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第2話 浜辺の家
少年は、この浜のすぐ前にある家に住んでいるという。
水谷が、浜から低い階段を上がってすぐの所に置いてある車を指し示すと、彼は頷き、そのままで大丈夫です、と言った。
「車回すよりここ抜けて歩いた方が簡単だから……」
前方の、まばらに松が生えた林を指差す。
「この浜に人は殆ど入ってこないから、あそこならちゃんとロックしてあれば置きっぱなしで平気と思います」
「そう……」
水谷は、いったん車に戻って着替えが入ったバッグを取り出し、彼の後に続いた。
案内された住居は、古びてはいるが立派な一軒家だった。この地方独特の重厚な印象の黒い焼き瓦が載せられているせいか、建物全体がどっしりと落ち着いて見える。家を囲む高い生垣と日本風の庭は、冬枯れの物悲しい姿ではあるが、手入れが行き届いているらしく整っていた。
「風呂沸いてるけど、いかがですか」
家に上がると少年がそう尋ねる。水谷は慌てて
「や、君すぐ入ったほうがいいよ。身体冷えてるだろう」
と答えた。少年は柔らかく微笑んで、
「慣れてるから平気なんです。いつの間にか、風邪もひかなくなっちゃったし」
と言う。
改めて彼の顔を眺める。綺麗な子だな、と水谷は思った。こんな田舎の、しかも集落から外れた寂しい場所には、その容姿はひどく不釣合いな気がした。少し乾き始めた髪は、濡れている間は漆黒に見えたが、濃い茶褐色のようだ。瞳も良く見ると鳶色をしている。肌の色が白いのは先ほどから気がついていたが……もしかすると外国の血が入っているのかもしれない。
「慣れててもやっぱり早くあったまった方がいいよ。俺は後から使わせてもらうから」
そう答える水谷に少年は微笑んだまま頷くと、先に立って廊下を歩いていきながら、開け放たれた襖の向こうの日本間を指差して言った。
「そこが居間ですから――ゆっくりしててください」
水谷はとりあえずその部屋に入り、コートを脱ぎ、手にしていた鞄を隅に置いて座卓の前に座った。大きな一枚板のもので磨きこまれて艶があり、ずいぶんと高級そうだ。中央に、ガラス製の重そうな灰皿が置かれている。思い出して、脱いだコートのポケットからタバコを取り出して火をつけた。
他に誰もいないのだろうか?水谷はタバコを吸いながら部屋を見回して考えた。畳敷きの広い和室が、襖で仕切られている伝統的な作りの日本家屋だ。物が少なくて生活感が無く、ひどく殺風景だった。襖の奥の隣の部屋を首を伸ばして覗き込んでみたが、どこにも――人や生き物の気配はしない。磨きこまれた柱の横は立派な床の間で、水盤に植物が活けられている。その整えられた姿は美しかったが、季節的に花がないのか、枝物が中心で寒々しい印象を与えた。
梁に掛けられた、骨董店で見るような振り子時計が規則的な音を響かせている。あとは海の方向から、これも規則的な波の打ち寄せる音が伝わってくるだけだ。
時代から取り残されたような古めかしい調度の品々にそぐわない、最新型の大きなテレビが水谷の正面に置かれていた。リモコンがあったので点け、それをぼんやりと眺めた。
やがて少年が少し慌てた様子で姿を見せた。風呂を使い終わったのだろう、暖まったらしく、白かった肌が淡い紅色に染まっている。
「すみません。ストーブに灯油入ってなかったでしょう。こっち暖房無いの忘れてました。今入れますから」
彼は片手に下げていた小振りの灯油かんを、少し差し上げて言った。
「あ、いや、平気だよ。暫く外で吹きっ晒しのとこにいたから――ここは寒いと思わなかった」
水谷が言うと、少年は灯油をタンクに移しながらほっとしたような笑顔を見せた。
「だけど驚いたな。こんな季節に泳いでる人がいるなんて」
「水の中に入っちゃえば、意外とどうってことないんですよ」
「そうなの――?でもやっぱ俺には無理そうだ。鍛えてないから足の指つけただけで飛び上がっちまう、きっと」
それを聞いて少年は小さく声を立てて笑った。
「あ、俺ね、水谷。映像製作会社で働いてます。君は?」
気付いて水谷は上着の内ポケットから名刺を引っ張り出し、灯油を入れ終わった少年に差し出した。ストーブに火をつけ終わった少年は、名刺を受け取ってしばらくじっと見つめた。それから水谷の顔を見て、
「俺、翡翠って呼ばれてます」
と答えた。
「ひすい?宝石の名前だっけ。珍しいね。名字?」
「名字でも、名前でもないんです。ただの呼び名――」
答えながら彼は水谷の名刺を大事そうにシャツの胸ポケットにおさめると、灯油かんを持って立ち上がった。
「ゆっくりしててください。良かったら、風呂どうぞ」
「あ?ああ、ありがとう。じゃあ、借してもらうよ」
部屋を出て行く翡翠の後姿を見送りながら、水谷は頷いた。
バッグから着替えを出しながら考えた。あの子の言う事はちょっとよくわからない。でも何か事情がありそうだ。いろいろ気になるが、泊めてもらって根掘り葉掘り聞き出そうとするのも、なんだか失礼だよな――。
居間から出て、翡翠が歩いて行った方向に廊下を進むと、すぐ台所があった。彼は流しの前に立ち、魚を捌いているようだ。
「すごいねえ。上手いもんだな」
後ろから近付き肩越しに翡翠の手元を覗きこんだ水谷は感心して言った。数匹ある魚は、たちまち下ろされていく。
「今夜刺身でいいですか?」
翡翠が手を止めずに訊ねた。
「もちろん。あ、宿泊代は払うから」
「いいです、そんなの――」
振り返って水谷を見上げ、微笑んで言う。
「大したもの出せないし、寝るとこ提供するだけですから」
「でも世話になるんだもの。あ、風呂行ってくるね」
風呂から出て居間に戻ると、翡翠が食事を出してくれた。さっき捌いていたものだろう、新鮮な刺身や、貝の入った吸い物なんかが並べられている。小さくて丸々とした烏賊が、煮込まれて皿の上に並んでいるのがあった。
「これなに?美味そうだけど」
「烏賊飯です」
「へえ。こんな小ちゃいのが?大きい烏賊が輪切りになってるのなら食べた事あるけど」
「ホタルイカで作るんです。米詰めんのちょっとめんどくさいけど、身が柔らかいんですよ」
「へええ……翡翠君は料理上手いんだな」
「別に上手くは――やってるうちに慣れただけです」
腰を降ろした水谷に、翡翠が杯を差し出したので受け取った。そこへさらに温かい酒を注いでくれる。その手際の良さと流れるような所作に、水谷は感心したのだが、それと同時になぜだか違和感も覚え、俺、化かされてんじゃないだろうな、などとくだらない事を考えた。
「近くには食事できるようなとこもないんです、ここ……」
「……そういえばそうだねえ……」
水谷は、浜へ来るまでの道のりを思い浮かべた。小さな個人商店は途中の集落で見かけた気がするが、レストランなどは無かったようだ。人自体が少ないのだろう、かなり寂れた地区なのだ。考えてみればそんな場所で、都合よく宿泊施設が見つかるわけがない。
「いやあほんと助かったよ、君のとこ泊めてもらえて。また車で夜明かしになるとこだった」
水谷は礼を言った。
「よく車で寝るんですか?」
翡翠が訊ねる。
「うーん、まあ仕事上よくあるかな?貧乏会社だからさ。スタッフの必要経費は、削られるのが常なんだよね」
翡翠の拵えた料理は美味かった。彼は気を配るのが上手でたゆみなく酒をすすめてくれる。水谷はのせられてつい杯を重ね、いつしか良い心持になっていた。酒の助けもあるのか気安くなり、翡翠に訊ねた。
「翡翠くんて――家族は?こんな立派な家に独りで住んでるの?」
「はい、今は。ずっと独りだったわけじゃなくて――母と住んでたんですけど」
母親は今入院しているそうだ。
「そうなんだ、心配だね……それに寂しいだろ……」
「もう慣れました」
翡翠は静かに言った。
歳を訊くと、二十歳だと答えた。
「え?成人してるのか。十代に見えたよ」
「都会の人は大人っぽいですもんね」
「いや君が幼く見えたってわけじゃないんだけど……なんでかな」
水谷は最初に見た、何も身に着けていなかった時の翡翠の姿を思い出した。あの時は彼の身体つきが――ひどく無垢に見えたのだ。だから少年かと思った。彼の裸体を思い出すと、なんだか両頬が熱くなる。相当酔ってるんだろうか。水谷は同性に興味があるわけではないのだが、翡翠の身体は――綺麗だと感じた。見たのは本当に短い間だったのだが、性別を越えた魅力があるように思えた。そのせいでなんとなく人間離れした印象を受けたのだ。
そういえば改めて考えると――彼があの冷たい海に入って平気でいる事といい、時間から取り残されて過去の時代で止まっているようなこの家の状態といい、何もかもが現実離れして感じられる。そして彼の、寒村には不似合いな容姿や翡翠と言う名前も。酔いが回った今では余計そうだ。
「まさか君――幽霊とか――物の怪の類じゃないよねえ?いやなんか、不思議な感じがして」
水谷は、翡翠がさらに注ぎ足す杯を受けながら、冗談めかしてそう言った。それを聞いて翡翠が微笑む。
「人間ですよ、一応。――時々、自信なくなるけど」
ひどく寂しそうに呟いた。どうにも気になって、水谷は尋ねた。
「そういえば――君、ここではいないことになってるとか、名前じゃなくてただの呼び名だとか――色々不思議な事言ってたよね。それ、一体どういう事なの?訊いてもいいかな――」
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