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第1話
「すいません、同じのもう一杯」
何度目かわからない声をバーテンダーに投げかけ、それを待っている間に俺は大きく息を吐いて顔を覆った。
普段は付き合いで飲むものの、一人のときにこれほど飲むことはない。けれど今日は飲みたい気分なんだ。
決まっていたはずの舞台の仕事がキャンセルになった。
言葉にすればそれだけのことだけど、俺にとってはずっと待ち焦がれていた仕事だった。オーディションで勝ち取った、大事な仕事。
それがダメになった理由が、後から来た大きな事務所のアルファにその役が渡ったから。
またアルファ。俺、因幡 皐 の前に立ちはだかるのはいつもアルファの壁だ。
アルファはずるい。
生まれた時からすべてに恵まれた存在であるアルファは容姿も良く目立つ人間が多いために、俳優の世界にも多くいる。ただ演技力という力も必要なためにベータも多く、だから努力次第でなんとでもなると頑張ってはいるけれど、それでもこういうことがあると飲みたくもなってしまう。
アルファだったらどれだけ有利に戦えるか。そう嘆く俺は、実をいうと世の中の大多数を占めるベータでさえなく、アルファよりもさらに少ないオメガという性だ。
高校生の時に起こった事故に関わる少数の人間しか知らないそれは、今の事務所にも言わずにいるため、俺はベータとして通っている。
基本的に可愛らしい見た目であることが多いオメガだけど、俺の場合は高めの身長と可愛いよりかはかっこいいやら綺麗だと言ってもらえる容姿のおかげでベータだという嘘を疑われずに済んでいる。
本来なら打ち明けておくべき事務所にも言えない主たる理由は、オメガである限り逃げられないヒートという期間。
大体三か月に一回、一週間ほど続くそれは、いわゆる発情期といって、ただひたすら動物みたいに発情して繁殖のことしか考えられなくなるんだ。
幸い俺は少しの副作用はあるものの薬で抑えることはできる。けれどそのときに出るフェロモンが見境なくアルファ性を誘うものだから油断はできない。
これのせいで俺がオメガだとわかったら、大抵のアルファ俳優を所属させている事務所から共演NGになるだろうし、なにより俺が俳優としてやっていけなくなる。
特に舞台なんて大勢が密集した密室でそんなことになったら大変なことになると入れてもらえなくなるだろう。こちらはこちらでその期間にかぶらないようなスケジュールのものではないと出られないため、なかなか舞台の仕事ができない。
その舞台の仕事がやっと入ったというのに、呆気なく取り上げられてしまった。結果ここに飲みにきた。
何度か連れてきてもらって入れるようになった会員制のバーは、普段は来ないけれどいつもの居酒屋で飲みたい気分じゃなかったんだ。
ただひたすら酔って、帰ってなにも考えずに寝るために今はとにかく飲みたい。
「隣座っていいですか?」
そんな気分で前に置かれたグラスを手にした瞬間、そんな声がかかって眉をしかめる。
ボックス席からの声が適度に響くバーの中、大声を張り上げたわけでもないのによく通る声。その持ち主は、知り合いではないけれど声でわかるくらいには知っている人間だった。
むしろわからないのは、なぜ声をかけられたかということ。
「真神 、薫 ……?」
「あ、わかりますか?」
真神薫。
確か21歳くらいの、アルファ。そうアルファだ。天から二物も三物も与えられた、生まれつきのエリート。むかつくことに顔も良ければ演技もそつなくこなす。
飛ぶ鳥を落とす勢いという表現がぴったりの人気若手俳優で、テレビでも雑誌の表紙でも街中でもよくその顔を見る。
染めなくても目立つ艶やかな黒髪はさっぱりと短く爽やかで、すらりとはしているけれど胸板はそれなりに厚く、これぞまさにアルファという甘いマスクと頼もしい体躯でたくさんの仕事と人気を持っている「持てる者」だ。
俺がアルファだったらこんな風になっていたかもしれないという夢を詰め込んだ上で成功している、正直こういうときに一番会いたくないタイプの男。
「綺麗な顔だったんで、近くで見たくて来ました」
なんて、その顔に言われてもとしか思わない安っぽい口説き文句。そんなことを言うタイプには見えない真神薫は、断られるとは思っていないのか、勝手に隣のスツールに腰を下ろした。
そしてバーテンダーに俺と同じものを注文するその一連の動作がまるでドラマのように決まっていて、絵になる感じも余裕な感じもすべてが腹立たしい。5歳差ではあるけれど、こうしていると真神薫の方が大人っぽく見えるのも余計イライラが募る。
そもそも、なんで自分がオメガであることを悔いているときにアルファの格好良さを見せつけられなきゃいけないんだ?
そりゃあもちろん俺だってそれなりに顔には自信あるし、スタイルだって崩れないように気を付けているけれど、全部生まれ持っているアルファに言われれば嫌味にしかならない。
「なにか用?」
普段は誰に対しても笑顔で対応しようと心がけているけれど、気分が腐っているからか思ったよりも酔っているからか、だいぶケンカを買う口調になっているのがわかる。よくないとは思っても、相手がアルファだと思うとどうしても気持ちがひりついてしまうんだ。
「一人でだいぶ飲んでたから、なにかあったんだろうなと思ったんで。話し相手にどうですか」
ナンパでもしているつもりだろうか。それとも暇つぶしなのか。男だろうが女だろうが好きなだけモテるだろうに、よりにもよって俺に声をかけるなんて変わった趣味をしている。
そしてよりにもよって今日アルファを引っ掛けるとか、俺の運もほとほと終わっている。
「俺オメガだから近づいたら事務所に怒られちゃうよ」
普段だったら決してこんなこと軽々しく口にしない。ベータとして暮らしている俺が本当はオメガだなんて、誰かに聞かれたら大変なことになるからだ。
だけどとにかく今日はもう回りくどく断るのが面倒で、そちらから離れてもらおうと笑いながらそれを告げた。
そもそも顔を知られていないから声をかけられたんだろうし、どうせこれからも売れっ子アルファと共演することなんてないんだしこの男に知られたって構いやしない。そして俺がオメガである限り、なにかあったら困るのは超有名人である君と事務所だよ、と。
さすがに突然の告白には驚いたのか、真神薫は目を丸めて俺を凝視する。その仕草は若干子供っぽい。
「え、でも首輪してないですよね」
「あんなのしてたら自分がそうだって宣伝するようなものでしょ」
「へぇえ、なんかオメガってイメージじゃないですね」
一般的なイメージとは違うからか、真神薫は無遠慮に俺を観察してくるから顔をしかめた。初対面の人間をじろじろ見つめて失礼だと思わないのか。
「それで、なんでそんな飲んでたんですか」
そんな俺をよそに、どうやら彼は会話を続けるらしい。困った人間を放っておけないという感じでもなく、興味があるという感じでもなく、けれど当然のように問いかけられる。まるでバーテンダーが仕事としてお客の悩みを聞くような雰囲気さえある。
演技上の彼は幾度も見たことがあるし、その佇まいからしてクールなんだろうという印象しかなかったけれど、思った以上に不思議な性格をしているらしい。
「やけ酒してんのは、オメガだから振られたとか、そういう感じですか」
「そうであるせいで仕事がうまくいかない感じ」
どうやらその場から退く気はないらしく、真神薫は遠慮なく踏み込んでくる。だから面倒になってストレートに返した。
アルファだったら。オメガじゃなかったら。
言っても無駄だけど、なにかあるたびそんな風に思ってしまう。来るだけ仕事を詰め込めて、アルファに囲まれる現場でも意識しないで思いきり演技して、ただひたすら仕事のことだけに悩めたら。
「知ってる? オメガって本当、獣みたいなんだよ。ヒートとなると見境なく発情して、フェロモンで強制的に周りを発情させて、それしか考えられなくて。抑制剤をしっかり飲んでいてさえ、やりたい仕事の邪魔をする。君みたいなアルファがどれだけ恵まれているか、日々感謝して生きてほしいよ」
思ったよりも酔っていたのは、すんなりと零れた愚痴で気づいた。普段から溜め込んでいるそれは、酒のせいで次々と溢れ出す。
数が少ないオメガの性質については理解を得るのは難しく、基本的に子供を産むための性でしかないと思われているのは知っている。
そして嫌なことに一部分は本当なんだ。ヒートの期間は、俺の感情を無視して体が暴走する。それで事故も起きた。嫌な思いもした。いや、し続けている。薬があればその衝動は抑えられるものの、副作用で具合が悪くなるのだから救われない。
その期間、俺はほとんど使い物にならない。その間は仕事を入れられない。理由を付けて断れば、それがまたマイナス評価になることを俺自身が一番よく知っている。
「……それを言ったら、アルファだって理性の利かないケダモノじゃないですか」
あんまりにも俺が自虐的だから気を遣っているつもりなのだろうか。肩をすくめる真神薫のそれは、残念ながらフォローになっていない。
「でもきっかけはオメガのフェロモンでしょ? オメガがいなきゃ、アルファはただの優れている人。そして真神くんは選ばれた人。それは事実だよ」
持つ者、奪う者。アルファは強者だ。だからたとえなにがあったとしても巻き込まれた側として扱われるし、責任は誘うフェロモンを抑えなかったオメガにあるとされる。そう、された。
俺だって持つ者に生まれたかった。まさか自分がオメガだなんて、無理やりわからされたあの時まで思ってもいなかったんだ。アルファとオメガの関係性を叩き込まれて、持っていたはずのものを全部なくしたときの気持ちなんてわかられてたまるか。
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