郎が彼を指名した夜、彼は精一杯つくしてくれたのに、自分は彼を抱くことができず、その理由をうまく説明することもできなかった。  情けない一夜のことを、誠一郎は苦い気持ちで思い出していた。なんとなくきまずい雰囲気のまま別れたことが、ずっと心の中でひっかかっていた。 「あ、あの、僕のこと、覚えていらっしゃいますか」  薄いベールのような煙に包まれながら、彼にだけきこえるように声のボリュームをできるかぎりしぼった。  瞬間、淡く微笑んでいた彼の口元がきゅっとひきしまった。目は表情を失っていた。近くで見ると、紅茶色の綺麗な瞳だった。ああ、間違いなく彼の目だ、と誠一郎は静かに感動していた。 「……ごめん、思い出せないけど」 「あなたはユートさん、で、あってますか」  彼の視線が、煙草からすっとテーブルに落ちた。右のまぶたがひくついている。 「ああ……ああ、そう。あんた、そういう――」  さっきの上機嫌な様子とはうってかわった低い声だ。 「出る?」  唐突に彼が顎で店の出口をさした。同時に煙草の火を乱暴に灰皿に押しつける。 「あ、はい」  誠一郎はあわてて携帯と財布をポケットにしまってしたがった。  彼は店を出て、右に歩いていった。誠一郎は後ろ姿を追う。肩幅は相応の男性の体格なのに、腰は少年のように細い。昔とかわらないその姿に、誠一郎は思わずどきりとする。日々腹のまわりに脂がのっていく同僚や上司たちとはまったくちがう、彫刻家がけずりだしたようなシルエットだ。  ビルの廊下の左側は小さなコンビニがあって、その店の横に自販機コーナーがあり、円形のベンチが置かれている。そこへユートは進んでいった。  すとん、とユートがベンチに腰をおろした。コンビニの中は混み合っているようだったが、ベンチの周辺はまだ人影がまばらだった。  ユートはそこで自分のかつての源氏名を言い当てた男をひややかににらんできた。誠一郎は、彼が突然不機嫌になった理由が、いまだに理解できていなかった。 「そう。当たりだよ。でもあんた、俺の太客じゃなかっただろ?」 「ふ、ふと……?」 「お得意さん、てことだよ。何度もリピートしてくれた客なら、俺だってちゃんと覚えてるよ。でも記憶にないってことは、一度きりのひやかしみたいな客だろ」 「あ、ああ、そうです」  誠一郎は過去に一度だけ、ユートを指名したきりだ。一晩だけ、一緒に過ごしてもらった。なにもかもすてばちになっていた最低の夜にだ。 「で? どうすんの? 準備してねえから今すぐケツは無理だけど、口でしゃぶればいい? 俺もう時間無いから、あそこでいいか?」  ユートが視線でしめすのはトイレの方向だ。混んでいるのは女性用トイレで、男性用はひっそりとしている。個室でことにおよぶか? とたずねているのだ。  誠一郎は困惑をとおりこして、すでに悲しくなっていた。予想外の方向に彼を追いつめているのは明白で、自分の考えの至らなさに頭をかきむしりたくなった。  おろおろと困り果てている誠一郎に、ユートは薄く笑う。なにもかもあきらめてしまったような、はすっぱな笑い方だ。 「べつに、金なんかとらねえよ。もう俺だってカタギの仕事してるし。あんただって、三十路のネコに金なんか払いたくないだろ? ただの口止め料ってことでさ」 「そういう、ことじゃないんです」  えづきそうになりながら、誠一郎はなんとか弁解した。  ユートは、今度こそあからさまに眉をしかめた。俺のオーラルセックスだけじゃ不満なの? といいたげに目の底に怒りをためている。 「じゃ、なに? 金? 見たとこあんたのほうがまともな生活してそうだけど?」  誠一郎は、びし、と足をそろえて直立不動の体勢になった。ふたりのそばにいた女性会社員が、驚いたようにこちらを見ていたが、気にもとめなかった。 「あの、僕はただ、お礼が言いたくて。昔、あなたと、一緒に過ごしてもらって。あのとき、生まれ変われた気がしたので、そのことを、ちゃんと言いたくて。……あの、僕はあれからちゃんと生きてるって、そのことを。でもあの、考えが、足りませんでした。すみません。あなたに、そんなことをさせるつもりじゃなくて」  ユートはぱちくり、と目をしばたいた。それから、苦々しい顔で誠一郎を見る。 「……お礼? お礼ってなんだよ? 体売っててくれてありがとうって言いたいの? あんたさあ」 「すみません!」  体を真っ二つに折る勢いで、誠一郎は頭を下げた。急激に頭に血がのぼり、一瞬くらりと足下がぐらつく。  しばらくそのままの体勢でいると、ユートが小さくため息をつくのが聞こえた。 「いいよ、もう顔あげて。なんか……俺も言い過ぎたわ」  おずおずと顔をあげた。視界の端では、何事かと遠巻きに眺めている人々の姿があった。 「こんなん慣れたつもりだったけど、やっぱ動揺してんだな、俺」  ユートは苦笑した。さびしげな笑い方だった。 「あ、あの、そういう人、けっこういるんですか。昔のことを持ち出して、その、あなたに、なにか要求する、とか」  ユートは小さくうなずいた。くしゃ、と煙草の箱が握りつぶされる音がした。 「あんたで四人目くらいかな。俺の客の数から考えたら、少ないほうじゃない?」  さらりと答えると、ユートは立ちあがった。じろじろと人に見られているのに耐えられなくなったようだ。 「じゃ、もうこれでね。ばいばい」  軽い言葉の裏に、もう二度と会いたくない、というニュアンスがあった。ユートは足早に廊下をすすみ、上りのエスカレーターに乗り込んでいく。  誠一郎は挫折感とともにその後ろ姿を見送った。自分のほかにも、彼の過去を知って近づいてくる人間がいるのだ。しかも、今は普通の生活をしているユートから、過去の仕事をネタにわずかでも甘い汁を吸いあげようと。  そこまで考えた時、誠一郎の足は勝手に歩き出していた。人の並ぶエスカレーターの脇をとおりすぎ、まっすぐ階段へむかう。長身をいかして、三段抜かしで駆け上がった。  息をきらしてのぼりきると、地上階のエントランスに赤いTシャツの小柄な姿が見えた。背中に斜めがけの革のバッグをかけている。こころなしかうつむいて人の顔を見ないように歩いているようだった。  誠一郎は腿をあげ、大きなストロークで床をけった。革靴がきゅっと鳴った。 「待ってください!」  天井の高いエントランスに、声は思った以上に響いた。  ガラスの自動ドアの前で、びくり、と怯えたようにユートが足をとめる。 「これを、持っててください」  不審そうに振り返ったユートの前に飛び出し、慣れた手つきでスーツのポケットから名刺入れを出した。裏にすばやくプライベートの携帯電話番号とメールアドレスを書きこむ。 「もしこれから、あなたをそうやってゆするヤツがいたら、すぐに僕を呼んでください」 「え……あんた、まさか、弁護士かなんか?」  大きく目を見開いて、ユートはさしだされた名刺をまじまじと見る。 「いいえ! ここの八階のオフィスにつとめる普通の会社員ですっ」  誠一郎はハキハキと答える。名刺には、大島リース第二営業部企画課チーフ 竹林誠一郎と印刷されていた。  微妙な沈黙が流れた。 「で、でもっ、一般人でも、あなたが恐喝されたことの証人くらいにはなれます。必要なら、出るとこに出て証言もします。だから、僕を呼んでください。ひとりで――ひとりでそういうヤツに会っちゃだめですから」  真面目くさって言う誠一郎を、ユートはぽかんと口をあけてみつめていた。 「じゃ、あんたは、違うっていうの? そういう連中と」 「当たり前ですっ」  力をこめて誠一郎は断言する。 「なんでそういいきれんの?」  ユートはたずねる。少し面白がっているようだ。 「だって、僕は……僕は」  もうそこで誠一郎は言葉につまってしまった。顔がかっと熱くなる。  見た目はそれなりに一人前で、会社でも中堅として頼りにしてもらえている。しかし実際には口べたで、誤解されやすい。そもそも営業なんて本当はむいていないんだ、と誠一郎は泣きたくなってきた。  誠一郎が真っ赤な顔でしどろもどろになっていると、今度はユートがぷっと噴きだした。 「いい人だから? あんたすげえいい人って顔してる。真面目。几帳面って感じ」 「ああ、そうです、厳格そうとか固そうとか言われます。なので、だまされたと思って僕を信用してください」 「もう言ってることがめちゃくちゃなんだけど」  ユートは、さらにくっくっと小刻みに肩をゆらして笑いだした。 「ぼ、僕も、もう全面的にいっぱいいっぱいなんで……」  ユートは急に眉をさげてやさしい顔つきになった。誠一郎は心臓が高鳴るのを感じた。そうだ、彼にはこんな顔がよく似合う。  すっと手をのばして、誠一郎の額に触れた。冷たい指先が生え際を撫でる。乱れた髪をなおしてくれたのだと気がつくまでに数秒あった。  こんなに汗かいちゃって、とユートは少しだけいとおしげに微笑んだ。 「竹林さんは黙ってりゃ、シュっとしたビジネスマンなんだからさ、俺なんかのために、こんなかっこ悪いことしちゃダメだよ」  半ばからかうように誠一郎に言いきかせて背中をむけた。エントランスの自動ドアにむかう。  一度だけ振り返ると、礼を言うように、ひらりと誠一郎の名刺を中指と人差し指ではさんで見せた。

ともだちにシェアしよう!