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第1話 日本海

本当に、何もないなあ―― 水谷は浜に立ってコートの襟を立て、寒さに首を縮めながら、あらためてそう思った。どんよりと曇った空の下、目の前には鈍色の冬の日本海が広がっている。 水谷は今年32歳になる。大学を出、小さな映像製作会社で働いていた。 仕事で、荒涼とした日本海の風景が撮影に必要と言われて探しているのだが、ここでは寂しすぎるかもしれない……単に何もないと言うだけではなく、ひどく虚しい感じがする眺めなのだ。見ていてなんだか……憂鬱になってくる。 しょうがない、もう一泊して別の場所を探そう。そんな風に思いながら、水谷はため息をついてそこを離れようとした……と、その時視界の端に、動くものが入り込んで来た。ここからは少し距離があるが、小さな浜に誰かいる。 ほっそりとしたその立ち姿は少年のようだった。立ち去ろうとした足をなんとなく止め、その人影を眺めていると、彼はするすると着ているものを脱ぎ落とし、海へ入って行ってしまう。 水谷はぎょっとした。今は11月の終わりで泳ぐには寒すぎる。彼の様子から寒中水泳とはとても思えなかった。ひょっとして自殺?そう考えて水谷は慌てて駆け寄った。砂の上に脱ぎ捨てられてある彼の服の所に辿り付いた時、その人物は丁度海中に頭を沈めてしまったところだった。水面には何も見えない。どうしよう――警察に電話すべきだろうか?波打ち際に走り寄り、いかにも冷たそうに白く泡立つ海水を見たとき、水谷はうろたえてそう思った。こんな中に急に入ったりしたら――心臓麻痺でもおこすのではないだろうか。 が、やがて、先ほどの人物が波の合間に浮かび上がった。どうやら息継ぎしているらしい。ひゅうっと喉から微かに音を立て、また潜っていく。 息継ぎしてるという事は、自殺ではないという事だ。水谷はなんだか唖然とした。で、潜り直してるという事は――やはり寒中水泳だったのか?しかしああいうのは、水谷のイメージの中ではもっとスポーツっぽいというか、華々しくて、大勢で賑やかにやる印象がある。それに――水から上がった後身体を温められるよう、火を焚いたりもしていない。 水谷が色々考えながら首を傾げていると、海面に先ほどの人物が姿を見せた。ゆっくりこちらに泳いでくる。やがて浅い部分に差し掛かかったのか歩き始めた。思ったとおり少年だった。10代の後半位か――水谷はつい正面から彼を見つめた。 海の中から徐々に現れるその姿は――なんだか人間離れしていて、つい目を奪われた。海水に濡れた皮膚が白く滑らかに光っている。浜に上がって近付いてくる彼が全裸なのに気付いて、水谷は慌てて見つめていた視線を少し逸らした。が、彼は頓着する風も無く、まっすぐこちらに近付いて来て、水谷の足元にあった服を取り上げた。そのまま身体を拭いもせず身に付けていく。 「さ――寒くないの?」 水谷はそう話しかけた。彼の髪はまだ濡れそぼっていて、先から水滴が落ちている。 話しかけられると――少年ははじかれたように顔を上げて水谷を見た。その拍子に彼の髪から小さな水の粒が跳ね、水谷の手の甲に飛んだ。ほんのわずかだったのだが、やはりものすごく冷たい。 「すぐあったまらないと風邪ひくよ――大丈夫?」 だが少年はそれには答えず、息を飲んだような表情のまま水谷の顔を見つめている。何がそんなにびっくりさせたのだろうか?水谷は不審に思いながら 「家、近くなの?」 と訊いた。 急に少年の表情から緊張が抜けた。そうして、 「大丈夫です――あの、どこか遠くから来たんですか?」 と水谷に訊ねた。 「ああ――うん、東京から」 「東京――」 少年は呟くように繰り返した。 「ええと……なんで?ひょっとして珍しいのかな、余所者は」 水谷が疑問に思って訊くと、彼は 「余所から来る人は確かにほとんどいないけど――そうじゃないんです。この辺りの人は――俺に話しかけてなんてくれないから」 とそう言った。 「え?」 どういう意味だろう?水谷が疑問に思うと、彼は俯いてシャツのボタンを嵌め出し、 「ここじゃあ俺――いないことになってるから」 と呟いた。 いない?やはり意味がわからない。なんと言ったものか考え込んでいる水谷の目の前で、ボタンを嵌め終わった少年は、小さく会釈して歩き去って行く。その背に、やや慌てて水谷は声をかけた。 「あの――!どこか今晩泊まれるところ、知らないかな?旅館でも……民宿みたいなのでもいいんだけど――」 少年は立ち止まると振り返って水谷の顔を見た。そうして少し考えてから、 「旅館や民宿はないですけど――うちでいいなら泊まってもらっても構わないですよ」 と答えた。

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