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第12話 焼き鳥

 手元の伝票を繰りながら、真知は目の前のパソコンに売り上げを入力した。間違いがないかチェックし、入力し終えた数字を見て「おっ」と思わず声が出る。給湯スペースでお茶を用意していた大山にも聞こえたらしく、カップを持って真知のほうへやってきた。 「どうしたの、マッチ棒。何かいいことあった?」 「今月の売り上げがよかったってだけです。家賃と光熱費を差し引いて……積み立て用にこれだけとっておいて……」  カチカチとパソコンを操作し、改めて表示された数字を見る。真知の瞳が輝いた。土井中に借りた金を、すべて返す日が来たのだ。事務所に誰もいなければ大声でも上げていたかもしれない。真知の背中から、大きな荷物がひとつ下ろされた。身軽になった体は、羽が生えたような気さえする。  その日は誰とも約束がなかったので、真知は営業時間が終了するとすぐに事務所を出た。早く土井中に話したい。マンションに帰ると、かれはまだ帰宅しておらず、ちょっとだけがっかりする。ただ待っていても時間を持て余すだけだ。真知は食事のしたくをすることにした。冷蔵庫を覗くと、肉と野菜が少し。まずは米を炊いて、スープか味噌汁を作って……などと考えているうちに、玄関で物音がした。帰ってきたのだ。真知はドキドキしながら、かれがリビングまで来るのを待った。ほどなくして、土井中が顔を出す。 「ただいま。もう帰っていたんですか。珍しいですね」 「……土井中さんに、報告したいことがあって」  真知は少し言葉を迷わせたあと、お金を入れた封筒を両手で差し出した。 「たくさんご迷惑おかけしました。本当に感謝してます。土井中さんがいなかったら、会社も俺も、たぶんダメになってた」 「……」  両手で封筒を受け取る。 「確かに受け取りました。僕はただ貸しただけです。ここまでやってこれたのは、あなた自身の実力でしょう」  そんなふうに言ってくれるのは、土井中が優しいからだ。自分はマイナス地点から、やっとゼロに戻っただけなのに。そう自分に言い聞かせようとしても、かれの言葉で労われると嬉しさがこみ上げてくる。真知の目を見て、土井中は笑いかけた。そして、続ける。 「僕も、あなたに言わなければならないことがあるんです」  冷蔵庫の近くに掛けてあるレターラックから一通の手紙を抜き取り、真知に渡した。宛先は土井中だが、消印がない。中の書面は1枚だけで、「入居者の皆様へ」と宛ててある。真知は、その書面を急いで読んだ。一字一句きちんと読みたいのに、焦ってちゃんと文字が頭に入って来ない。断片的な言葉だけが頭の中に飛び込んでくる。『長年……していただいた……マンション……区画整理……取り壊し……つきましては……』 「……なくなるの? このマンション……」  駅から遠い。コンビニも遠い。エレベータがない。真知は今までさんざんこのマンションをボロクソに評価してきたし、金を貯めて引っ越すと毎日のように決意してきた。でも、それが取り壊されると知った今、あまりに真知はこのマンションとの思い出を持ちすぎていた。それは、土井中との思い出でもある。でも、真知が金を返し終え、この部屋もなくなるとわかった今、ふたりを同じ場所に住まわせる理由は何もない。探したが、何一つ見つからなかった。途方に暮れる。 「そっか……寂しいけど……」  真知はそれしか言えない。土井中は何も答えずに鞄をソファの上に置くと、財布だけを取り出した。 「真知くん、駅に行く道の途中の、あの焼き鳥屋に行ってみませんか? ここに住み始めた当初からあった店なんですが、行ったことがなくて。よかったら……」 「……はい。俺も行きます!」  ふたりは簡単に着替え、連れ立って出かける。  桜の季節だ。マンションの近くにある公園も、焼き鳥屋までの道も、満開の桜に飾られて美しく、気持ちが浮ついた。桜のトンネルの下を初めてふたりで歩く。話題は仕事の話ばかりだ。真知も土井中もいつになく饒舌で、あっという間に赤提灯の前に着く。運よく開いていたカウンター席につく。おまかせの串10本と、ビールかハイボールのセットが目についたので、ひとつずつ頼む。土井中はビールで、真知はハイボールにした。そのうち店はぎゅうぎゅうに混んできて、あまりゆっくりしていられる雰囲気でもなくなった。みんな、とりあえずここで空腹を満たして次の店に行くらしい。真知も土井中も、明日の仕事があるので2軒目には行けない。酔っているとも、いえないともいえる半端な顔色で店を出た。もうすっかり暗くなっており、春といえどこの時間の風は少し冷たい。もと来た道を、マンションに向かって帰ってゆく。 「真知くんは、引っ越し先のあてはありますか? 住んでみたい街とか」  ゆっくりと歩く。道すがら、土井中は世間話のように訊いた。 「いえ……まだなんにも決めてないです」 「それもそうですよね。僕は今日初めて、取り壊しのことを話したんですから」 「土井中さんは?」  真知も訊き返したが、かれも首を振った。 「なかなか見つかりません。情報誌を見たりはしているんですが……そもそもあまり出たがらない性分なので、どの駅が便利だとか、何が近くにあるといいとか、あまりよく知らないのです。荷物をまとめることも考えると、なおさら腰が重い。……あのとき、真知くんの私物の少なさには驚きましたよ」  かれは、真知が土井中の家に来た日のことを言った。約1年前だ。 「家具や家電がついているアパートにいたんです。そういうとこは、身一つでいけますよ。それが、逆に面倒っていう人もいるんだけど」  「そうなんですね」と土井中が言ったきり、ふたりの会話は途切れた。真知は、真知が酷評したあのマンションがなくなることよりも、土井中と一緒にいられなくなることが寂しかった。でも、それを言葉にするのははばかられる。ふたりの関係は、おおむね安寧だといえた。そこに一石を投じるのが怖かった。自分の気持ちはもうわかっている。でも、人の気持ちははかれない。土井中の気持ちが真知と同じではなかったとき、澄んだ水面に石を投げたことをきっと後悔する。だから、真知は精一杯の勇気を出して、祈りをこめて言った。 「土井中さんの新しい家が決まったら……いつか遊びに行ってもいい?」 「ええ、もちろん」  中身のない約束をする。ただその目が頷くのを見たかった。胸が満たされていく……これでいいと思った。過ぎたことは望まない。 「お土産持って行きますね」  真知は笑いかけ、また前を向く。マンションはすぐだ。酔ったふりをしているような足取りで、一歩先を行きかけた真知の右手首を、土井中の手が掴む。 「真知くん」  思い切ったような声がした。真知は、驚いて振り返る。土井中は少し迷って、 「本当は、もっと前に取り壊しのことはわかっていたんです。でも、……あなたに」  緊張したような震える息を、土井中は吐き出した。 「言えないでいた。言えば終わりがくることを認めなければいけない気がして、ずっとずっと、先延ばしにしてしまいました。それは僕のわがままだったんです。笑ってくれてもいい。あなたと一緒に暮らす毎日が、楽しかった」  ガーッと音を立て、なかなかのスピードで自動車が過ぎゆく。ヘッドライトが一瞬だけ、ほろ酔いに潤むふたりの瞳を照らした。 「……俺も……すごく楽しかったし……」  真知は言いかけて、一瞬俯く。そして、思い切ったように土井中の目を見た。 「まだ一緒にいたいよ」 「……真知くん、」  かれが何か言いかけるのを遮る。 「土井中さん、さっき言ったよね。『引っ越し先のあてはあるか』って。土井中さんさえ迷惑じゃなければ、俺のわがままを許してくれるなら、まだ一緒にいたいんだ。俺には住みたい街はないけど、あんたが住む街が俺の知らないところだったらイヤだ」  かれの顔を見れない。でも、真知はどうしても今、胸の中の気持ちを伝えたかった。 「いいトシなのに子どもみたいなこと言ってごめん。でも、俺……土井中さんのこと……」  最後のひと言がこぼれ落ちる瞬間、パーン! と耳をつんざくようなクラクションを鳴らし、数台の暴走車が走り去っていった。ふたりともビクッと体を震わせ、しばらく動けなかった。真知は呆然としたあと、だんだん腹が立ってくる。決死の告白はかき消され、すべてが台無しになった気がして黙った。微妙な顔で行き場のない言葉を持て余していると、自分が言おうとしていたことを自分で自覚して顔が熱くなる。土井中は真知を見てふふっと笑った。 「な、なんで笑うんですか! 俺なりに真剣な話を……」 「わかっています。ごめんなさい。でも、あなたの顔が真っ赤なのがおかしくて……」  口もとを手で覆って笑いを押し込めたあと、土井中は真知に言った。右手を差し出す。 「帰りましょう。……そして、また帰るところを決めましょう。これからも、僕と一緒にいてほしい」  差し出された手を、真知は握った。

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