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第2話 朝寝坊
翌朝、真知はドタン! という音で目が覚めた。次いで、バタバタと廊下を走る音がする。土井中とふたりで暮らしているのだから、音を立てたのは絶対にかれだ。焦っているようにも思える……でも、真知が一緒に暮らす中で受けた印象では、土井中は慌てるとか、急ぐなどとは無縁の静かな男だった。起き上がって眼鏡をかける。スポンジのキャラクターが描いてある寝間着の上にジャージを羽織り、冷たいフローリングに足先をつけた。盗人のように爪先だけで歩き、水音がする洗面所を覗くと、シェービングフォームを荒っぽいしぐさで塗っている土井中と鏡越しに目が合った。
「ああ、おはようございます。もしかして、僕がうるさくて起こしてしまいましたか?」
「ううん、ただ起きただけ……どうしたんですか? 寝坊?」
「そうです。もう夜にコーヒーは飲まないと誓います……3時まで寝られなくて……」
理由のしょうもなさに真知はちょっと笑ったが、それよりもサッサとひげを剃っていく手つきの危なっかしさにハラハラした。
「あんまり慌てるとケガしちゃうよ……ひげくらい、1日くらいいいんじゃない?」
「ダメです。あなただって学生時代、教師のひげとか、鼻毛とか、寝ぐせとか、見つけたら1週間くらい笑いものにしたのでは? 社会人なら誰でも気を遣うことですが、大人同士でクスッと笑って済ませてくれるところを、中学生は見逃さない。そして恐ろしいことに、成人しても覚えていることがある」
「そ、そうなの……?」
土井中はバシャバシャと顔を洗い、タオルで顔を拭いたあと、ポンプ式のメンズ化粧水を簡単につける。そして、チラッと腕時計を見た。
「朝ごはんを食べている時間はないですね。真知くん、いろいろとやりっぱなしにして申し訳ないですが、あとはよろしく」
「うん。なんにも心配しないで。いつも通りにしておくから」
手早く着替え、鞄を引っ掴み、嵐のように土井中は出かけていった。心なしか、いつもより部屋が静かになる。真知はテレビをつけた。エアコンもつけ、電気ケトルでお湯を沸かす。冷蔵庫から昨日のケーキの残りを取り出し、4分の1ホールを皿に載せた。朝のワイドショーなどを優雅に見ながら食べ終え、食器を洗ってシンクを拭いておく。脱衣所から洗濯かごを取ってきて、各所から回収した手拭きタオルなどとまとめて洗濯する。洗濯機が回っているあいだに身支度を整え、ベランダに干したら朝のルーチンは完了だ。
中学校で教師として働く土井中は朝が早く、自営業の真知にはゆとりがある。逆に、早く帰ってくることが多いのは土井中だ。かれは帰宅すると風呂を簡単に掃除し、夕食を準備する。真知のぶんも作ってくれているが、たいてい土井中は先に食べ、風呂に入って自室で持ち帰りの仕事をしたり、意外とゆっくり過ごしていたりする。ひと言も会話をしない日もある。不思議な同居生活は、4月で1年になる。
「行ってきまーす」
返事があるわけではないのに、そう言って玄関のドアを開けた。風は冷たいが、晴れて気持ちのいい朝だ。11時の営業開始に合わせ、真知は家を出る。昨晩やっとの思いで上がり切った階段も、下りなら何ということもない。軽快な足取りでエントランスホールを抜け、朝日を全身に浴びた。駅までの道をゆく。昨日通り過ぎた焼き鳥屋の赤提灯はくしゃっとたたまれ、半分ほどになって下がっていた。明るい時間帯の通りは、夜とは違う様相を見せる。
『この道の街路樹はすべて桜で、春には見事な桜並木になるんですよ』
いつか土井中が言ったことを、思い出して胸の奥がギュッとなった。かれとのふたり暮らしは、長く続いてはいけない。耳を揃えて借金を返済し、商売人とお客の正しいすがたに戻る。一日でも早いほうがいいし、そのために真知も日々働いている。でも……一度でもこの桜が見れたら嬉しい。ちぐはぐな気持ちが、どうしようもなく腹の奥でぐるぐると回る。
最寄駅は、快速電車が止まらない駅だ。何本かただ通り過ぎる電車を見送り、やっと来た鈍行に乗って、ひと駅で降りる。駅裏の少し込み入ったところにある雑居ビルが真知の仕事場だ。今日は気分がいいので、2階まで階段を上る。ドアは鍵がかかっておらず、すぐ開いた。ふわっとお香の香りがする。
「大山さん、もう来てたんだ。おはよう」
返事のように、リーン……リーン……と澄んだ音が2回した。大山さゆりは真知のデスクのそばでティンシャを鳴らし、音が止むまで静かに待つ。それから、やっと真知のほうを向いた。
「マッチ棒、おはよう。さっき来たところよ。天気がいいから、結界を張り直していたの」
「ふーん……結界……俺の机のところにも、やってくれたんだ」
「そうよ。パソコンはウイルスにかかるというわ。インドラの力が悪いものを祓ってくれるでしょう」
「あ、ありがとう」
雑居ビル2階の貸事務所を、縁あってふたりで折半して借りることになった。大山は[アイリスと占いのお部屋]の看板を出して占い屋をしており、真知は[システク・アイテム]というWebサイトの開発・保守をする事務所として使っている。まったく業種の違うふたりだが、共同経営は意外とうまくいっていた。大山はちょっと申し訳なさそうに真知に手を合わせる。
「マッチ棒、今日は『今週の占い』をサイトに載せる日なの。また、頼めるかしら」
「ああ、いつものやつですね。お安い御用だよ。準備するからちょっと待ってね」
手書き原稿を受け取り、真知はパソコンを起動した。『今週の占い』は大山のお客から要望が上がり、真知の手を借りて実現したコンテンツだ。お友達価格といえど料金が発生しているので、真知の週次業務といえた。パラパラと原稿をめくる。誤字などをチェックしながら流し見していると、ふだんとは違うところに目が行った。
今週のアンラッキー星座:おうし座(4/20~5/20)
生活態度を見直すとき。つい夜更かししたり、時間にルーズになったりしていませんか? ハメを外し過ぎると思わぬトラブル発生の元。今週は謙虚さを意識して粛々と過ごしましょう。また、他人のルーズさが自分の生活に影響を与えても、笑って許すこと。寒さが苦手なおうし座にとって、今は耐える期間。温かくなれば気分もよくなり、よい変化が訪れます。
ふーん……と真知は思う。少し頬が緩んだ。この占いと、昨夜コーヒーを飲み、3時まで寝られず、朝寝坊した土井中が重なる。他人のルーズさ……それは真知のことのようにも思えた。
「なーに、ニヤニヤして。アタシの占い、外れてるかしら?」
「ううん、当たってるかもって思ったんだ。これすごいですよね。いつも思うけど、どうやってわかるんですか? 神の啓示とかそういうもの?」
「計算みたいなものよ。占いって、一種の統計学なの。何千年もかけて何万人、何億人っていう人の人生を、星と照らし合わせて記録してきたの。今日の星の位置は、すでに記録されたいつかの星の位置で、そのとき各星座の人たちがどのような運命をたどったかを読み取っていく……『占い師』っていう商売は、その解釈を売る商売なの」
「そうなんだ……てっきり魔力とか、魔法とか、そういう超人類的な力でやってるものなのかと……」
真知が正直に言うと、大山はちょっとだけほほえむ。
「ティンシャもお香も、魔術っぽい見てくれの道具だからそう思えるわね。アタシは感覚とか感性を研ぎ澄ませるっていうか……要は頭をすっきりさせたいからやってるだけ。星にやたら詳しいだけの、どこにでもいる人間よ」
占い師というだけあり、大山はちょっと独特な雰囲気の女性だ。とっつきにくいともいえる。でも、中身はごく普通の価値観を持った親切な人だ。彼女に、真知は何度も助けられた。
『今週の占い』を更新し、パソコンや自分のスマートフォン、大山のガラケーで動作確認をする。それが終わったころ、大山のもとに占いの予約客が来た。ふたりはブースに入ってゆき、真知はひとりになる。今日はお客との打ち合わせも入っていない。早急にやらなければならない案件もない。こまごまとした雑務の日となりそうだ。真知はメールソフトを立ち上げた。受信メールを眺めていると、マナーモードにしているスマートフォンが短く着信を告げる。真知は反射的にそっちを見た。LINEだ。大学時代の数少ない友人である、安達と高村と真知の3人で作っているグループLINEだ。
「今日飲める人ー?」と安達が投げた数秒後に、高村の参加が決まる。あっという間に六本木で19時に居酒屋で飲むことが決定し、あとは真知の返信を待つのみとなった。ジリジリと端末越しに見つめられているようで、はーっとため息が出る。なんとか断る言い訳を探そうとしたものの、どれも過去に真知自身が使い古したものばかりで、ひとつずつ候補から消えていった。それでもしばらく悩んだ末、真知は「行く!」と返信した。そのあと一応、土井中にも飲み会で遅くなる旨の連絡を入れておく。返信は来ないし、既読にもならない。真知は携帯を自分からちょっと離して置いて、仕事に集中しようとした。
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