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第1話 誕生日
「徒歩20分」は微妙な距離だ。駅から自宅までの道のりをゆきながら、真知 立人 は切れ味のある寒風から耳を守るように肩を寄せた。コートのポケットに突っ込んだ手が出せない。鞄には手袋があるが、手袋を取り出すためにポケットから手を出す選択肢がない。頼りない間隔で街灯があり、ゆるやかな登り坂を申し訳程度に照らしている。遠く向こうに焼き鳥屋の赤提灯が見え、真知の顔をげんなりとさせた。「半分」の目印だ。まだ半分だが、もう半分まで来てしまったのだ。さっきから、タクシーを何台も見送っている。
『今年も第2開発課は……一同、ハツラツとやってきますんで……』
『あっはっは、傑作傑作……』
反対車線の歩道から、酔っ払いの断片的な会話が聞こえる。真知は歩き過ぎざま、チラッとそっちを見た。
駅から徒歩20分の2LDKマンションが真知のすみかだ。閑静な住宅街にあり、公園やカフェ、スーパーマーケットやホームセンターが近い。引っ越した当初はそこに魅力を感じていたが、間もなく、仕事終わりにはどこも閉まっていることに気付く。困ったときのコンビニエンスストアはかなり遠く、ひとつ不便さに気付くたび、自宅の持つ魅力はだんだんと減っていった。でも、真知にはおいそれと引っ越せない事情がある。はーっとため息をつくと、1月の夜に白い靄となり、ますますかれをげんなりさせた。
(よくあんなとこ何年も住んでるよなあ、土井中さん。住み替え考えないかなあ……っていうか)
もう帰宅しているであろう同居人のことを考えていると、また風が吹き、自分の吐息で眼鏡が曇った。煩わしそうに頭を振り、グスッと鼻をすする。
(土井中さんに金借りて、おまけに居候までしてる身で、何言ってんのって感じなんだけど……)
帰り道、真知は毎日のようにこの微妙な距離の自宅のことを考える。もう嫌だ。引っ越したい。でも金が……を繰り返し、歩いて、歩いて、やっとマンションのエントランスまでたどり着いた。そこで立ち止まり、脱力し、エントランスホールからしばらく動かなかった。エレベータがない。築20年のこのマンションにはエレベータが存在せず、最上階の5階にある部屋まで階段を上がらなければならない。それが、真知はだいっきらいだった。
(もう、嫌だ、絶対に、引っ越す、金貯めて、引っ越す!)
1段昇るごとに決意を新たにし、真知は75段ある階段をひとつひとつ踏みつけて5階まで来た。ここでまた脱力する。喘息持ちにこの運動はつらく、呼吸を整えてからでないと、すぐそこの501号室にさえ、歩き出せる気力も体力もない。でも、ここまで来たのならもう帰宅したも同然だ。真知は今更温まってきた手をポケットから抜き、鞄からガサガサと鍵を取り出す。きっと、部屋は暖房が効いているはずだ。温かいお茶もすぐ淹れられる。ドアを開けるまでの間がじれったい。
「ただいまー!」
……でも、予想に反して部屋は暗かった。真知は手探りで玄関のあかりを点け、紐靴をモタモタと脱ぎながら、また呼びかける。
「土井中さーん、いないのー?」
部屋は暖かい。外との気温差で、胸がヒューヒューと鳴り始めた。恐る恐るフローリングに足先をつけ、ところどころでキッと軋む、短い廊下をすり足で進む。廊下の先にあるリビングの扉はフラッシュドアになっており、磨りガラスからオレンジ色の小さな光が点々と見えた。ひとつ、またひとつ、長くはない時間をかけ、光は増えていく。ときおり揺らめきながら、呼吸のように明滅を繰り返す。見覚えのない光だ。真知は一瞬、左手を迷わせたが、ノブに手をかけてゆっくりと回した。カチャッ……とかすかな音がし、左目で隙間を覗く。そうっとドアを押すと、景色は扇子のように徐々に右目のほうへ開いていった。土井中がそこにおり、火がついたままのライターを手に真知を振り返った。
「土井中さん……」真知の声はカラカラだった。ごくりと喉が鳴る。「何……やってんの……」
「見られてしまいましたか」
土井中の声から感情が読み取れない。真知が磨りガラス越しに見た、オレンジ色の光はロウソクの炎だ。今も、生きもののように周囲の酸素を吸って膨らみ、二酸化炭素を吐いてしぼむ。甘い香りもする。ロウソクはホイップクリームのたっぷり乗ったホールケーキのてっぺんに刺さっており、不思議なあたたかみを真知にくれていた。土井中はひと呼吸おいて、改まったようすで真知に言う。
「誕生日……おめでとうございます」
「土井中さん……」
それ以上言葉が出てこず、真知は下を向く。何と言っていいかわからない。この場に似合いの言葉がない。思い切ったように顔を上げると、土井中も何か言いたげなかれを察してたたずまいを直した。少し首をかしげるようなしぐさを見せる。
「驚いたでしょうか」
「うん……びっくりした……誕生日じゃないから……すごくびっくりした……」
「誕生日じゃない?」
しばらく、ふたりは黙った。
「真知くん、何を言っているんですか。あなたの誕生日は今日……僕は見たんです」
かれは真知の部屋のほうを指さし、
「先日、あなたの部屋を掃除していたら、机の上にどこかの店のポイントカードが置いてあったんです。それに、あなたの誕生日が書いてありました」
「俺の部屋の掃除の是非は置いておくけど……あのカードは、その……最近作ったもので……」
言葉にかなり迷ったあと、ごく小さな声で続ける。
「誕生月にいっぱいポイントをくれるから……その……」
恥ずかしさのあまり、これ以上言葉が続かなかった。土井中は、真知が苦手な理知的なにおいのする目でかれを見ている。
「つまりあなたは、ポイント欲しさに誕生日を偽ったというのでしょうか」
「……はい……」
手が後ろに回り、証人台に立った被告のような気分になった。土井中は隠せない侮蔑を含んだ目で真知を見、「セコ……」とだけ言う。真知の心はかなり傷ついた。
「よくないことだと、わかってはいます……」
小さな声でそう言うと、少しのあいだ土井中は何も言わなかった。そして、静かに続ける。
「自分の好き嫌いをものさしにして、万事をすべて善悪のどちらかだけに振り分けるのは、愚かだと思っています」
「……」真知は静かに判決を待った。
「そのポイントで、あなたは幸せになれたでしょうか」
土井中の声は、思いのほか優しかった。幸せになれたのならそれでもよいのだとすら言いそうだった。いっそ罵ってくれたほうがマシだと、真知は心の底から思う。
もらったポイントは500円分だ。真知はそれでちょっとだけ欲しかったものを500円安く買ったが、それだけだ。今年のうちに、同じ店からポイントがもらえることはもうない。得られるものの時期が違うだけで、本質は何も変わらないのに、目先の儲けにつられて誕生日を偽ったのだ。その浅ましさが裏も表もないような土井中の目に晒された……消えたいほど恥ずかしかったが、腹の底のどこかに「500ポイントをどうこうした以上のダメージを今、受けていることへの腹立たしさ」も大いにあった。真知はがっくりと肩を落とす。
「もうしないよ……」
「そうですか。あなたの誕生日が今日ではないことがわかったのですが、せっかく準備したケーキです。ぜひ食べていただきたい」
「うん……ありがとう……」
土井中は切り替えが早い。それがありがたくもあり、ときに真知をイラッとさせた。
ところで、ケーキは直径20センチほどで、5人分はありそうに見えた。縄を解かれた気分の真知は、改めてケーキを見る。ロウソクの数はかなりあり、数えなくても真知の年齢と同じ本数なのがわかる。ほんとうの誕生日ではないので気が引けたが、真知はご自慢の肺活量で5、6回に分けてロウソクを消した。
「ケーキ、大きくない?」
「はじめは小さいケーキを選んでいたのですが、いかにして28本のロウソクを立てるかが重要でした。試算と試作を重ね、結局ケーキのサイズを拡張することで落ち着いたのです。中心に1本、内側に10本、外側に17本。我ながら、美しい出来栄えですね」
「包丁、持ってきますね。飲みものはコーヒーでいい?」
「僕は甘味が苦手だから食べません。あなたが好きなだけ食べてください」
「えっ……」
真知は言葉を失った。そして、額が徐々に熱くなり、髪の毛がぜんぶ逆立つような激しい感情にとらわれる。
「あんたさあ……そういうとこ! 肝心なとこで雑になっちゃうとこ! 俺だいっきらいなんだよね!!」
「真知くん、夜間です。お静かに」
「静かにできない!!」
先ほど恥ずかしい思いをした腹立たしさもあり、真知は止まらない。
「誕生日はケーキ見て終わりじゃないでしょ!? ケーキ作って、見て、食べて、そんで心の中に思い出になってちゃんと仕舞われて終わりでしょ! もっといえば『じゃあ来年はどうしようかなとか、次はもういいかな』って考えるところまでが一連の流れ……着地点を誤っちゃダメだって、俺いつも言ってるよね!?」
「はい……かねてより、伺っております……」
土井中は耳が痛そうにギュッと眉間を寄せた。
「確かにすごくきれいに作ってくれてるんだけど、土井中さんは見せるとこまでしか考えてないからこんなでかいケーキにしちゃうんでしょ!? 食べきれるか考えた!? しかも自分は食べないって? それでいい思い出になれると思うの!? あと試作を重ねたって言ってたけど、そのケーキはどうしたの!?」
「部員のみなさん、保護者各位、同僚の先生がた……甘味愛好家は多いので。幸い、協力者には事欠きませんでした」
「そう……」
いったい何と言ってケーキを食べさせたのかを想像すると額の産毛のあたりに鳥肌が立ち、真知は相槌を打つことしかできなかった。土井中は、あまり間を持たせず続ける。何か言いたげな真知を遮るようだった。
「着地点の判断については今後の課題とします。今回のあなたの誕生日に限っていえば」
どことなく、言い訳がましい口調だ。
「来年の誕生日も何かしらお祝いすることを……想像することは難しいです。人間は結局、気分で生きていますから。その日の暮らしというものは日々何万枚もあるカードの中から、さしたる思考も挟ませずに1枚を選び続けて決まります。一説によると、人間は1日に9,000回の決断をするという。ひとつ選択を変えただけで、数時間後の自分がまるで別人のようになることもあるでしょう。僕は」
息を吸う。
「あの日たまたま路上であなたの経営する会社のポケットティッシュを戴き、事務所を訪ねた。そして、僕はそこのお客になりました。その後、なんのかんのとあってあなたと一緒に生活することになりましたが、あなたと僕の関係は、あの日からさして変化はないはずです」
「……」
土井中の言うことは、わかるようでわからない。真知はこういう問答をするとき、いつも残尿感のようなものに苛まれた。眉間にしわが寄る。真知は、やや乱暴な口調で土井中に訊いた。
「じゃあ、なぜ、今日」真知はかれの目を見ようとする。「このケーキを?」
真知の首筋から、土井中の視線がゆっくりと上がってくる。
「言ったでしょう。『人間は結局、気分で生きている』と。それに……」
真知は眼鏡のテンプルを持ち、角度を整えながらかれの次の言葉を待つ。
「あなたとこうして暮らすのも、もうすぐ1年になります。僕の『気分』は、1年一緒に過ごしてきた相手に対する、おおよそ標準的な愛着のつもりですよ。だから誕生日を祝おうと思った。まあ、結果的に失敗に終わりましたけど」
「それは……ごめんなさい。あと俺、1年も土井中さんに金借りてるんですね……それも本当にごめんなさい」
「別にかまいません。あなたと暮らすことで、家賃も家事も半分になりました。僕にもメリットはあるんです」
「必ず返しますから!」
土井中は真知に背を向け、冷蔵庫の前に立った。マグネットでくっつけてあるペンを取り、真知を振り返る。
「それで、ほんとうの誕生日はいつなんですか?」
「11月……27日……土井中さんの誕生日も訊いていい?」
「4月20日です」
真知の誕生日を冷蔵庫に貼ってあるミニカレンダーにメモしながら、土井中は答えた。真知は、その日付を頭の中で繰り返す。あと数か月だ。木曜日。なんの変哲もない平日が、真知の中で意味を持つ日になっていく。
「甘いものは苦手なんですね。でも前に、タピオカミルクティー飲みに行ったよね?」
「甘いものというより、チョコレートとかクリームですかね。胃もたれするような感じがして……タピオカは流行っているので気になっていて、食べてみましたが、あれもなかなかのボリュームでした。3日は引きずりましたよ」
土井中はキッチンに包丁と食器を取りに行き、ケーキのあるテーブルに戻るとロウソクを撤去する。食器は、ふたりぶんあった。真知は「あれっ」と思う。
「ケーキ、土井中さんも食べるんだ」
「『いい思い出になれない』とまで言われてしまってはね……少しくらいは食べなければ、せっかくのケーキも泣いてしまいます。真知くんはコーヒーを淹れてくれますか?」
「はい!」
土井中とすれ違うようにして、キッチンに向かう。電気ケトルをセットし、マグカップをふたつ出した。土井中は濃いめのコーヒーに牛乳をなみなみと入れるのが好きだ。インスタントコーヒーをそれぞれのカップに入れる。真知は、土井中が、かれの言うところの『1年一緒に過ごしてきた相手に対するおおよそ標準的な愛着』を自分に持ってくれていることが嬉しかった。ちょっとした悶着はあったものの、その幸福感は真知の胸の奥底の、誰にもわからないところをあたたかくした。電気ケトルがシューッと水蒸気を噴き出し、また眼鏡が曇る。
土井中はホールケーキを4等分にし、ひとつを真知の皿に載せる。ひとつはさらに半分にして自分の皿に載せた。それぞれにフォークをつけ、生活していく中でいつの間にか決まった「自席」に置く。
冷蔵庫の側面に、たくさんの郵便物を無造作に突っ込んだレターラックがかけてある。土井中はチラッとそっちを気にした。
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