2 / 5

第2話

 やたらと装飾に金を使いたがることといい、古代の都市の公衆浴場を模した大浴場を作らせたことといい、この闘技場のオーナーであるキースチァ・オキャロルは派手好きだ。その派手好きのおかげで足を伸ばしてもまだまだ余裕のある広い風呂に入れるのだから、文句を言う気にもなれないが。  クエルチアは南棟にある大浴場から城壁の上の通路を通って西棟に向かう。この道は狭いが西棟までの近道だった。ここを通らずに西棟に向かうとなると倍以上の時間がかかる。  今は夏も近く暖かいから風が心地よいなどとも思えるが、冬の雪の日などはこの帰り道が寒くてたまらない。自分がここに来たのは冬だから毎日がそうだった。距離と時間を取るか、暖かさを取るか、いつも悩みながら足早にここを通り抜けたことが懐かしい。  西棟にも風呂はあるのだが、皆が大浴場に行くためか使われていることを見たことがない。大浴場の主な使用者となる闘士やその他の関係者が南棟に住むのだから南棟に大浴場があるのは効率的だが、生活に欠かせない風呂に不便を感じるのはどうにもよくない、などとクエルチアは考えていた。だからといって自分一人のために西棟の風呂を沸かせ、などと言うつもりもないのだが。  西棟に入ると空気が流れることがなくなったからか、微かに腐臭が鼻をつく。風呂場で念入りに洗ったのだが、鼻に染みついてしまったようだ。もうしばらくはこの匂いと付き合わなければならないだろう。  明日にはとれるといいと思いながらホールの階段を上がり、広間を過ぎて自室に戻る。  ベッドに横になるがまだ八時だ。寝るには早すぎる。  夜も暗くなればやることもない。誰かと酒を酌み交わして語らうこともなければ、特にこれといった趣味があるわけでもない。食事も風呂に入る前に済ませてしまった。  あんな惨状を見れば常人ならば食欲も失せるところなのだろうが、戦場で似たような景色はよく目にするので慣れてしまった。  慣れないものがあったといえば、子供の亡骸だ。戦場に子供はいない。  彼らは荷馬車と共にどこかに行く途中で魔物に襲われたのだろう。  過ぎゆく日常の中の一日であったはずが、彼らはあの日突然に終わってしまった。亡骸すらも地に野晒しのまま、醜く腐っていくだけのものになってしまった。  不意にノックの音がして、クエルチアは思考を現実に引き戻す。  返事をしながらベッドから降りてドアを開ける。そこに立っていたのはディヒトバイだった。髪が濡れていて、彼も帰ってきて早々に風呂に入ったのだろう。 「酒でも飲まねえか」  言いながら彼は持ってきた酒瓶を掲げた。  度の強いと言われる酒だ。もう片方の手にはつまみの乗った皿もある。  今まで酒は苦手だったからそういう場から逃げていたが、ディヒトバイがこうして部屋を訪ねてくるのは初めてのことだった。この機会をふいにしたくない。少しの逡巡の後にクエルチアは頷いた。 「いいですよ、飲みましょう」 「すまねえな」  ディヒトバイは一言言うと軽く頭を下げて部屋に入った。  机に置いたままになっていた鞄をベッドに退けると、そこにディヒトバイが酒瓶とつまみの乗った皿を置く。  小さく切ったパンの上に調味料に漬けた鮭の切り身が乗っていて、フォークを使わないでも食べられるものだった。 「ほら」  酒をコップに注がれて渡されると、何でもないがコップの縁を合わせた。双方が遠慮しているかのように、こつん、と静かな音を立てた。  ディヒトバイはぐっとコップの中身を一息に飲んだ。それを見習ってクエルチアもマスクを取って酒を一口飲むと独特の苦みが広がり、無理に飲み下すと喉元が熱くなった。元々酒を飲まない自分には味の判別しようもない。それを和らげるようにつまみを口にすると、普通に口にするよりおいしく感じた。  クエルチアも元から話すほうではないのだが、こういう時に口数少ない二人ではどうやって過ごしたらいいのだろう。酒に酔えばそれすら気にならないのかと思った矢先、ディヒトバイが口を開いた。 「そういえば、お前歳はいくつだ」 「歳、ですか」  年齢のことを聞いてきたディヒトバイは、まだ子供のことを引きずっているのだろうか。 「に、二十五です」  暗い話題にはならないでほしいと思いながらクエルチアは答えた。あの風景を思い出しながら酒を飲んでもおいしくなるとは思えない。 「ディヒトさんは何歳なんですか」  話題を出される前にこちらから聞けばいいのだと思い直し、クエルチアは先手を打った。ディヒトバイのことはわかっているようで全くわかっていないのだ。年齢も、生まれた場所も何も知らない。  自分は彼について何も知らないから、今まで特別に良いこともなかったが悪いこともなかったのだとクエルチアは思った。 「俺は……、三十四か」  三十四歳。初めて知らされたディヒトバイの情報にクエルチアは心を躍らせて喜んだ。落ち着いた雰囲気からすると四十でもいいのではと思ったが、戦うときの軽やかな動きを思い出すとそれくらいなのかもしれない。  この調子で色々聞けるのではないかと思い質問を考えたが、考えている間にディヒトバイが口を開いた。 「酒は苦手か?」  言われて、最初の一口しか口をつけていなかった手のコップを思い出す。無理に酒を飲む気にもならず、ここは誤魔化すよりも素直に言っておいたほうがいいような気がした。 「実を言うと、あんまり得意じゃなくて……。つまみのほうが嬉しいです」 「正直だ」  ディヒトバイが笑ったような気がした。酒が入っているからだろうか。 「夕に採れたばっかの鮭だ。うまいだろう」 「はい、おいしいです。ここの厨房係は腕がいいですね。こんなにおいしいものを毎日食べられて、幸せです」 「週に一度しか仕事のねえ身には上等すぎる」 「でも力仕事を手伝ったり、手合わせをしたりしてますよ」 「そりゃそうだが、誰に言われたわけでもねえしな……」 「そうやって体を動かすことも、おいしいご飯を食べるのも体作りの一環ですよ。それで作った体で戦うんですから、仕事のうちです」 「いい屁理屈だ」 「屁理屈も理屈のうちです」 「自分で言うのか」  言ってディヒトバイはつまみを口にする。  それからは何でもないようなことを話していたと思う。風呂が遠くて困るとか、ディヒトバイも同じことを感じていたのかと知れて嬉しかった。  彼ばかりに飲ませるのも悪いと思い、少しずつだが酒を舐めるように飲んだ。  いつもより楽しく人と会話できたのは酒のせいか、ディヒトバイが珍しく部屋を訪ねてきたことに浮ついていたせいだろうか。そのどちらでもあるような気がする。  持ってきた酒瓶は小さいもののそれでも一瓶を粗方飲み、つまみも全部食べ、互いに話すこともなくなってきた頃合いだった。 「なあ」  ディヒトバイは不意に立ち上がると部屋のベッドに腰掛けた。 「しないか」  言葉の意味がわかったのと劣情を持つのはほぼ同時だった。  立ち上がり、物欲しげに自分を見つめるディヒトバイに口づけをする。  もどかしいように互いに服を脱ぎ捨て、首筋に、胸に唇を降らせた。  ディヒトバイが部屋を訪ねてきたことも初めてだし、二人で酒を飲んだのも初めてだ。彼がこうして直接行為に誘ってきたのも、無論初めてだった。  初めてだらけの夜を味わうかのように、クエルチアはディヒトバイの体を求めた。 「入れますよ」  言ってクエルチアは丹念に解した後孔に陰茎を宛てがって挿入した。 「んぅっ、あぁ、んっ……っ!」  貫かれながら固くなった乳首を摘まむように弄られて声をあげ、その様子にクエルチアは嬉しそうに目を細めた。 「あ、あぁっ、ふ……、うっ、んっ」  何もしなくても達しそうなほどに強く締め付ける体内は、乳首を強く刺激すると一層強くぎゅうと締まる。  乳首を刺激しながら彼の陰茎を扱いてやると、普段からは考えられないほどに乱れるのがクエルチアは好きだった。  女との経験もなく、行為に及ぶのはディヒトバイが初めてだった。最初に怒られてからは香油を使って後孔を解しているが、それ以外行為について何を言われたことはない。自分の愛撫や陰茎で彼がちゃんと快楽を得られているのだと思うと胸に安堵の気持ちが湧く。  ディヒトバイが体を震わせて達し、その締め付けにクエルチアが何度目かの精を体内に吐き出すとゆっくりと陰茎を引き抜く。 「……もっと」  耳元で囁くようにねだられ、返事の代わりに未だ熱を保つ陰茎を彼の中に埋め込んだ。  長い交わりの後、ディヒトバイは静かに口を開いた。 「……前に、なんでこんなところにいるのか聞いたろ」  そういえば出会った当初に尋ねたことがある。  魔鎧を持つ者といえば大体は貴族やそれに召し抱えられた騎士といった者たちで、傭兵になるというのは少ない。戦場で戦う栄誉を捨てて見世物の戦いをするなど、自分には考えられない。それをそのまま聞いてみたことがあった。 「お前と戦った戦のあと、別の街に向かってるときだ。道に賊だか魔物だかに襲われた家族の死体が転がってた。まだ小さい子供の死体もあった。それを見たときにわからなくなった」 「……わからなくなった?」  言いながら、また子供の亡骸だ、とクエルチアは思った。 「何かを守るためじゃねえ、金のために傭兵やってんだが、この家族のところに俺がいたら何かが変わってたんじゃねえか。そう思うと、何のために剣を持ってるのかわからなくなった。何かを斬るしか能のねえくせに」  なんと真面目な男なのだろう。  戦場で正確無比に人を殺す剣捌きをしていながら、名前も知らない通りすがりの家族を守れたはずと嘆くなど。  戦場で数多の死を目にしながら、彼の目は依然色褪せぬまま死を映すのだろう。だから死に心を揺さぶられるのだ。 「それで、ここに?」 「ああ。丁度酒場で絡まれてるところを助けてもらったのもあって、一回だけのつもりで魔物と戦った。弱い魔物だったが、それを倒すだけで人が喜んだ。十年以上も戦場にいたが、そんな経験は初めてだった。それで、ここは腰を据えるにはいい場所だと思った」 「それまでは、ずっと一人だったんですか。どこか正規の軍とか、傭兵団に入るとか……」 「一人だ。ずっと」  そう答えるディヒトバイがそのまま消えてしまいそうに見えて、クエルチアは思わず手を伸ばしそうになった。しかし、そんな資格はないと思い留まる。 「一人がいい。誰かがそばにいるなんて、耐えられねえんだ」  その言葉は、まるで自分に言い聞かせるように。  ディヒトバイはそう言ったきり目を閉じて眠ってしまった。  今日の彼はいつになく饒舌だった。酒のせいか。亡骸のせいか。  そばに誰かがいるのが耐えられないなら、今こうして隣にいる自分は何なのだろう。  心を開かれているのか、何とも思われていないのか。  何だっていい、彼の近くにいられるのなら。  そう思いながらクエルチアも目を閉じた。  翌朝、クエルチアが目を覚ましたときにはディヒトバイは部屋から姿を消していた。昨日のことは幻だったのかと思いながら身支度をする。  今日は昨日見た亡骸を埋めに行くのだ。  明るくなった頃合いを見て荷下ろし場まで行くと、すでに身なりを整えたディヒトバイが何人かと交渉していた。手の空いている者を探しているのだろう。 「おはようございます、ディヒトさん」 「おう」  昨日のことなどなかったように、普段通りにディヒトバイは答えた。彼がそうするのなら、自分も何事もなかったようにするのがいいだろう。クエルチアは何も言わなかった。  幸い五人も手空きの者が捕まり、すぐに現場に向かった。  現場に到着すると亡骸は昨日より腐敗が進み、手足のいくつかは獣に持ち去られていた。  作業人は惨状を目の当たりにして顔をしかめていたが、すぐに祈りの言葉を唱えて仕事に取りかかった。土の軟らかい場所を探し、少し離れたところに穴を掘り始めた。  本来ならば一つの穴に一人を埋めるのが理想なのだろうが、何人とも判別できない状況なので大きい穴を掘り、そこにまとめて葬ることになった。  穴を掘るのを手伝いながら、クエルチアはディヒトバイの様子を窺う。昨日のような翳りは見られず、目の前の仕事に集中しているようだ。他人がいるからだろうか。心配するような様子でもなかったため、クエルチアも穴を掘ることに専念した。  作業は意外と早く終わり、土を被せ終わった頃にはまだ昼前だった。作業人達は祈りの言葉を唱えた。クエルチアも慌てて祈りの言葉を唱える。ディヒトバイは何も言わなかった。  そういえば、二人でいるときは祈りの言葉など唱えなかった気がした。自分の場合は単に忘れていただけだが、ディヒトバイも信心深いようには見えなかったし、彼も忘れていただけなのかもしれない。あるいは、十年以上も戦場に身を置いていたからか、神など信じていないのかもしれなかった。 「行くぞ」  声をかけられてぼうとしていたことに気付き、クエルチアは慌てて先を行くディヒトバイの後を追う。その背にも何ら変わったところはなかった。  彼がまたずっと亡骸の前から動かなかったらどうしようと不安に思っていたが、もう心配はいらなかった。  闘技場まで帰ってくると、自分達を探していたのか一人の男が二人の元に駆け寄ってきた。いつもオーナーについて回っている専属の従僕だ。 「お二方を探していました。オーナーが、話があるから夕飯の前に部屋に来てくれと」 「オーナーが?」  クエルチアが聞き返すと従僕は頷き、内容を確認すると足早に去って行った。  ディヒトバイのほうを見ると、彼も困惑したような顔でクエルチアを見た。  オーナーに個別で話をされる心当たりとなると、ディヒトバイと体の関係を持っているぐらいしか思い当たらない。その唯一が問題すぎると思ったが、今の段階では何も言えないだろう。夜になるのを待つしかない。 「……とりあえず風呂だ」  ディヒトバイはそう言ってさっさと西棟に向けて歩き出し、それもそうだと思いクエルチアも続いた。  風呂で泥と臭いを落とし、昼食を食べ、夕方になるまでは力仕事の手伝いと、結局ディヒトバイとやることが同じでつかず離れずの距離にいた。  オーナーからの話が気になるのかこれといって会話をすることもなかったが、それが逆に意識していることを浮き彫りにさせた。  夕食の前というのが少し曖昧だったが、念のため暗くなってから間を置いてディヒトバイと共にキースチァの部屋に向かった。  西棟の三階にあるクエルチア達の部屋の上、四階が客間とキースチァの仕事部屋である。  金でできた獅子の飾りがついたドアをノックする。中から返事がした。耳慣れたキースチァの声ではなく、低めの男性の声だ。疑問に思いながら部屋の中に入ると、再び男の声がした。 「お、来たな」  声のしたほうを見ると、応接用の椅子に男が座っていた。その前にある低い卓には簡単な食事と果物、酒瓶がいくつか置かれている。  男は波打った金髪を後ろで括り、顎に少し髭を生やしている。神父のような紫紺の詰め襟の上衣と揃いの生地の下衣を身につけていた。顔はにやにやとしていて、二人を検分するように見つめている。  その姿には何となくだが見覚えがあった。この前ディヒトバイとリングで戦ったとき、来賓席で女を侍らせていた金髪の男だ。  男は続き間の扉に向かって歩くとキースチァを呼んだ。 「キース、来たぞ」  奥からはい、と明るい返事をするキースチァの声が聞こえた。すぐにキースチァは姿を現した。 「お疲れ様。いきなり呼びつけて悪かったね、とりあえずそこに座ってよ」  背中まで伸ばした橙の髪に、灰色のシャツ、焦げ茶のベストとズボンはいつ見ても汚れひとつない。  穏やかな顔の人懐こい笑顔はいつ見ても二十代ほどに若く見える。いくらやり手とはいえ闘技場のオーナーがそれほど年若いとは思えないため、クエルチアは見た目より十や二十は歳を重ねているのではないかと見ていた。  二人は金髪の男の向かいに並んだ椅子に腰掛けた。キースチァも金髪の男の隣に座る。 「話ってのは」  ディヒトバイが切り出すとキースチァが答えた。 「君達に仕事を依頼したいんだ。護衛の仕事をね」 「護衛? この人のですか?」  クエルチアが尋ねると、金髪の男が頷いた。 「そうだ、ブル・マリーノ。自己紹介をしよう。俺はアカート・ヒペリツムスキーだ」  言って金髪の男は名乗った。聞き慣れない言葉の名前である。 「それは通り名で……。クエルチア・チェルボッティです」 「ディヒトバイ・ウオルフ・ヴァン・デン・ボッシュ」  クエルチアも名乗り、ディヒトバイも渋々といった様子で名乗った。へらへらとしたアカートのことが気に入らないらしい。 「鹿(シエルボ)に狼(ウオルフ)か。いい二人組だ。特にディヒトバイ、お前だ。ディヒトと呼んでいいか?」  二人の名前を聞いて何かに納得したようなアカートに、ディヒトバイは勝手にしろ、と答えた。 「じゃあディヒトで。そう、その名前だ、あんたフリースラントの生まれだな?」 「だからなんだ、関係あるのか」  ぶっきらぼうにディヒトバイは言う。  フリースラントというのは海を渡った先にある海沿いの国だ。毛織物や花、特にチューリップが有名だと聞いたことがある。ディヒトバイはここスヴェリアではない別の国の生まれだと思っていたが、どこの国かまでは考えもしなかったクエルチアは、名前を聞いただけでわかるのかと驚いた。 「フリースラント人には恩がある。代書屋時代によく稼がせてもらったからな。チューリップの取引の契約書を一日中書いて、でかい屋敷を建てたもんだ」 「関係ねえ話だな」  言い捨ててディヒトバイは顔を背けると、アカートは慌てて話を戻した。 「悪い、あんたと違って人と話すのが好きなんだ。だが、あんたにとっても悪くない話だ。俺はフリースラントに用がある。往復の護衛を頼みたい。生まれの国なら土地のことがよくわかるだろう?」  ディヒトバイは何も言わなかった。 「フリースラントって海の向こうですよね。長い旅になりそうですが、その間、闘技場を空けることになりますけど」 「それは問題ないよ。君達に頼りすぎるのも問題だし、新しい試みをしようと思ってたんだ。無論、お金は弾むよ」  キースチァの言葉を受けてアカートは話を続ける。 「大雑把に見てフリースラントまで一週間、現地で二週間、帰りに一週間の四週間ってとこだな。あんたらが週に一回戦う度に金貨三枚だって? ならその倍だ。四週間で金貨二十四枚」 「に、二十四枚……」  クエルチアは思わず口に出してしまった。  普段の報酬の金貨三枚ですら持て余して金庫に入れてもらっているというのに、一週間あたりその倍。金貨二十枚もあれば一家族が一年暮らしていける額になる。それをぽんと払うとアカートは言う。 「受けてくれるか?」  クエルチアは隣のディヒトバイの様子を窺う。断る理由はないが、二人一緒に話を聞かされるとできることなら一緒に受けたいと思う。 「倍だ」  ディヒトバイは眉を寄せ不機嫌そうに口を開いた。 「その倍を払うなら受けてやってもいい」  金貨四十八枚でなら受けるとディヒトバイは言った。それだけあれば一年は遊んで暮らせるだろう。彼が金に困っているようにも見えなかった。暗に断ると言っているのだ。 「多少は羽振りがいいようだが、たかが護衛にそんな額は払えねえだろ」  言いながらディヒトバイは用意されていたコップに酒を注ぐとぐいと仰いだ。 「払うよ、いくらでも払う」  ぴりぴりとした空気の中でキースチァが口を開いた。 「これはアカートの依頼だけど、僕からの依頼でもある。アカートは僕にとって大事な人だ。彼に護衛をつけるというなら僕の知りうる限り最高の人間をつける。それが君達だし、君達が望むならいくらだってお金を払う」  いつもは柔和な笑みを浮かべているキースチァが真摯な表情でディヒトバイに言う。 「お願いだよ。アカートはまあ、癖があるけど悪い人ではないんだよ。お菓子、特にプリンさえ与えておけば口を閉じるから」 「本人が横にいるのによくそういうことを言うな?」 「正直言って君達二人とは相性が悪すぎる組み合わせというのは重々承知している、だけど僕の目の届く範囲で一番腕が立って信頼できるのも君達だけなんだ! お願い!」  アカートの言葉をキースチァは無視して、拝み倒す勢いで彼は頭を下げた。  断る理由はないのだが、ディヒトバイが渋っているとなると、クエルチアだけが受けるとも言いにくい雰囲気だった。 「フリースラントに行きたくない理由でもあるのか?」  アカートが問うとディヒトバイは露骨に嫌そうな顔をした。それも一瞬のことで、頭を下げるキースチァを見て大きなため息をついた。 「……日頃よくしてもらってるからな、あんたの頼みなら断れねえ。引き受ける」 「本当かい?」  キースチァが顔を上げてディヒトバイのほうを見る。それに答えるようにディヒトバイは頷いた。 「クエルチアも?」 「はい。海を越える旅なのでちょっと不安ですけど、ディヒトさんがいるなら安心できます」 「ありがとう!」  キースチァはまたいつも通りの柔和な笑みを見せた。 「よろしくな。仲良くやろう」  アカートもにやついた笑顔を見せて二人に握手を求めた。  仲良くなれるかはわからないが、四週間も共に過ごすのだ。何も問題が起こらなければいいと思いながらクエルチアは握手を交わした。  その後、しばらく食事をしながら細かい話を詰めた。  報酬の金貨四十八枚のうち、半分の二十四枚を前金として払い、ここに帰ってきたときに残りの二十四枚を払うこと。その他旅にかかる経費は全てアカートが払うこと、契約書を書くので後で署名することなど。  出立は三日後という話だった。  意外とすぐだと思ったものの、特に済ませておく用事があるわけでもない。強いて言うなら、次にいつおいしい食事にありつけるかわからないので、悔いのないよう食べておくことぐらいだ。  クエルチアもディヒトバイも話を盛り上げることは苦手なので、酒に酔って上機嫌なアカートとキースチァの話に相槌を入れながら黙々と食事を口にした。  頃合いを見てディヒトバイが席を立つと、クエルチアもそれに倣って部屋を後にした。 「頼んだぞ、お二人さん」  扉を閉める間際、アカートが大きな声で言う。ディヒトバイはそれを聞こえなかったふりをして後ろ手に扉を閉めた。その顔には嫌そうな表情が浮かんでいた。  次の日、用事はなかったがディヒトバイはクエルチアを手合わせに誘うことはなかった。力仕事を手伝いながら彼を探したが、その姿を見つけたのは夕方になってからだった。  夕食時で混み合う食堂の中カウンターに座り、体の大きさに申し訳ないと思いながら豆のスープを食べているとディヒトバイがやってきた。  彼は一瞬だけクエルチアを見ると気まずそうに目を反らし、そしてカウンターの中に声をかけた。 「酒をもらえねえか、瓶で頼む」  ディヒトバイが懐から銀貨を数枚取り出してカウンターに置く。女中は愛想よく笑いながら銀貨を受け取り、酒瓶を持ってくると彼に渡した。  ディヒトバイは礼を言うとすぐにカウンターから離れた。誰かと酒を飲むようにも思えないから、一人で酒を飲むのだろう。  人に紛れて消えるその背を見送り、クエルチアは思いを巡らせた。  最近のディヒトバイの様子は少し変わったように感じる。どこか沈んだ、精彩を欠いた雰囲気を纏っている。突然部屋を訪ねてきたり、自分から行為に誘ったり、かと思えば今日のように顔を合わせることを避けたりする。  いつからか。それは多分、魔物に襲われた亡骸を目にしてからだ。あの、子供の亡骸を。  死んだ主人の墓から動かない犬のように、使命感と悲しさを背に負ったまま彼は子供の亡骸のそばに立っていた。どこかに消えた頭に、彼の知る顔を重ねていたのかもしれない。  傭兵をやめる寸前にも彼は子供の亡骸を見ていた。  子供に何か思うところがあるのだろうか。  歳を聞けば三十四だと言うし、どこかで子供を作ったのかもしれない。だからこそ子供の死に敏感なのか。  何があったのか気になるが、彼はそういうことを他人と共有するような人間でないことはわかっている。  彼が多くを語らないのは一人で抱えるためなのだろう。それを無理に聞き出すなど、他人の心に土足で踏み入るような行いだ。  つまるところ、自分には何もできないわけだ。  それでもできることといえば、友人でもなく、恋人でもなく、ただ体を重ねるだけの関係を続けることだ。彼が先のように何かを言いたくなったら聞き、体を求められたら抱く。それ以上のことは期待されていないのだ。だからそれ以上のことを求められない。  そう結論づけて、もやもやとした思いを抱えながらクエルチアはスープを口に運んだ。  自分にできることだったら何でもしてやりたいのに、彼はそれを必要ないと拒んでいる。  ――一人だ。ずっと。  ――一人がいい。誰かがそばにいるなんて、耐えられねえんだ。  あれは本心の言葉だろうか。  そうするしかないと自分に言い聞かせるための言葉ではないだろうか。  本当のところはディヒトバイしか知らない。  それを暴くことなどあってはならない。  自分にできるのは、何もしないことだ。  再び巡ってきた苦い結論を飲み込むように、クエルチアは残りのスープとパンを飲み込んだ。  いつもは美味に思える食事も、どこか味気ないように感じた。  前金の支払いと契約書への署名を頼むと言われ、クエルチアはキースチァの部屋を訪れた。  彼は快くクエルチアを迎え入れ、卓に案内し金貨の入った袋と契約書を差し出した。 「約束通り、前金の金貨二十四枚だ。確認してね」  言われたとおり、クエルチアは金貨を確かめる。キースチァは報酬を誤魔化すような人間ではないが、大金なので確認しておくに越したことはない。枚数が合っているのはもちろんのこと、質もよいものだった。 「じゃあ、いつも通りにお願いします」 「わかった、金庫に入れておくよ。君もディヒトバイもしっかりしているね。俺がこんな大金もらったら、あっという間に使っちゃうな」 「腹が満たされていれば十分です。立派な部屋ももらっていますし、それ以上は望みません」 「本当にしっかりしてるなぁ。俺も見習わなくちゃ。それでこれ、契約書」  大きめの羊皮紙に詰め込むように文字が書かれているのを見て、キースチァに悟られないよう口の中で小さく唸った。 「この前話したことと大体同じだから。署名欄に名前を……、うん、君は読み書き大丈夫な人だったよね? 必要なら僕が読んだりするけど」 「だ、大丈夫です。一応できます……」 「そう。じゃあ適当に読んで署名をお願いね」  キースチァは笑顔でそう言うと奥に置かれた大きな書斎机のほうに戻っていく。  彫り物のされた深い色合いの机の上には、羊皮紙の束や巻物の類が山と積まれていた。闘技場を仕切るとなると一日中あのような書類の山と戦わなければならないのか。  文字を読むのが苦手で契約書一枚でくじけそうになっている自分を奮い立たせ、頭から文章を読んだ。 「依頼人、ア、カート……、ヒ、ペ……」  やっとの思いで最後まで読みきったが、普段の生活で耳にしない単語が多く、しかし読めると言ってしまった以上意味を聞くこともためらわれて、これなら素直にキースチァに読んでもらえばよかったと後悔した。  内容が半分もわかった気がしないが、前に詰めた内容と報酬の額は同じだったし、わからないことがあれば現地でアカートに聞けばいいだろう。依頼人と直接やり取りをすれば問題はないはずだ。そう思って署名することに決める。  契約書の下部にはすでにディヒトバイの名前が書かれていた。  ――Dichtbij Wolf van den Bosch.  ごつごつとしていて直線の多い、けれど見やすい字を見て彼の字らしいとクエルチアは目を細めた。  長く傭兵を続けているのであれば契約書を交わすことも多かっただろう。書き慣れた様子の字を見て、クエルチアは少し緊張した。  読み書きできるようになったのはここ数年のことだ。それまでは読み書きなど縁のない生活をしていた。  持ち慣れないペンを持ち、一つ一つ綴りを思い出しながら上手く力の入らない手でなんとか自分の名前を書く。  ――Quercia Cervotti.  ぶるぶると震える線で、字の高さも大きさも揃っていないが、今の自分に書けるのはこれが精一杯だ。 「う、ううん……」  契約書の本文とディヒトバイの署名、それらと自分の署名を見比べてクエルチアは項垂れた。自分のものだけがひどく不恰好に見える。  なぜできると言ってしまったのだろうと後悔の念に襲われていると、いつの間にかそばにいたキースチァに声をかけられた。 「できた?」 「すみません、字が下手で……」  クエルチアは答えながら、渋々といった様子で契約書をキースチァに手渡した。キースチァは契約書を満足げに見ながらうんうんと頷いた。 「大丈夫、大丈夫! 君が同意したことがわかればいいのさ。それに、無事に事が運べばこんなもの要らないんだからね。アカートが仕事柄こういうのにうるさいだけで……」  キースチァに言われ、そういえばとアカートの職業を思い出す。 「代書屋さん、でしたっけ」 「そうそう、代書屋。普段はだらけてるけど、字だけは腹が立つほど上手いんだよね。それでご飯食べてるんだから当たり前なんだけどさ。そうだ、アカートから字を習ってみれば? 厳しいけど上手くなるよ」 「……か、考えておきます」 「なんてね、冗談だよ。頼めば引き受けてくれるとは思うけどね。彼、ここにいるときは所在なさげだし」  キースチァはいたずらそうに笑いながら言うと、突然声の調子を落とし、ところで、と話を変えた。 「ディヒトバイの調子は大丈夫なのかい? さっき来てもらったとき、元気なさそうだったからさ」  キースチァの心配に、自分のことではないがなぜかどきりとした。考えながらクエルチアは言葉を紡ぐ。 「……正直なところ、わからないです。今日も話してませんし……。でも、断るつもりの依頼を受けて、それを投げ出すことはしないでしょう。そんなことをしていたら傭兵稼業も長く続けられません。傭兵も信頼がなければ次に繋がりませんから」 「俺もそう思ってるんだけどね。でも、怪我でもしたら大変だし……」  心配そうなキースチァを元気付けるようにクエルチアは口を開いた。 「大丈夫です。魔鎧があるなら大抵の人間の相手は造作もありません。ディヒトさんの調子が悪くても、俺一人で十分ですよ」  クエルチアの言葉にキースチァは微笑んだ。 「ふふ、ありがとう。すまないね、疑うような物言いをしてしまって」 「そんなことないです」 「頼りにしてるよ」 「はい。じゃあ、これで」  クエルチアは椅子から立ち上がり、部屋の入り口に向かう。キースチァも後をついてきた。 「階段は暗いから、足元に気をつけてね。おやすみ」 「ありがとうございます。おやすみなさい」  部屋の外まで出てきたキースチァに見送られながらクエルチアは階段に向かった。  薄暗い階段に注意しながら階段を降りる。三階につけばあとは自室で寝るだけだ。 「あっ!」  階段ホールから廊下にさしかかろうという頃、聞き慣れない声が上がった。  声のしたほうを見ると、何かを脇に抱えたアカートが降りてくるところだった。 「丁度いいところに! 待った、待ってくれ!」  手でクエルチアを止まるよう促しながらアカートは駆け寄ってきた。 「……何です」  クエルチアが問うとアカートは着替えらしい荷物を抱え直し、クエルチアを拝むように両手を合わせて頼み込んだ。 「お願いだ、一緒に酒を飲んでくれ!」 「えぇ……?」  クエルチアはただただ戸惑った。なぜアカートが自分と酒を飲みたいのか皆目見当もつかなかったが、何やらただならぬ雰囲気である。 「頼む、人助けと思って!」  アカートはついに土下座を始めた。  酒を飲むことのどこが人助けに繋がるのかわからなかったが、土下座まで始められると大した考えもなしに断るとは言えず、酒が飲めないことを伝えて委ねることにした。 「酒が飲めなくてもいいなら、いいですけど」 「それで十分だ! なかなか話のわかるやつだな!」  話がわかるどころか、意味不明な状況に流されただけとは言えなかった。 「さっきまで部屋で酒盛りしてたんだ、肴か果物がちょっとはあるぞ」  言いながらアカートは廊下を引き返して階段を上がり客間に歩き出す。その後をクエルチアはついていった。 「その、いいんですか。何かしようとしていたところでは?」 「いいんだいいんだ、風呂ならいつでも入れる。今日も朝から風呂に入り浸りだったしな。だが、お前と話すのは今でなきゃいけねえ」  クエルチアはアカートの後に続いて客間に入る。 「そこに座ってくれ」  アカートは背の低い卓を指すと着替えを寝室に置きに行った。卓の上にはハムでチーズを巻いた肴と葡萄、林檎がある。  クエルチアは促された通りに卓のそばの長椅子に座る。  客間は居間と寝室の二部屋からなっており、金の装飾が施された家具が設えられていた。  同じ木材から作られたであろう深い色合いの箪笥、書き物机、背の低い応接卓は千花模様の彫り物がされており、葉と花には金箔があしらわれていた。絨毯も同じく千花模様が織り込まれている。  自分には家具の質などわからないが、統一感があり、金の装飾を多用していても下品に感じることはない。基本的にはキースチァの趣味はいいのだろう。何でも金をつけたがるだけで。  この客間に入ったのは二回目だった。前に入った時はディヒトバイの後を追ってここを訪れたときだ。  何かにつけて金の飾りが施された調度一式を見て、貴族でも何でもない自分がこんなところに泊まっていいものかと怖い思いをしたものだ。天蓋付きのベッドどころか、自分の足がはみ出ないベッドに寝たのも初めてのことだった。  そんなこともあったなと思っていると、奥の寝室からアカートが戻ってきた。 「待たせたな」  言いながらアカートは卓を挟んでクエルチアの向かいに座り、酒瓶とコップに手を伸ばした。 「とりあえず乾杯だ。お前が一人のところを捕まえた幸運に」 「その、お酒は……」 「ああ、苦手と言ってたか。悪い悪い」  アカートはクエルチアの分まで酒を注ごうとした手を止めた。 「じゃ、俺一人で申し訳ないが、乾杯」  軽く空に杯を掲げるとアカートは一気に酒を飲み干した。すぐさま杯に次の酒を注ぐ。 「その、用ってなんですか」 「おっと直球だな、話が早くて助かるが」  クエルチアが問うと、アカートは姿勢を正すように座り直してクエルチアと向き合った。 「簡単に言うと、俺はお前と仲良くなりたい」 「なんですかそれ」 「反応が冷たい!」  思わず口をついて出た言葉にアカートは悲しそうに叫ぶと、突然肩を落としてしょんぼりとする。 「お前も薄々察してるだろうが、俺はディヒトに嫌われている。蛇蝎の如くとまではいかないものの、できることなら一緒にいたくねえな、という気持ちを隠さない程度には嫌われている。そこで俺はお前と仲良くしたい」 「その口数多いのをやめればましになると思いますよ」 「時として正論は人を傷つけるんだぞ!」 「自覚あるんじゃないですか」 「何も言い返せない!」  突然顔を覆って長椅子に倒れこんだアカートを見て、これを察して距離を置いたディヒトバイの判断は正しいなとクエルチアは思った。早くこういう人間の見分けがつくようになりたいとも。 「そういう芸風が苦手な人もいるんですよ。俺も正直ついていけないし……」 「人を道化のように言うなよ! 俺だって真面目だ、大真面目なんだ!」  その真面目さが表に出ないのが問題だと思ったものの、話が逸れそうだったのでクエルチアは黙った。 「依頼人とはいえ人数的に立場が弱いのは俺のほうだぜ? それをお前と仲良くして、道中何かがあったとき、お前を通してディヒトと話ができれば角が立たねえだろう? そのためにも俺はお前といい関係でいたいんだ」 「確かに、仲がいいに越したことはないですけどね……」 「だろ? 一回旅に出たら泣こうが喚こうが四週間は顔突き合わすんだ、事前にできることはやっておこうというわけだ」  アカートの言うことはもっともだった。  四週間の長い旅だ。見えている問題に策を講じておくのは悪いことではない。しかしクエルチアは乗り気になれなかった。 「言っていることはわかりますけど」 「な、なんだ、何か不満でも?」  アカートが慌てたように問う。 「何かあったら板挟みになるのは俺、ということですよね。それを考えると、俺にも何か見返りがないと考える気になれません。一日目からディヒトさんとあなたが仲が悪くなって、帰ってくるまでずっと双方を取り持つ羽目になるというのも、なくはないわけでしょう?」  見返りがほしいというクエルチアの言葉を聞いて、それもそうだとアカートはぴたりと動きを止める。 「何も考えてなかったんですか」 「じゃ、じゃあ報酬に色をつけよう」 「それはいいです。金貨四十八枚ですら持て余すのが見えてて不安なんですから」  提案がすぐに却下され、アカートは考え事をするように周囲を見る。 「そうだ、お前の相談に乗ろう!」 「相談?」  咄嗟の思いつきにしか聞こえない提案に、クエルチアは訝しげにアカートを見つめる。 「恋愛、将来、金の悩み……。誰にだって悩みはあるだろう。人生経験豊かな俺が話を聞こうじゃないか。無論、他言無用だ」  どういう考え方をすればそれが見返りになると思ったのかわからないが、とりあえず続きを聞くことにした。 「お前、周りに何かを相談できる相手はいるか? キースは雇い主、ディヒトは対戦相手で、信頼できるが距離が近すぎる。仲が悪くなったらと思うと下手なことを言えないだろう? かといって他の人間は相談するほど仲良くもない。悩みを一人で抱えるってのもつらいもんだぜ? だがここに俺がいる。口は堅いし、用が済めばここを去る。今まで色んな国や街を旅してきた。その場限りの相談をするのにはうってつけだと思うがね」 「本当に口が堅いんですか?」 「堅いさ! 何なら契約書を書いたっていい」  そこまで言うなら口が堅いというのは本気とみてよさそうだ。 「気になってる女がいるとか、そういうのでも構わねえぜ」 「女に興味はありません」 「なんだ、男が好みか」 「いや、そういうわけでは……」  クエルチアは言い淀んだ。  ディヒトバイと体の関係になっていることを知られるわけにはいかない。  しかし、だ。彼と今以上の関係を望むクエルチアにとって、これはよい機会なのではないだろうか。  アカートの口が堅いというのは信じてよさそうだし、もし上手くいかなかったとて後腐れのない立場の人間だ。アカートの言葉通り、相談するのにこれ以上の人間はないように思う。 「……その」  クエルチアが何か言おうとしたのを見て、アカートは黙って聞く態勢を取った。 「えっと」  言いたいのに、恥ずかしくて言い出せない。  まず体の関係だというのが言いにくいし、そこから更に仲良くなりたいなどと虫のいいことを言うのだ。  それでもクエルチアは踏み出したかった。そして、その足がかりになりそうな機会が今ここにある。今を逃したら、体だけの関係をずるずる続けることしかできない気がする。他人の知恵を借りてでも先に進まなければならないのだ。 「……あの」  視線が肴と果物の乗った卓の上を滑る。滑った先に酒瓶があった。  クエルチアは迷う前に酒瓶を手に取り、マスクを取って中身を飲み干した。半分ほど残っていた酒が喉を通り過ぎながら口内を熱くする。  酒瓶を置き、正気に戻る前に思いを口にした。 「ディヒトさんと、仲良くなりたい、です」  それを聞いたアカートは満足そうに笑った。 「いいぜ、話を聞かせてくれよ」  クエルチアは少しずつ、ディヒトバイとのことを話し始めた。 「見かけによらず、やることやってんじゃねえか」  アカートの言葉にクエルチアは何も言えなかった。 「ディヒトの野郎が下とはなぁ。意外っちゃ意外だが、相手がお前だからなぁ。お前でかいからなぁ」  アカートは噛み締めるようにぼそぼそと零す。 「……で、ど、どうなんですか。俺はどうしたらいいんですか」  酒の酔いと恥ずかしさで顔を赤くしながらクエルチアは問うた。 「それは後で答えるとして。話を聞いてて気になったんだが……。これは大事な話だ」  大事な話と言われ、クエルチアはわずかに身を固くした。 「お前はどうしてそんなにディヒトに惚れちまったんだ?」 「それは……」  ディヒトバイを何より特別な人間に想う、その根源。それをアカートは問うていた。  初めて問われたはずのことなのに、クエルチアはその答えをすでに持っていたかのように自然に答えることができた。 「初めて会ったときからずっと思ってたんです。かっこいい人だって」  そうだ。  赤狼と剣を交えた時、雷のように衝動が体を貫いた。  狼を模した、鮮血よりなお鮮やかな真紅。舞踏のようにしなやかな動き。一瞬で死へと誘い込む正確無比な剣。鋭い黄金色の目。深く沈んだ低めの声。すらりとした立ち姿。ほどよく筋肉のついたしなやかな体つき。狼の刺青。  挙げていったら切りがないが、それら全てがクエルチアには魅力的に映った。  クエルチアにとってディヒトバイは到達点なのだ。いつか自分が大人になる時が来るとしたら、彼のような大人になりたいと、子供のような憧れを抱いていた。 「やっぱり、子供っぽいですかね……」  恥じるようにクエルチアが零すと、アカートは首を振った。 「そんなことはない、真っ当な理由じゃないか。始まりがちゃんとしてれば、大体のことはちゃんと出来上がる。だからそこを聞きたかったのさ」 「そういう、ものですか」 「そういうもんだ」  アカートはそう言うと、にやりと笑った。 「いいぜ、この恋の行方を俺が応援しよう」 「こ、恋って、俺達は男同士ですよ」  クエルチアが慌てて言うと、アカートはそうじゃないと軽く手を振った。 「男同士にも恋はあんの。誰かを想う気持ちが止まらない、想うだけで幸せになる、何もかもを投げ捨ててその人の元に走りたい……。そういう気持ちが、恋だ」  やけに芝居がかった口調と身振り手振りを交えてアカートは言い、クエルチアを見据えた。その顔はやけにきりりとしていて、なぜか自信に満ちあふれている。一人で盛り上がっているアカートとは裏腹にクエルチアの心は冷めていた。 「おい、なんでそんな目で俺を見る」 「なんか盛り上がってるなぁと思って……」 「お前の話をしてるんだぞ! お前も盛り上がれ!」  窘めるように言いながらアカートはクエルチアを指差す。 「盛り上がれって言っても……。結局、俺はどうすればディヒトさんと仲良くなれるんですか」  アカートの無茶な要求にクエルチアが戸惑いながら尋ねると、彼は得意げに笑った。 「仲良くというか、その前段階だな。まず知ることから始めねえと。それを整理しながら次を考えるんだ」 「知るって……。俺はディヒトさんのこと、何も知らない。あなたに言われるまでフリースラントの生まれってことさえ知らなかった」 「まあ、自分のことをあれこれ話すようには見えねえからな」  アカートは言いながら、卓の上に並んだ林檎を手に取って一口囓った。 「相手のことをよく知りたかったら、自分のことを話すんだ。好きな食べ物を知りてえなら好きな食べ物を言う、好みの女が知りてえなら好みの女を言う。胸の内を明かしてくる人間に自分の胸の内を明かす、人間そういう風にできてんだ」 「なるほど……」  クエルチアは頷いたが、その声色は沈んでいた。 「なんだ、ぴんと来ねえって面して」 「もしディヒトさんの過去を聞きたいなら、俺の過去を言うってことですか」  クエルチアの言葉を聞いて、アカートは苦い顔をした。 「やめとけ、無理に言っても双方苦しくなるだけだ。ディヒトだって言いたくねえから言わねえんだろう。まずは地道に情報を集めようぜ」  クエルチアはしばらくの沈黙の後、不安そうにアカートに問うた。 「……アカートさんは、アカートさんの言葉で言う、この恋が上手くいくと思いますか?」 「思うね」  アカートは自信たっぷりに答え、更に林檎を一口囓る。林檎を飲み込んでからアカートは続きを口にした。 「あいつがお前と何回も寝てるのはお前の口の固さを信頼してるからだ。その信頼を勝ち取れているのは大きい。あとは見極めが必要だな」 「見極め?」 「あいつが一人で生きていける人間なのか、一人では生きていけない人間なのか、ということだ。かかる時間が違ってくる」 「ディヒトさんは、ずっと一人だって言ってました」  クエルチアの言葉にアカートは違うと軽く手を振った。 「それは事実の話だろ。俺が言ってるのは精神の話だ。まだディヒトとは少ししか会ってないんで断定はできねえが、俺はあいつは一人では生きられないと思うね。お前と寝てるからな。二人で得られる快楽にはまってんのさ。この前なんかあいつのほうから誘ってきたっていうじゃねえか。一匹狼を気取っちゃいるが、本当は誰かと繋がっていたいんだ。だが強がりか、怖がりか、自分の本心にも気がついていねえか、他人との繋がり方がわからねえのか……。あいつはまだ他人に興味がある。他人に興味があるうちは、何かのきっかけで一匹狼も誰かのそばにいるようになる。そのきっかけを上手く作るのが肝心だ。そのためにも、まずはディヒトの情報を得る。今の段階で言えるのはここまでだな」  自分の意見を言い終えると、アカートは質問があるかと言いたげにクエルチアのほうを見た。 「あなた、本当に代書屋ですか?」 「代書屋さ。最近は副業が忙しいがね」  アカートは自嘲するように笑った。

ともだちにシェアしよう!