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第1話

 人は人にとって狼である。  闘技場に詰め寄った観客達は今か今かと闘士の出てくるのを待っていた。  古い城塞を利用して建てられた闘技場は堅牢な石造りで、すり鉢状の観客席は空席など見当たらない。  日の翳り始めた夕暮れ時、剣闘士を模した石像の掲げる松明には魔法の明かりが灯り、忍び寄る夜の気配など微塵も感じさせなかった。  夏も近付き空気が少しずつ熱を帯びる中、仕事終わりの農夫や職人、女子供までが観客席にぎゅうぎゅう詰めになって湧き立っている。  鐘が鳴らされ、北と南、それぞれ正反対の位置にある地下通路に通じる扉がゆっくりと開く。  一人の闘士が姿を現した。鮮血のような真紅の鎧は狼男が鎧を纏ったようで、抜き身の剣を持っている。兜の下には鋭い光が宿っていた。 「シナバー!」  人々は一際大きな声を上げて彼を歓迎した。  シナバーとは遙か東方の島の木から取れる、竜血と呼ばれる真っ赤な樹脂の色のことだ。彼は真紅の鎧の色からそう名乗っていた。  やや遅れて反対側の扉が開き、紺色の鎧をまとった大男が姿を現した。ヘラジカの角を模した大きな飾りが特徴的だった。ヘラジカの角を平らにして刺叉(さすまた)に刃をつけたような、変わった形の戦斧を軽々と手に持っている。 「ブル・マリーノ!」  またしても人々は名前を叫んで歓迎する。  ブル・マリーノとは海の青という意味だ。ここスヴェリアから南方の国より海を越えてやってきたことから、紺色の鎧を海の青に準えてそう名乗っていた。  観客が口々に彼らの名前を叫ぶ中、二人は中央にある円形のリングへと悠々と歩み寄る。  前座である生身の剣闘士達による戦いが終わり、いよいよ本日最大の催しが始まろうとしている。  先程までは戦いよりも娼婦の体を眺めることに熱心だった来賓席の男も、今はリングに目を向けていた。  これから始まるのは魔鎧(まがい)を身に纏う二人による戦いだ。  古の領主が腕利きの錬金術師を呼び、国を超えて資材をかき集め、百領だけ作らせたという魔鎧。  魔鎧は持ち主の力を高め、鎧についた傷は立ち所に直り、怪我すら癒す力があるという。  魔鎧を身につけた部隊は無敵を誇ったが、その力が自分に向くことを恐れた晩年の領主は魔鎧を持つ者を集めて処刑した。持ち主を失った魔鎧は散逸し、こうして世に出るものは極わずかだった。  ただでさえ希少な魔鎧を纏った者同士の戦いなど早々見られるものではない。それを求めて観客たちは闘技場に押し寄せていた。 「戦場に出るほうが誉れじゃないのかねえ」 「戦場に行っても男に持て囃されるだけじゃない」 「そりゃそうだ。君のような美人にちやほやされないと死んでしまうんだ、男ってやつは」  来賓席の男女は囁きあう。腰に手を回されながら男に言われ、その手を嗜めるように軽く叩いて娼婦は笑った。 「初めて見るんだ。赤いのと青いの、どっちが強い?」 「同じくらい。どっちかが勝っては負けての繰り返し。この前はシナバーのほうが勝ったわ」 「君はどっちに賭けた?」 「シナバーに」 「じゃあ俺は青いのに賭けよう。青いのが勝ったら、今晩も君と一緒にいたい」 「いいわ」  交渉が成立したことを喜ぶ抱擁を交わした瞬間、一際大きな鐘の音が響く。  その音を合図にリング上の二人は地を蹴った。  衝突するかのような勢いで最初の一撃を交える。  剣を使うシナバーより間合いの取れる戦斧を持つブル・マリーノのほうが優勢に思えた。しかしどこにそのような力があるのか、シナバーはリングを砕くほどの戦斧の重い一撃を受け止め、その隙を刺すように剣で急所を狙う。  戦うというより舞踏のような軽やかさでシナバーはブル・マリーノを翻弄する。剣を振るだけでなく足技を交えながら距離を詰めては、ブル・マリーノが戦斧で突き放すといったような攻防が続いていた。  焦らすような一進一退に、観客は各々の応援する闘士の名前を叫ぶ。 「シナバー!」 「ブル・マリーノ!」  上段から振りかぶったブル・マリーノの鎧ごと砕くような一撃を退いて避けたシナバーは、隙をついて頭部に蹴りを放つ。  その足が自分の頭に届く寸前、ブル・マリーノがその足を掴んだ。シナバーが反応するより速く、そのまま足を持ってシナバーを地面に叩きつけた。リングの岩が割れ、細かく砕けた石が隆起する。  背中から思い切り叩きつけられ、魔鎧の身でも相当な衝撃を受けたであろうシナバーはそれでも剣を手放さなかった。  ブル・マリーノの追撃とほぼ同時にシナバーは高く飛んでそれを避ける。そしてブル・マリーノの頭を飛び越えようというとき体を回転させて大きな角飾りに踵落としを叩き込んだ。  その一撃はブル・マリーノの頭を揺さぶり、首に大きな衝撃を走らせる。  様子を窺うように距離を置いたシナバーは今が好機と言わんばかりにブル・マリーノに突っ込んだ。  ほんのわずかな間動きを止めていたブル・マリーノは自分に向かってくる真紅を視界に捉え、戦斧を握る手に力を込める。  ブル・マリーノは迫り来る白刃を受け止めながらも、先程の一撃による損耗が残っているのか、その動きには精彩を欠いていた。  逆転を賭け、この一撃で終わらせると決意を込めたブル・マリーノの上段からの振り下ろしをシナバーはいなすと、大きく空いた首元に剣を突きつけた。  戦いの終わりを告げる鐘が鳴らされる。闘技場はシナバーを讃える声一色に染まった。  来賓席の男が娼婦のほうを見やると、彼女は誇らしげに笑っていた。  今日一番の催しが終わり、興奮冷めやらぬ観客達が思い思いに感想を言いながら闘技場を後にする。  その様子を見下ろすように、闘技場の隣には石造りの建物があった。かつて城塞だった頃に居住区となっていた場所である。  城の主は今や闘技場のオーナーに変わり、そこに暮らす者も貴族や騎士から闘士へと移り変わっていたが、そこに集う人々の賑わいは変わらなかった。  観客達の声や、日が沈み切る前に仕事を終わらせようと関係者は忙しなく働き、それらに紛れるように行われるものがあった。  建物の中、とある部屋で音を立ててベッドが軋む。  小さな窓から差す夕明りと蝋燭のわずかな明かりに照らされながら、ベッドの上で二人の男が絡み合っている。  髭の男と大柄な男だった。  口と顎の髭と同じ色をした焦げ茶の髪を後ろに撫で付けており、後れ毛が汗で額に張りついていた。自分を覆い隠すほど大柄な男の背に手を回し、正気に留まるように爪を立てる。銀色の耳飾りが動きに合わせてちらちらと光っていた。  大柄の男は薄茶のやや長い髪を後ろで括っており、背の痛みなど意に介さず、髭の男の体を貪ることに夢中だった。 「ん、うぅっ……」  体に突き立てられた陰茎が腸壁を擦り上げ、奥深くに届く度に髭の男が身を反らして押し殺した喘ぎ声を上げる。大柄の男はその様子を眺めて満足そうに青藍の目を細めた。  ふと、一瞬の間視線が交錯する。  髭の男は三白眼で、黄金色をした鋭い瞳には人を近寄らせない雰囲気があった。それが今では涙に濡れ、快楽以外の色を映していない。  目を下に向けると、細身の男の刺青が目に入った。左脇腹に入れられた大きな刺青は狼の頭部を文様にしたもので、呼吸に合わせて腹が動くと、まるで生きているかのように形を歪める。 「あぁっ! ぐ、う……っ」  一際奥を突いてやると堪えきれなかった喘ぎが漏れる。しかし、己の声が耳に入ったのかそれを恥じるようにより強く声を押し殺し、喘ぎを隠すように大柄の男の唇を求めた。  先程まで闘技場で観客の注目を一身に浴び、シナバーと呼ばれていた面影などそこにはなかった。 「ディヒトさん……っ」  大柄の男は彼の名を呼び、首筋に噛み付くように口づけする。それから唇に。舌を絡め取り、髭の男の口から吐息が漏れる。彼が首を振って逃げようとするのを両の手で押さえつけ、気の済むまで口内を犯し尽くす。そうしてまた深く奥を突くと、髭の男は体を震わせて達した。強く締め付けられ大柄の男も精を吐き出した。  朝になって目が覚め、大柄の男――クエルチアは枕元に置いたマスクを手に取ってつける。ここには自分以外一人しかいないとはいえ、マスクがないと落ち着かない。目元まで覆うマスクはクエルチアの大きな特徴となっていた。  クエルチアは横で寝ている彼を起こさぬようにそっと寝顔を見た。  彼はディヒトバイ・ウオルフ・ヴァン・デン・ボッシュといい、昨晩はリングの上でシナバーと呼ばれていた男だ。クエルチアはブル・マリーノと呼ばれていた。  その穏やかな寝顔は夜半まで乱れていたのが嘘のようで、髭が生えているのにどこか幼さすら窺わせる顔がおかしくてクエルチアは目を細めた。  自分たちはこうして体を重ねているが、恋人というわけではない。  初めて戦ったときに勢いで体を重ねてからというもの、リングの上で戦った後には自分がディヒトバイの部屋を訪ねて情事に耽り、互いに欲を散らすのが暗黙の了解になっていた。  クエルチアが恐る恐る髪を撫でてみるも彼は深い眠りに落ちたままで、本当に昨晩闘技場を湧かせた勇姿を忘れたようだ。魔鎧相手に立ち回り、その後に体力が尽きるまで互いを貪っているのでは、深い眠りも必要になろうが。  時折彼の負担になっていないかと不安に思うが、口にしたら最後、この繋がりさえ消えそうで口に出せないでいる。  何が起こるかわからないのが人生の常とは言うが、一年半前の自分に今の状況を聞かせて信じるだろうか。  彼と体を重ねることになっているなんて。  あの日、鮮烈に現れた赤狼(せきろう)と。  クエルチアは夢を見るような心地で彼との出会いを思い返した。  自分は、弱かった。  大人の男より頭一つほど大きい自分より体の大きい人間はいなかったし、力でも敵う人間はいなかった。それに加えて魔鎧という人並み外れた力まで手に入れた。  傭兵となってからも負け知らずで、自分の与した勢力はいつも勝利した。  生身の人間なら戦斧を一振りすれば片付いたし、多少の魔法なら魔鎧が弾く。傭兵として死と隣り合わせの戦場に身を置きながら、自分一人だけ対岸の火事を眺めるような気持ちだった。  そこに、あの赤狼が現れた。  赤い狼の姿の魔鎧を持った、腕の立つ傭兵がいる。その噂は耳にしていたが目にするのは初めてだった。  血と泥が混ざり合い、敵か味方かもわからない死体を踏みつけながら誰もが戦っていた。己を奮わせるために雄叫びを上げ、首を、腹を、腕を、足を切られては呆気なく死体となって地に転がり、また誰かの足蹴にされる。  どこの戦場でも変わらない風景の中、自分に敵う者などいないのだから向かってきても無駄だと思いながら戦斧を振るっていた。  その最中に訪れた一撃は雷のように。  背後の死角、宙からの落下の勢いに乗せた刺突。  今でもなぜあの一撃が避けられたのかわからない。あえて理由を挙げるならば、彼は暗殺者ではなく戦士であり、また肉食獣のような強者だった。そして自分は戦士ではなく、狼に怯える鹿のような弱者だった。  強い剥き出しの殺意はあまりにも鋭く、鎧越しに届くほどだった。  どこからともなく湧いた殺気に恐怖を覚えた自分は咄嗟に前に転がりでた。背後に何かが着地する。  そのほうに振り向くと、そこには赤狼が立っていた。  それは一瞬にも満たない対峙だったが、何よりも長い刹那だった。  幾重にも装甲を重ねた流線型を持つ赤い鎧。その赤は戦場に溢れるどの血より鮮烈で、その鎧についた返り血すら色褪せて見えるほどだった。  頭部の兜は狼を模した形をしていて、噂に聞く狼男が鎧を着たならばこのような姿になるのだと思った。  黄金色の瞳は爛々と輝き、今にも飛びかかられてその大きな口に食べられてしまうのではないか。  狼の口に並んだ牙は研いだばかりの剣が突き立つ地獄の入り口のようで、一度噛まれれば肉は千々に千切れ、骨まで砕かれる。頬肉が食われた穴から覗く歯、噛みちぎられてもげた鼻、頭蓋の中に残った犬歯に貫かれて濁った目玉が、こちらを見ている。  剣そのもののような鋭い殺気に幻影を見る。それは後れを取ればこうなるのだという未来だった。  逃げなければ、食われる。  恐怖に駆られた体は踵を浮かせて後退る準備を始める。動き出した体に思考が追いつき、それでは駄目だと人の理性がひとりでに動く体を止める。  一歩でも退けば心が死ぬ。そのような者を捕食者は逃さない。死ぬまで追いかけ回されるだけだ。  生き残るためには、立ち向かわなければ。 「勘がいい」  狼は言葉を発した。あれは狼ではない、人だ。二本の足で立ち、手に剣を持つ人間だ。  雄叫びを上げ、己を奮い立たせて前に踏み出し、上段に構えた戦斧を振り下ろす。その攻撃を赤狼は容易く受け流した。  戦斧と剣では間合いに違いがあるはずなのに、その差を越えて赤狼の剣は自分に届いた。鎧の隙間を正確無比に狙う剣をやっとのことで弾いても、次から次へと襲いかかってくる。水に溺れながら息継ぎをするように、恐怖に塗れた心が一瞬だけ正気を取り戻しては致命傷に繋がる一撃を耐え続けた。  いつになればこの戦いから解放されるのか。  心臓はどくどくと脈打ち今にも弾け飛びそうだし、激しい衝撃を伴う打ち合いで手は痺れ、何度も戦斧を取り落としそうになる。体は重く、沈んだ鉄のようだ。  数えきれないほど打ち合ったはずなのに戦斧は一度も赤狼を捉えることはなく、子供の遊びに付き合う大人のように容易くかわされるだけだった。  赤狼との出会いも雷のように突然ならば、別れもまた、雷のようにすぐに訪れた。  瞬間、赤狼が何かに気を取られたように虚空を見つめたかと思いきや、後方に大きく飛び退いた。  それが何だったのかを理解するより早く、角笛が辺りに響き渡る。突然距離を開けた赤狼を警戒しながら周囲を窺えば、本陣に黒い煙が立ち上っていた。  本陣が奇襲された。そして赤狼、彼の与する勢力の意図を察する。魔鎧に魔鎧をぶつけて足止めし、別働隊が奇襲するまでの時間を稼いでいたのだ。  本陣に戻るべきか迷う一瞬の隙に赤狼は姿を消していた。  自分は、弱かった。  事ここに至って理解した。自分は力があるだけで、強くなどなかったということを。  あの赤狼のように強くなりたい。もう一度赤狼と剣を交えてみたい。そう願いながら赤狼を追った。  時間を見つけては鍛錬に励み、赤狼の剣を思いながら戦斧を振るった。  はやる気持ちとは裏腹に赤狼の手がかりは見つからなかった。赤狼は自分と対峙した戦以来、戦場から姿を消していた。  どこかで傭兵を集めると聞けば馳せ参じ赤狼を探したものの、その足取りは杳(よう)として知れなかった。  そのまま一年が過ぎ、考えたくはないがどこかの戦場で命を落としたのではという念が湧き上がる頃にある噂を聞いた。国の南にできた闘技場に、赤い狼の鎧を着た闘士がいると。  なぜ闘士にと思ったが、いち早く所在を確かめたくて闘技場へ向かった。そしてその姿を目にした。  鮮烈な赤を身にまとい、狼のように鋭利な殺気を放つ立ち姿。  リングの上、自分の背より大きい魔物相手に臆することなく向かい、高い跳躍から一閃で魔物を葬る姿は戦場と変わらぬものだった。  その場で闘士に志願して裏方に入れてもらい、魔鎧持ちだと告げると話はすぐにオーナーまで伝わった。  客間に通され緊張しながら待っていると、オーナーと共に彼は現れた。  撫でつけた焦げ茶の髪、同じ色をした口と顎の髭。黄金色をした鋭い三白眼。臙脂の質素な上衣に革のズボン、膝丈のブーツ。腰には真紅の鞘の剣。  兜の下にはどんな顔があるのだろうと何度も想像をしたが、そのどれよりもらしい姿になぜか安堵したのを覚えている。  ただ一つ違うとすれば、あまりにも生気のない雰囲気を纏っていることだった。生きることを諦めたような、全てのものに興味のないような瞳。彼があのように強い殺気を放っていたことが信じられず、それだけが気がかりだった。 「ディヒトバイ・ウオルフ・ヴァン・デン・ボッシュ」  オーナーの名に続いて、ぼそりと言われたそれが彼の名前だと気付くのに時間がかかった。耳慣れない響きを反芻していると、オーナーが話を始めた。  オーナーは魔鎧同士の戦いに乗り気で、魔物の扱いも少なくなるから歓迎だという。 「ところでこう言うのも何だけど、君は強いの?」  オーナーに聞かれて口ごもる。魔鎧を持っているからというだけで足腰立たぬ者をリングに上げては興行主の信頼に関わる。どのくらいの実力か知っておきたいのは当然だろう。  何と言ったものか戸惑っていると、ディヒトバイが口を開いた。 「こいつなら平気だろう」 「そう? 君が言うのなら、そうなんだね」  オーナーはディヒトバイに信頼を置いているのか、それ以上の追求はしなかった。  通り名が必要だというので、色々話した末にブル・マリーノと名乗ることになった。故郷の言葉で海の青という意味である。異国風の名前は受けがいいのだそうだ。顔を覆うマスクについてもどうせ鎧で隠れるのだからと、さして気にされなかったのはありがたかった。  待ちに待った当日。鍛錬の結果を出し切るべく、いつにもなく張り切っていた。こんなに前向きな気持ちで魔鎧を纏ったのは初めてだった。  裏方の通路にいても観客達のざわめきが聞こえてくる。左右に慌ただしく行き交う人々は見慣れない鎧をちらちらと見ていた。注目されることが得意ではないため、この時点で部屋に逃げ帰りたい気持ちでいっぱいだった。  現場を取り仕切る主任から諸注意の説明を受けた後、隣に立つディヒトバイに目をやる。自分からすれば頭半分ほど背が低いが、一般的には十分背の高いほうだ。 「新入り」  突然話しかけられて戸惑ったが、それに構わず彼は言葉を続けた。 「ここは戦場じゃねえし、俺達は殺し合うんじゃねえ。見世物なんだってことを忘れんなよ」  射抜くような瞳で見つめられていることに気を取られ、その言葉はどれほど届いたか。はっきり言えば全然届いていなかったことを後に思い知ることになる。  それだけ言うと自分の入場する入り口に向かって歩き出し、自分も促されたために別の入り口へと向かった。  両開きの扉が開けられ足を踏み出すと、別の世界に迷い込んだようだった。耳をつんざくほどの歓声を浴びせられ、音がびりびりとした振動となって体に伝わる。顔が判別できないほどに小さく見える観客の全てが自分に注目していた。  緊張でいよいよ足の感覚もわからなくなり、紙一枚を踏んで歩くような心地の中で石段を登る。  リングに上った瞬間に強い殺気を浴びせられ、頭から水を被ったように浮足立った気持ちの全てが吹き飛んだ。  対峙する赤狼を前にして不思議と気持ちは落ち着いた。  一年前の戦場を思い返す。血に塗れた戦場の中にあった一際鮮やかな赤を。  彼からすれば幾多の戦場の中の取るに足らない邂逅だったかもしれないが、自分にとってはそうではない。こんなに相手を打ち倒したいと思ったことは生まれて初めてだった。  この時を一年待ったのだ。努力に努力を重ねた一年間の成果を出しきって、少しは成長したと赤狼に認めさせてやるのだ。  開始を告げる鐘が鳴る。  狼が、跳ぶ――。  一撃必殺の威力を持った振り下ろしを戦斧の柄で受け止め、弾く。一年前は避けることしかできなかった。  次はこちらの番だ。赤狼の後を追いかけ戦斧で薙ぎ払う。赤狼は軽くいなすと戦斧を蹴り飛ばした。戦斧に加えられた衝撃によろめくと、赤狼はその隙を突いて刺突を繰り出す。  今ならわかる。その刺突は正確すぎるが故にどこを狙うか容易く想像がつくのだ。腕の装甲で弾くと戦斧を引き戻して牽制する。両者共に後方に跳んで距離を開け、今度は自分が先手を取るべく駆け出した。  戦斧の間合いの優位を保てば勝てるはずだ。打ち合ったところ、力もこちらのほうが強い。  足元を払いにいく戦斧を逆に払われ上段を取られそうになるのを、戦斧を支えに地から両足を離して蹴り、回転する勢いで下から振り上げる。戦斧が体を掠めただけで赤狼の体は吹き飛んだ。  その後も互いに隙を刺し合うような攻防が続き、何回か剣を浴びたが、こちらも同じように赤狼に戦斧を届かせた。  これなら、勝てる。  大雨のように響く歓声に勇気づけられるように戦斧を振るい、ついに赤狼の大きな隙を捉えて戦斧を叩き込む。  地に倒れた赤狼の首元に戦斧を突きつけると、一瞬の間を開けて歓声は更に大きくなった。  思ったよりも呆気ない手応え。  初めて味わった勝利は疑問の味をしていた。  リングを辞し場内に戻るとオーナーが飛んできて、よく盛り上がったと喜びを伝えに来た。  期待された分の働きをした新顔に気をよくした現場の主任や下働きの者に囲まれ、もみくちゃにされながらディヒトバイの後を追い、彼の自室に辿り着いた。  彼を問いただすためだ。あの赤狼がこの程度で負けるものか。わざと負けたのではないかと。  ノックをし、返事も聞かずに部屋に入る。  ベッドに机と椅子が一揃い、質素な箪笥と絨毯、壁の時計、木製の扉が嵌まった小さな窓が一つ。今は窓が開いている。飾り気のない部屋だった。  汗で濡れた服を変えている途中で、上半身が露わになった姿を見た瞬間に理性が吹き飛んだ。  後ろに撫でつけた髪と肌はじっとりと汗に濡れ、程よく筋肉のついた引き締まった体が蝋燭の明かりをてらてらと反射している。左の脇腹には大きな狼の刺青があり、刺青など入れるようには思えなかったから意外だった。  突然の来訪者を見つめる鋭い黄金色の目。  わざと負けたのかと追求する気持ちも吹き飛び、気がついたら彼をベッドに押し倒していた。  マスクを取り、少し乾いた唇を求めて口づけをすると、彼は自分がどういう目で見られているか察した。それから、人形のように感情のない目をしてこう言った。 「俺を抱きたいってのか」  問いに答えるように再度の口づけをし、いきり立ったものを押し付ける。ディヒトバイは抵抗しなかった。そして一言。 「好きにしろ」  自分に意志がないような、諦めたような口ぶり。  違う。この人はもっと根本のところから全てを諦めている。彼に対して何かできることはないかと、らしくないことを思ってしまった。  どこで生まれたのか。どこで育ったのか。なぜ傭兵になって、なぜ魔鎧を持ちながら闘士をしているのか。  なぜ今を生きているのに、その全てが目に入っていないような瞳をしているのか。  あのように真っ直ぐな剣を振るう人が、どうして。  この人には何かに抗うだけの強さがあるはずだ。それなのに、なぜ。  なぜ自分は、この人に惹かれているのだろう。  口内を犯し、しなやかな体に口づけを降らせ、汗を舐め取るように舌を這わせる。腹の刺青に手を触れるとびくりと体が震えた気がした。  固くなった胸の突起を指の腹で押しつぶすようにすると声を上げ、自分だけがこんな姿を見ているのかと思うと征服欲が刺激された。  下履きを脱がせてゆるく立ち上がった陰茎に手を触れるとわずかに声が漏れる。先走りに濡れたそれをくちゅくちゅと音を立てるように扱く。恥ずかしいのか顔を背けるのを、もう片方の手で顔を寄せて口づけした。 「んっ、ふ、うぅ……っ」  逃げる腰を捕まえて強く先端を刺激すると彼は達してどくどくと精を吐き出した。  口づけから解放して荒く息をする彼の足を割り開き、下衣を脱いで自分の欲望を露わにする。 「おい、待て……っ、ああぁっ!」  先走りに濡れて大きく怒張したそれを後孔にあてがい、強引にねじ込んだ。体内は熱く、絞り上げるように肉壁はぎゅうと締めつけ、思わず吐精する。 「いきなり……っ、ん、入れん、な……っ!」  抗議の声も、自分には意味を持った言葉として届くことはなかった。未だ熱を持つ陰茎は、ぎちぎちと音を立てそうなほどにきつい体内を肉をかき分けるようにして根本まで入り込んだ。  彼が苦痛に顔を歪めながら声を押し殺す姿に、興奮が抑えきれなかった。  接合部から血が流れているのも気にせずに抽送を始めると呻くような声がする。 「あ、ああ……っ! ん……っ!」  最奥を突くと甘い声が上がった。角度を変えて何度も突くと、それに合わせて声が漏れる。  何物にも興味のないような顔をしながら、こうして陰茎を体内に飲み込んでは喘ぎ声を上げるのか。自分の中で劣情が膨れ上がるのを感じながら、ひたすらに腰を打ち付ける。大きく引き抜いてから強く奥を穿って、再び精を吐き出す。  まだ、足りない。  陰茎は未だ硬さを保ち、更なる刺激を求めている。欲望が満たされるまで彼の体をを貪り尽くした。  交わりは夜半まで続いた。部屋に来たときには窓から夕暮れの名残が覗いていたが、陽はとっくに落ち夜になって久しいようだ。  陰茎を引き抜くと、長い間陰茎を受け入れていた後孔はだらしなく口を開け、何度となく中に吐き出された精がごぼりと溢れた。 「……けだもの」  ぐったりとベッドに体を預けながら機嫌が悪そうにディヒトバイは口を開いた。撫でつけていた髪がくしゃくしゃになって額に降りると、えらく幼く見える気がする。 「次は慣らせよ。次があるならな」  子供に言い含めるようにゆっくりと言われた言葉に、自分は首を傾げることしかできなかった。 「慣らす……?」  言い終えるより先に顔面に蹴りが飛んできた。 「男同士は男同士でやることがあんだよ。わからねえなら娼館にでも行って聞け」  そのままがしがしと蹴り続けてクエルチアをベッドから追い出すと、二人で脱ぎ散らかした服も邪魔だとベッドから放る。  クエルチアは間男のように慌てて身を整えると、どうするべきかわからずに立ち尽くす。何か言うべきかと思ったが、無理矢理抱いていながら何か言うのも変な話だと迷っていると、今度はブーツが飛んできた。 「それとだ、新入り」  話しかけられ、まだここにいていいのかと少し安堵して言葉の続きを待つ。 「言っただろ、ここじゃ俺達は見世物をしてんだ。だらだら戦って客の興を削ぐなんて真似は許されねえんだよ」 「じゃ、じゃあ、長引きそうなんでわざと負けたってことですか」 「そういうことだ」  やはり彼はわざと大きな隙を作り、そこを突かせて負けたのだ。 「文句があるなら次は速攻で来い」 「は、はい」  自分なりに速攻を仕掛けたつもりだったとは言えず、これ以上どうすればいいのかと思いながら引き下がった。  すっかり暗くなった部屋の中、足元を確かめながらドアにたどり着く。 「……前に会ったのは一年前だったか。腕を上げたな」 「お、覚えててくれてたんですか!」  ディヒトバイの言葉に慌てて振り返った。ベッドの上に横たわる彼が邪魔そうに髪をかき上げるところだった。 「そんなでけえ図体の魔鎧持ちを、どうやって忘れろってんだ」  言われてみればその通りであった。こんなに大きな体の魔鎧持ちなど自分の他に他に見たことがない。 「俺、ディヒトさんに会いたかったんです! 一年間ずっと探してたんです、成長したところを見せたくて。その、初めて会ったときは、すごい、情けないところを見せてしまったから……」  しどろもどろになりながら言うと、ディヒトバイは想定外といったようにぽかんとした顔を見せた。その顔を他人に見せるべきではないと思ったのか、すぐにその表情は消えてしまった。 「……変わった奴だ」  独り言のように彼はぼそりと呟いた。それから顔を上げて自分に言う。 「次があるなら相手をしてやる。次があるなら、な」  戦いのこととも情事のことともとれる言葉をかけ、これで終いだと言うように体の向きを変えて毛布に潜った。  思えば赤狼の姿を追うことに夢中で、次など考えていなかった。  次があるなら。  なんと甘い響きだろう。  そう思いながら夢見心地で部屋に帰ったのを今でもはっきりと覚えている。  彼に覚えてもらっていたことも嬉しかったし、腕を上げたと言ってもらえるなど嘘のようだった。  しかし欲は留まることを知らず、今の自分の願いはといえば、彼との距離を縮めることだった。  戦いの後、互いの欲を散らすだけの繋がりではない。彼についてもっと色々なことを知りたいし、分かち合いたい。  勇気があればいいと何度願ったかわからない。想いを口にしようとする度に、ためらいが口を閉ざした。  彼はといえば、そんな自分の思いなど知らぬというように隣で寝息を立てている。  ディヒトバイを見て生まれて始めて男を抱きたいと思ったし、距離を縮めたいと願った。  この関係を変えるべく行動を起こせば、今までの関係もなかったことになってしまうのではないか。それが怖くて踏み出せないまま、今日も体を繋ぐだけだった。  それが悔しいやら、情けないやら。  順序を間違えてしまったのだ。最初に考えなしに体を重ねてしまったおかげで、それ以降に重ねるものが上手くいかない。  窓の外も徐々に明るくなり、人の起きる時間が近づいてきた。  自分達の関係は秘密にしている。闘技場の稼ぎ頭が二人、戦う度に体を重ねているなどと知れたら真顔でここにはいられない。 「朝ですよ、ディヒトさん」  揺らさぬように気を払いながらベッドから降り身を整え、後ろ髪惹かれる思いで彼の部屋を後にした。  森の中に剣戟の音が響く。  湖のほとり、少し広めの開けた場所で狼とヘラジカの鎧を纏った二人は剣を交えていた。  襲いかかる剣を戦斧で払い、返す手で胴を薙ぐ。すぐに反応したディヒトバイは戦斧を弾くと、唯一露出しているクエルチアの目元に向かって突きを放つ。真っ直ぐに向かってくる剣をクエルチアは角で絡め取った。  兜についたヘラジカの大きな角は飾りではない。上手く使えば武器にもなる。一瞬の慢心、それが事実慢心であったことにクエルチアが気がついたのは、剣を掴む力がやけに弱かったからだった。  角に取られた剣は呆気なくディヒトバイの手を離れ、予想以上の軽い手応えに大振りになったクエルチアの横っ面に、ディヒトバイは体を独楽のように回転させながら二発の蹴りを叩き込む。 「っ……!」  頭蓋を揺さぶられ体が脳の制御を離れる。足払いに気付いた頃にはもう遅く、クエルチアは地面に倒れこむ。駄目押しのように顔のすぐ脇に先程払った剣が突き刺さり、降参だと両手を上げた。  まだまだ学ぶべきことがある。自分の失敗を反省するようにクエルチアは目を閉じる。  自分には経験と技量が足りないと、クエルチアは常々思っていた。ディヒトバイの持つ長い経験からもたらされる技量、剣を囮に使ったり手数の不足を足技で補ったりする発想力、それを実行に移す大胆さを見習おうと思っても、一朝一夕で追いつけるようなものではない。踏んできた場数が違うのだ。それを補えるとしたら、今のようにがむしゃらに手合わせを重ねるしかなかった。  ディヒトバイは倒れたクエルチアに手を差し出す。一瞬迷ってからクエルチアは手を取った。 「飯にするか」 「はい」  ディヒトバイの提案に、クエルチアは頷いた。  闘技場で目玉のカード扱いされている二人は毎日リングに上がるわけではなかった。週に一度戦う以外は自由に行動が許され、三日程度なら街の外に出てもいい。  だからといって別段やることもなく、手が空いたときは人手の必要な雑役を手伝うか、こうして二人で遠乗りに出かけるのである。最初に誘われたときは何事かと思ったが、要するに体の慣らしに付き合えということだった。  地に突き刺さった剣を抜き、歩きながらディヒトバイは真紅の鎧を解く。全身が赤い光に包まれたかと思うと、その光は剣に集まって鞘となった。  鎧の下から現れたディヒトバイの姿は薄手の臙脂の上衣に、黒革のズボンと膝丈のブーツ、それを覆い隠すような丈の長い黒のコートを身に着けていた。  ディヒトバイは横倒しになった木に腰掛ける。隣を示され、自分がぼうっと突っ立っていたことを思い出しクエルチアも鎧を解く。戦斧と紺色の鎧が青い光に包まれると、瑠璃色の石がついた腕輪になった。その下は騎兵の着るような丈の長い黒のジャケットと揃いの布のズボン、革のブーツという出で立ちだ。目元まで覆うような黒のマスクが目立つ。  つかず離れずの距離をとってクエルチアはディヒトバイの横に座る。 「ほら」  ディヒトバイから手渡された紙包みを受け取るときに軽く指が触れた。それだけでクエルチアは顔が熱くなる。戦う度に体を重ねているというのに、こういう触れ合いにはまったく慣れなかった。  クエルチアの心情は幸いにしてマスクで隠され表に出ることはなかった。表情を隠すためにマスクをしているわけではないが、顔色を読まれないのは十分に益のあることだった。こんなことでいちいち心を乱していると知られたら、触れあうことすら避けられそうだ。  戦っているときはいいのだ。隙があれば殺されそうなほどのやり取りの中でそんなことを考えている余裕はない。しかし、一度戦いから外れてこと日常に至るとてんで駄目なのである。何をしていてもその姿を目で追ってしまうし、今も横に座るだけで緊張してしまう。  彼の後ろに撫でつけた焦げ茶の髪、たまに額にかかる後れ毛を整える仕草が好きだ。節くれ立ち、筋の浮き出た手で紙包みを開ける手つきがいいとか、サンドイッチにかぶりついて物を咀嚼し、飲み下す度に動く喉元に色気を感じるとか、口髭についたソースを指で拭って、それを舐め取る仕草など――。 「食わねえのか」 「え、あっ、はい!」  黄金色の目に見つめられ、クエルチアは紙包みすら開けていなかったことに気付く。マスクを取り、雑念を振り払うようにクエルチアは食べることに集中した。  豚肉とソースを絡めた根菜を挟んだサンドイッチは、作ってから時間が経っても味を落とすことはなかった。  人と金が集まるからなのか、闘技場で出されるものはどれも美味だった。  小さい頃は生きることで精一杯でいつも腹を空かしていて、人一倍大きな体に見合うだけの食事などなかなか得られなかった。歳を重ねて一人前となってからも腐りかけたものを口にすることなど日常茶飯事で、まともな食事をとれるようになったのは傭兵になってからだ。魔鎧を手に入れてからは腹いっぱい食べられるようになった。好きな人の隣で食事をするのが嬉しいと知ったのは、つい最近だ。 「……おいしい」 「美味いよな」  口からこぼれた言葉に答えが返ってくるとは思わず、むせそうになるのをなんとか堪えた。  普段から口数少なく、他人との付き合いも最低限のディヒトバイにまさか自分が思ったことに同意されるとは意外すぎて、それだけで頭がいっぱいになってしまう。サンドイッチの味は途中からわからなくなった。  彼にとってはほんの戯れなのだろうが、その戯れがどれほどクエルチアの心を乱すか。それが知れたら話しかけることもなくなるだろう。  サンドイッチを食べ終わり口元を拭ってマスクをつける。食べるために仕方がないとはいえ、できることなら外したくはない。ディヒトバイと交わるときも外すが、それは暗い部屋の中だからだ。 「それ、いつも着けてるな」  今日のディヒトバイは口数が多かった。それでも二言だけのことではあるが。  予想外の問いにクエルチアは言葉を失くす。いくら大好きな人であろうとこれだけは触れてほしくなかった。 「顔に傷があるんです。あまり見られたくない」  言いながら左の頬に触れ、マスクの下にある傷跡をなぞった。ほとんど消えかかっているが、ほんのわずかでもこの傷は意識したくないものだった。 「そうか。悪い、変なこと聞いたな」  少しの間を開けて出した答えに、ディヒトバイも少しの間を開けて答えた。  その後は言葉もなく、ただ風景を眺めていた。湖に鳥や鹿が水を飲みに来たり、魚が跳ねたりするのをぼうと見ていた。  言葉を交わすこともなくただ隣にいるだけだが、こうしてディヒトバイと二人で過ごす時間はまるで逢瀬のようで、気恥ずかしいが心地よい時間だった。 「続きをやろう。できるか」 「はい」  言ってディヒトバイが立ち上がるとクエルチアも続いて立ち上がった。  共に鎧を纏い距離を取り、得物を構えて対峙する。  ――これだ。  狼の姿をした鎧越しに伝わる気迫。それこそ狩りをする狼のように、追い詰めたものは逃さないという意志の剣(きば)を突き立てられるように感じる。何度対峙しても慣れることはない。  狼の黄金色の瞳で見つめられてしまったが最後、獲物は千々に引きちぎられるほかないのだ。  自分の場合、それが体ではなく心だったのだろう。  夕焼けに照らされながら二人は闘技場へ帰ってきた。  闘技場を囲うように設けられた外壁の大きな門を潜ると、闘技場の裏手の荷下ろし場に出る。  一日の終りに追われ人がごった返している脇を馬を降りて進み、馬小屋に向かい馬を返す。炊事場にいる女中に昼食の礼を言って自室に向かった。  城塞を改築したこの建物は三つの棟に分かれていて、大きな東棟は闘技場に関わる人が集う仕事場、南棟は闘士や関係者の宿舎、西棟は闘技場のオーナーと来訪客、クエルチアとディヒトバイが寝泊まりする場所になっていた。  同じ闘士であるのだから部屋は南棟でいいと言ったのだが、稼ぎ頭にはいい思いをさせなきゃとオーナーに言われて西棟で暮らしている。確かに、死ぬような思いで特訓をして、自分目当てに客が来るようになっても雑魚寝ではやっていられないだろう。名を上げればいい暮らしができる、それを原動力に闘士たちは今日も鍛錬に励んでいる。  来客を招くことがあるからか西棟の入り口には常に衛士が控えている。二人は自分より体の小さい衛士に会釈し西棟の中に入る。  西棟の一階と二階はホールになっていて、居住区は三階から上になる。ぐるりと孤を描いて伸びる階段を登り、広間を通り自室に向かう。 「お疲れさん」  ディヒトバイがクエルチアに声をかけ部屋に入る。それを見送ってからクエルチアも自室に入った。  水筒しか入っていない鞄を机に放りベッドに倒れ込むと、派手な音を立てて軋んだ。  リングで戦うときは緊張し死地に晒され精神が昂ぶり、その流れのままディヒトバイと夜を共にするから意外と疲れは感じない。  しかし今日のように遠乗りして一日中剣を交えるとなると、帰ってくるのがやっとというほどに疲れがたまる。馬に揺られながら何度睡魔に襲われたかわからない。  ここから起き上がって、南棟の風呂に行って、食堂で夕飯を食べ――。  やることはまだまだあるものの、眠気で勝手に閉じる目蓋には逆らえずに意識が溶けた。  今日も手伝う仕事がなかったので、二人は手合わせに出かけた。  勝っては負けてを繰り返し、今日もディヒトバイの仕草に心を乱されながら昼食を食べ、午後も同じように勝っては負けた。  陽が西に傾き始めた頃合いを見て切り上げ、木に繋いでいた馬に乗って帰路につく。  この馬とも随分長くなったと、クエルチアは馬の背を見ながら思う。  ティストと名付けられた彼は明るい鹿毛で、たてがみと尻尾、足の先が少し黒く、体が大きく足が太い。早駆けは得意ではないが力がある。初めて遠乗りに出た際ディヒトバイに、そんなでかい図体が乗るんだ、馬もでかくないと駄目だと選んでもらった。  半年間も乗っていると日常に欠かせないもののように思え、今度時間が空いたらブラシでもかけてやろうかとクエルチアは考えた。  先を行くディヒトバイの馬は黒黒とした青毛で、馬鹿げた想像だが、もし彼が狼だったなら、このような毛並みなのだろうか。 「おい」 「はい!」  自分の奇天烈な考えを見透かされたようで、誤魔化すように大きな声で返事をする。先に行くディヒトバイは馬の足を止め、周囲の様子を窺うように辺りを見回す。 「何だ、この臭いは」 「臭い……?」  ディヒトバイの言葉にクエルチアが辺りの臭いを嗅ぐと、風に乗って微かに肉の腐ったような臭いがした。 「こっちですか?」  クエルチアが臭いのするほうを向くと、ディヒトバイも同意見だったようでそちらに馬を向ける。  異変を見逃さぬようにゆっくりと馬を進めていると何かに気付いたのか、先を行くディヒトバイが突然馬を走らせた。その後をクエルチアも追う。  しばらくすると開けた場所に出る。そこにはブーツを履いた足が転がっていた。  腐った足と言わず、ばらばらになって腐り始めた四肢があちこちに転がり、胴体と繋がっている首は一つとしてなかった。  牙で刻まれた亡骸には蛆が群がって蠢き、蝿が集ってうるさい羽音を響かせている。強い腐敗臭は目を開けているのもつらいほどだった。  人間を殺すにしてはやりすぎだ。魔物にでも襲われたのだろうか。南のほうでは魔物が増えていると聞く。北でも魔物が増え始めたのかもしれない。  荷馬車は横倒しになり、前側の車軸が折れて車輪が一つ外れ地に転がっている。  二人は馬を降り、期待はしないが生存者を探した。その成果もむなしく、人の亡骸が見るも無惨な状態になっていることを確認しただけだった。 「何かありましたか」  地面を見てぼうと立つディヒトバイに声をかけると、クエルチアはその視線の先にあるものに気付いて言葉を無くした。  子供の亡骸だった。  頭はなく、小さな手に、ところどころ汚れてほつれたぶかぶかの服。それしか読み取れるものはなく、男か女かさえわからないが、その小さな亡骸は確かに子供のものだった。 「ディヒトさん、行きましょう。皆死んでる」  彼はクエルチアが声をかけても動かず、思い詰めた顔で子供の亡骸を見つめている。 「ディヒトさん」  クエルチアが強めに言って肩に手をかけると、やっとディヒトバイは反応した。 「……悪い。行こう」  未練を断ち切るようにディヒトバイは言い、馬に向かって歩き出した。その背がいつもより頼りなく思えてクエルチアは不安になった。 「明日、手の空いてる人を連れてきて、埋めましょう。俺達にできることはそれだけです」 「……そう、だな」  この場から早くディヒトバイを連れて逃がしたくて、わざと冷たく言った。このまま放っておくと、彼がいつまでも子供の亡骸を見ているのではないかと思ったからだ。  そこに立ち尽くして、食事も睡眠もとらずにそのまま死んでしまうような、そんな悪い想像をかき消すようにクエルチアは馬まで歩いた。  クエルチアを待たせてはいけないと思ったのかディヒトバイもすぐについてきた。それに安堵して馬に乗る。  彼の目印となるように視界に入っていたくて、今日はクエルチアが先に進んだ。  街に帰ってからもディヒトバイはずっと無言で、馬小屋から足早に部屋に向かうのをクエルチアは見送った。

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