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第3話
出立の日の朝、不安を抱きながらクエルチアは荷下ろし場に向かった。ディヒトバイは契約を反故にするような人間には思えなかったが、彼の姿が見えないまま出立の日を迎えるとなると不安が胸を埋め尽くした。
荷下ろし場の隅に停まった馬車の近くに見慣れた姿があった。
撫でつけた焦げ茶の髪、同じ色をした口と顎の髭。黄金色をした鋭い三白眼。臙脂の質素な上衣に革のズボン、膝丈のブーツ。腰には真紅の鞘の剣。
いつもと変わらぬすらりとした立ち姿を認めて、やっと安堵に胸を撫で下ろした。
「ディヒトさん」
馬車の馬を眺めていたディヒトバイに声をかける。喜びの色を隠そうとしたが、それでもわずかに声が上擦った。しかし彼はそれに気付いた風もなく、クエルチアのほうを向いて口を開いた。
「すまねえな。酒を抜くのに時間がかかった」
短く簡潔に済ませる言葉もいつも通りで、ディヒトバイが本調子に戻ったことを示していた。
「お、揃ったな」
二人に背後からアカートが声をかけた。紫紺の服の上に亜麻の外套を羽織り、肩から革の鞄を二つかけている。にやにやとした笑顔はいつも通りのようだった。
「先に乗っててくれ」
言ってアカートは馬車を指すと、二人は馬車に乗り込んだ。
馬車は大きなもので二人並んで座っても余裕があった。ディヒトバイが先に座ると対面を指す。クエルチアの体の大きさを鑑みて席を広く使っていいということらしかった。
小さな窓からアカートが誰かと話す後ろ姿が見える。見送りだろうか。その割にはキースチァの姿が見えない。朝の見送りは辛いものがあるのかもしれない。そういえば、近くにキースチァ付きの従僕が立っていたように思う。彼に見送りを託したのだろうか。
しかしクエルチアの予想と違って、アカートの後ろ姿は親しい相手と名残惜しげに抱擁を交わしたのだった。アカートが振り返ったのでクエルチアは慌てて視線を外した。
アカートは馬車に乗り込むと、空いているディヒトバイの隣に座る。それを確認してクエルチアは壁を軽く叩いて御者に合図した。少しの間を置いて馬車が動き出す。
フリースラントに乗る船はこの街、ファルケンベリから北の港町から出るため、まずはそこに移動しなければならない。そこまではキースチァが馬車を出してくれるという話だった。
馬車で一日かけて港町へ行き、船で西に進みカテガット海峡、スカゲラク海峡を通り抜けてユラン半島を回り込むように南下する。そうしてフリースラントに着く予定だ。
「詳しい話を聞かせてもらおうか。フリースラントに行って何をするんだ」
ディヒトバイが目線だけをアカートに向けて尋ねると、アカートは咳払いをしてから答えた。
「出るはずのない魔物が出る。その調査だ」
「出るはずのない魔物?」
クエルチアが鸚鵡返しに問うと、アカートは頷いた。
「どこから話したもんか……。まず、魔物というのは架空の生き物が形を得たものだ。主に神話や伝承などからその形が写し取られるが、野放図に生まれるわけじゃない。空を飛ぶラミアはいないし、陸に上がるセイレーンはいない。魔物は自分の伝えられた伝承に忠実な環境で現れる。魔物について分かっていることは少ないが、それだけは確かだ」
「それを覆すような魔物が現れたってことですか」
「そうだ。理解が早くて助かる」
「どんな魔物なんです」
「スキュラだ」
聞いたことのない名前にクエルチアはディヒトバイのほうを見る。ディヒトバイも心当たりのない様子で軽く首を振った。
アカートは芝居がかったように、誰かに向けて祈る仕草をした。
「かの人を語ってください、ムーサよ(アンドラ・モイ・エンネペ、ムーサ)」
「なんですか、それ」
クエルチアが怪訝な目を向けると、アカートはやれやれと首を振った。
「俺はこれから、かのオデュッセイアの内容を語るんだぜ。文芸の女神であるムーサに祈りを捧げないわけにはいかないだろう? 今や俺の身にムーサが宿り、俺の口を使ってかの英雄の偉業を語り始め……」
「仕事と関係ない話はいいです」
クエルチアがばっさり切り捨てると、アカートはしょんぼりと肩を落とした。
「ちょっとした洒落だろ、それくらい許してほしいぜ」
「洒落は通じる相手に言うものですよ」
「真面目なだけじゃ食いっぱぐれるぞ」
負け惜しみのように拗ねながらアカートが言うと、咳払いをして仕切り直した。
「スキュラとは古代ギリシアの叙事詩オデュッセイアに出てくる魔物で、上半身は美しい女、腰には六つの犬の頭、十二本の犬の足、下半身は魚という姿をしている。魚の姿があるように、こいつは海に出る魔物なんだ。それがフリースラントの森の中に出るという噂が最近出回っている」
「それで出るはずのない魔物、ということなんですね」
「そうだ。退治が遅れたんで他の地域にも噂が出回った。教会は前から魔物の生態を知ることに乗り気だったが、大体が調査に乗り出す前に倒されちまうんで思ったように進んでないんだ。そこに今回のスキュラの噂をどっからか嗅ぎつけて調査するようお偉いさんが決めた。決めたはいいが、現場としては場所が遠くて他に先を越されるかもしれないってんで及び腰だ。そこで俺一人だけを現地に送って、外には調査したという名目を立てて、何もなければそれでよし、何かあったら手柄を横取りという、俺以外は損をしない絵が描かれているわけだ。貧乏くじを引かされた身にはつらい話だがね。何か質問は?」
アカートは自分の話をそう締めくくった。
「どうして代書屋にそんな話が回ってくるのか以外は理解しました」
「さっきから当たりがきついが俺が何かしたか? 副業だよ、教会にコネがあるっつーか借りがあるっつーか。隠居生活にも飽きたんでな。ずっと山の中に引きこもってるんじゃ、子供の情操教育にも悪い」
「こ、子供って?」
アカートから出た予想外の言葉に、クエルチアは珍しく大きな声を出した。
「俺にそんな甲斐性があると思うか? 友人の子供の後見人なんだよ。親を亡くしたんで俺が引き取って、キースのところで働かせてもらってんだ」
「ああ、見送りに来ていたのはその人でしたか。ちょっと驚きましたけど安心しました。でも、自分で自分を傷つけるようなことはあんまり言わないほうがいいですよ」
「真っ当なご忠告痛み入る。自虐は控えるとしよう」
アカートは引きつった笑みを浮かべながらクエルチアの言葉に頷いた。
窓の外を見ていたディヒトバイがアカートに尋ねる。
「質問があるかと言ったな。お前、魔法は使えるか」
「使えるといえば使えるが、ただの一般人と思ってくれ。苦手なんだ」
「そうか」
アカートの返事を聞くとディヒトバイは一言だけ返し、寝ると言って腕を組んで目を閉じてしまった。
「余裕があるねえ。いい護衛を雇ったもんだ」
「そういうことを言うからディヒトさんに嫌われるんですよ」
クエルチアが窘めるように言うと、アカートはわざとらしく首を竦めてみせた。
日が暮れる頃に港町についた三人は宿に泊まり、明朝船に乗り込んだ。
「うっ……」
吐き気がこみ上げ、クエルチアは近くに置いた桶をたぐり寄せる。
戻しはしなかったものの、胃を締め付けられるような吐き気が止むことはない。
他にも乗り合わせた者はハンモックで寝ているか、酒を飲むか、今のクエルチアのように船酔いと戦っているかだった。
生気のない船室に嫌気が差し、新鮮な空気を求めてクエルチアは甲板に向かった。ただでさえ狭い通路を人より大きなクエルチアは身を縮こませながら通り抜ける。
やっとたどり着いた扉を潜ると、風が吹き抜け思わず目を閉じる。乱れた薄茶の前髪を整えながら辺りを見回した。
薄く雲がかかった空の下、海面に波を立たせながら地平線まで群青の海が広がっている。左にはユラン半島が霞がかって見えた。
空気は湿って海独特の匂いを運んでくる。マスクを外して思い切り空気を吸い込むと、肺が洗われるような気持ちになる。
邪魔にならないよう隅に行くと、ディヒトバイが船の縁に寄りかかって立っているのを見つけた。彼もクエルチアに気付き、口を開いた瞬間にアカートの陽気な声が割って入った。慌ててマスクをつける。
「大丈夫か? 一日もすりゃ慣れると思ったが、そうもいかないみたいだな」
「明日も船の上なんて信じられませんよ……」
アカートに答えながらクエルチアはディヒトバイに視線を向ける。出端をくじかれた彼は海を見ていた。
「ブル・マリーノは海が苦手か。名前負けだな」
「俺が海を渡ったのは赤ん坊の頃ですよ。船に乗ったこともわからないくらいの」
「そりゃ船酔いも関係ないな」
言いながらアカートは手近な木箱に腰掛けた。
「凪で速度が出ないんだそうだ。この調子じゃ余計にかかるかもな」
「本当ですか?」
クエルチアは思わず大きな声を出してしまった。
「ま、今日が駄目でも明日には慣れるかもしれねえし。そう慌てるなよ」
アカートがそこまで言ったとき、船乗り達がざわめいた。
「なんだ、あの泡は」
船乗りがそう言って右舷側に集まり、海のある一点を見つめている。
「どうかしたのか」
アカートも気になったのか立ち上がったが、人が邪魔をしてその先は見えない。クエルチアは身長のおかげで人の向こうを見ることができた。
「泡? お湯みたいに、ぶくぶくと湧いてます」
「泡だと、まさか……!」
それを聞いてアカートが顔を引きつらせた瞬間、泡の中から水柱が立った。その中にうごめいていたのは、褐色をした吸盤のついた巨大な触手。
「クラーケンだ!」
雨のように海水が降り注ぐ中、手で顔を庇いながらアカートが言う。その視線の先には何本もの水柱が立ち、その中から触手が姿を現していた。
「これが?」
クエルチアも名前だけは聞いたことがある。海に出る魔物で長い触手を持ち、近づく船は全て沈めることから、船乗り達が恐れる存在だと。
「船を守れ」
ディヒトバイはクエルチアの肩を叩いてそれだけ言うと、船の縁を飛び越える。落下する中で魔鎧を纏い、赤狼は海に降り立った。そのまま姿勢を低くし水面を蹴って一目散に触手へと走る。
「なんだありゃ、海の上を走ってるってのか?」
驚きと呆れの間のような声でアカートが言う。
気がつけば船は三本の触手に囲まれていた。触手はうねりながら船に手を伸ばそうとしている。クエルチアも魔鎧を纏い、すぐ近くまで触手が迫っている船尾へと走り出す。
突然、触手の一本が激しく暴れて海に沈み始めた。その触手は海面に出た根元から先が両断されている。アカートが目を向けると、赤狼は別の触手へと向けて走り始めたところだった。
「切っただと……!」
二本目の触手すら容易く切り落とし、赤狼は最後の触手に走り寄る。剣を構えて横に薙ぐと触手は真っ二つにされた。
意思をなくした触手は蛇のようにのたうちながら、飛沫を上げて海に沈んでいく。
その飛沫の中から新たな触手が伸び、不意を突かれた赤狼に巻き付いた。
「ディヒトさん!」
船の上からクエルチアは叫ぶ。
辺りを見回して他に触手がいないことを確かめると海に向かって飛び降りる。
体が宙にあったのも束の間、海の上に着地した。軟らかい土を踏んでいるようだ。わずかに足が沈みこむものの、水の中に落ちていくことはない。それを確認すると触手に向けて走った。
自分を攻撃する異物を捕らえ、触手は海の中に潜っていく。
「待て!」
このままでは触手にたどり着く前に海に逃げられてしまう。それを察したクエルチアは足を止め、回転を利かせて戦斧を投げた。戦斧は弧を描き、のこぎりのように触手を切断する。
しかし触手は切られてもなお赤狼を放さず、赤狼もろとも海に沈もうとしている。クエルチアが追いついた頃には触手はわずかに先端が見えるくらいだった。
息を整える暇も惜しいと思いながら魔鎧を解き、息を吸い込んで海に飛び込む。
朧気な視界の中で赤狼を探す。深くを見つめると触手の大きな影の中、鮮やかな赤が見える。力尽きた触手でも巻き付く力が強いのか抜け出せずにいるようだ。
一層深く潜り、その赤い姿に近付く。
手を伸ばすと赤狼がしっかりと腕を掴んだ。それを確認すると腕を引いたが触手が海に沈む力のほうが強く、腕ごと持っていかれそうになる。
赤狼が首を横に振ったように見えた。
それを見ないふりをして赤狼の腕を手繰り、巻き付いた触手を剥がそうとする。
ぬめった触手はまともに掴むことさえ許さなかった。腰に差したナイフを抜き、触手に突き立てる。
水面はすでに遙か上方にあり、海水で少しずつ減衰した光は希望のように思える。息ももう長くは保たない。それでも諦めることはできなかった。
何度もナイフを突き立て、やっと触手が力を失い赤狼を解放した。
その時にはクエルチアの意識は薄靄に包まれたようで、水面がどこにあるかもわからなかった。
唇に、柔らかいものが触れた気がした。
光を感じて目を開くと、船の上だった。
一瞬だけ、この世の終わりを迎えたような顔のディヒトバイが見えた気がしたが、意識を取り戻したばかりの頭が見間違えたのかもしれない。
クラーケンを退け船乗り達が祭りのように騒ぐ中、海水に濡れ体にまとわりつく服を邪魔に思いながら身を起こすと、今度は確かな抱擁が体に伝わった。それは一瞬だけであったが、ディヒトバイの気持ちを何より確かに伝えている気がして、彼らしいと思った。
ディヒトバイの濡れた髪が頬をかすめ、クエルチアは違和感を覚えた。
「ディヒトさん、鎧を着てたのに、どうして濡れて……」
「ど、どうだっていいだろ」
珍しく口ごもったディヒトバイはすっと立ち上がった。クエルチアもそれに倣ってゆっくりと立ち上がる。すると、突然首に腕を絡められた。アカートだった。
「お前が海に飛び込んでから、キースになんて言い訳しようかずっと考えてたぜ。ディヒトもお前もよくやったな」
「いや、俺は……。ディヒトさんが先に動いてくれなかったら、自分にできることも探そうと思わなかったです。海の上だから何もできないって」
アカートは腕を解くと、毛布を二人に手渡した。
「服を乾かしな。暖かい季節とはいえ、ずぶ濡れのままじゃ風邪ひくぞ」
「はい。ありがとうございます」
船を救った二人の無事を喜ぶ船乗り達を散らしながら、髭を蓄えた壮年の船長が近付いてきて声をかけた。
「船の危機を救ってくれて、感謝する。クラーケンに出会って生き延びたことは他の船乗りにとっても希望になるだろう。何かできることがあったら言ってくれ」
「そう言ってもらえると、俺達も戦った甲斐があります。ですよね、ディヒトさん」
クエルチアは隣にいたディヒトバイに声をかけるも、彼は早々に船室に向かって歩いていた。それを見てすぐさまアカートが口を開いた。
「気を悪くしないでくれ。あいつは腕が立つんだが人嫌いなんだ」
「いいさ。船には色んな人間が乗ってくる。人嫌いなんざ可愛いほうさ。あとで上等な酒を持って行かせよう」
言って船長は船乗りに指示を出しながら船首のほうに歩いて行った。
「じゃあ、服を脱いでくるので」
クエルチアはアカートに言って船室に向かった。
不意打ちというのは質が悪いと痛感したのは、その直後だった。
船室に入りクエルチア達が陣取っている一角に向かうと、ディヒトバイが濡れた服を脱いでいるところだった。
久しぶりに目にするディヒトバイの体は魅力的で、脇腹にある狼の刺青から目が離せなくなった。
「服を持ってくれば干してくれるとよ」
「は、はい!」
アカートに突然後ろから声をかけられ、慌てて返事をする。
ディヒトバイに目を向けないようにして急いで服を脱いだ。脱ぐ途中、腰に差していた空の鞘を見つける。
「あ」
「どうした?」
「海の中でナイフを使って、そのまま……。どこかで調達しないといけませんね」
「港町ならいいものが売ってるだろう。時間のあるときに見るといい」
「そうします」
窓があったので服を絞ってアカートに服を渡す。
「ゆっくり休めよ」
アカートはそう言い、服を持って甲板に向かった。
裸に毛布を巻いたまま船内をうろつく気分にもなれず、ハンモックに横になる。
暖かい毛布に包まり、ゆらゆらと揺れる中でいつの間にか意識は夢に溶けた。
その日、初めて父に会った。
七歳の誕生日を迎えたばかりの冬、家を訪ねてきた男は父だった。
悲しいとも、怒っているともとれる顔をしていた。
自分の子供に初めて会う喜びなど一切感じさせない顔だった。
――お前、子供を産んだのか! 誰の子供かわかってるのか!
夜に父が母に怒鳴るのを、扉の陰から見ていた。
母は父に抱きつき、必死に何かを言っている。
――でも、あの子は悪くない!
――お前は耐えられるのか、あいつが育って……。
その時、扉が音を立てた。
自分が隠れて見ていたのに気付き、父がこちらに歩いてくる。
――お前がいるから……!
言いながら父は頬を叩いた。指輪で肌を抉られ血が流れる。
泣き出した自分を母が宥めるが、何を言われても届かなかった。
何も知らない子供だったが、父が自分を嫌っていることを知った。
「大丈夫か」
体を揺さぶられて目を覚ますと、暗闇の中でディヒトバイの声が聞こえた。その声で今まで見ていた悪夢から解放されたのだと知る。
小さい窓からの月明かりでほのかに輪郭が浮かぶ以外に、何も見えなかった。ざあ、と波の音だけが響いている。
「うなされてた」
「……そう、ですか」
瞬きをすると頬をつたうものがあった。
「眠れるか」
波の音にかき消されそうなほど小さい声は夢の中の父とは違い、優しさに満ちているように聞こえた。
「どうでしょう。昼間からずっと寝ていたから……」
「港に着いたらナイフを買ってやる」
「え?」
「ナイフ、なくしたんだろ。俺を助けるために使って。俺が別のを買ってやる」
そう言ってディヒトバイはハンモックに戻って寝転がった。
「どういうのがいいか、決めておきますね」
その言葉が届いたかわからないが、言うだけで胸が軽くなった気がした。
――次があるなら相手をしてやる。次があるなら、な。
会ったばかりの頃、彼に言われた言葉を思い出す。
彼の言葉はいつも自分に夢を与えてくれる。未来に望みがあることを思い出させてくれる。だから自分は彼に惹かれたのかもしれない。
目を閉じ、頭の中でどんなナイフがいいか思い浮かべる。
自分は手が大きいから大きめのものがいい。持ち手は鹿の角かオークだ。
植物ならオーク、動物なら鹿が好きだ。鹿は特にヘラジカがいい。体が人間より大きいのが気に入っている。自分の名前はオークと鹿だから、それらが自分の仲間のような存在だと思っていた。
嫌なことがあって眠れないとき、ヘラジカになって森を歩く場面を想像する。
柳や樺の木が生えた誰もいない森の中を自由に歩いて木の皮を食べたり、角を研いだりする。湖に入って水浴びをしたあと、森の中で一番大きなオークの根元で眠る。
そういう場面を思い描くと、嫌なことも忘れて眠ることができる。
今日も悪夢など忘れ、同じように眠ろう。
この想像をするのは久しぶりだった。思えば、ディヒトバイと出会ってからは日々が満ち足りていた。
目は彼を常に捉え、声を聞き、手合わせや手伝いで心地よい疲れに包まれながら床につけばすぐに眠れた。悪夢の忍び寄る隙などなかったのかもしれない。
今日こんな悪夢を見たのは、きっと恐怖に襲われたからだろう。
ディヒトバイが触手によって海に引きずり込まれたとき、体が一瞬で冷え切った。
海に飛び込んでからも、目の前に彼がいるというのになかなか助けられない焦りで手が震えた。
今彼を失ったら、自分は一人で立っていることができないだろう。
何が起こっても彼を守ってみせる。そう決意を固めた。
それからクエルチアは森の中を歩く想像をした。
大きなオークの根元には狼が眠っていて、そのそばで眠った。
その後クラーケンが現れることもなく、天候にも恵まれ、予定通りにフリースラントに降り立った。船長にはずっと乗っていてくれと本気なのか冗談なのかわからないことを言われたが、仕事があると言うと笑って送り出してくれた。
今後のことを話し合うため酒場に入る。昼食時をいくらか過ぎて人がまばらになっている。空いている壁際の卓に座った。
「船を降りてしばらく経つってのに、まだ揺れてる気がするな」
「俺もです」
アカートの言葉にクエルチアは同意する。地面の上に立っているのに、地面がうねうねと動いているような感覚が止まない。ディヒトバイは何も言わないが、彼も同じなのだろうか。
軽食を頼むと、ニシンの漬物にピクルスと玉ねぎを添えたハーリングという料理と、ソーセージが出された。
船の上ではパン、チーズ、干し肉しか食べる物がなく、それを三日も続けると飽きもくる。久しぶりにそれ以外のものを口にすると、自然と笑みがこぼれた。
「これからだが、俺は教会に行ってスキュラの話を聞いてくる。その間は自由にしてていい」
食べ終えた後、アカートが今後の予定について話した。自由になる時間があるなら、その間にナイフを見に行けるかもしれない。主人に教会の場所を聞くと酒場を出た。
教会までは市場を通ると近道らしく、魚や野菜、果物などの食料、工芸品、金物屋など、様々な屋台の間を抜ける。
ファルケンベリでは見ないものも沢山あったが、ディヒトバイはさして珍しいとも思わないのか、脇目も振らずにアカートの後を歩くだけだった。
坂道を上った先に教会があった。作法に則って東向きに作られ、白い石を積み上げた堅牢な作りだ。茨の棘のように立ついくつもの尖塔に高い鐘楼、ファサードにあるばら窓が目を引いた。
石段の手前で三人は立ち止まる。
「そんなに長くはならねえから、適当に時間潰してくれ」
クエルチアとディヒトバイが頷くと、アカートは石段を登って教会の扉を潜った。
それを見送ることもなく、ディヒトバイはさっさと元来た道を歩き始める。
「ナイフ、見に行くぞ」
「はい!」
あの夜の言葉は嘘ではなかったのだ。そのことに喜びを噛み締めながらクエルチアはディヒトバイの後を追った。
初めて訪れる街、それも似たような屋台が建ち並ぶ中でナイフを扱っている店を探すのに手間取ったが、なんとか見つけることができた。
寡黙な店主が屋台を出していて、二人が商品を見てもちらりと一瞥するだけだった。
「色々ありますね」
クエルチアは体を屈めて、簾のように吊されたナイフを眺める。
女性の手に収まるようなものから、戦場で使うような大きめのダガーまで揃っていた。
そのうちの一つ、乳白色の柄をしたナイフに目が止まった。
「これ、見せてもらっていいですか」
声をかけると、店主はクエルチアにナイフを渡した。
一般的なものより少し大きめで、滑らかな鹿の角の柄は手に馴染むように握りやすかった。刃は鏡のように澄み渡っている。軽く振ったががたつきもない。
「いくらだ」
ディヒトバイが尋ねると店主は銀貨三十枚と答えた。
聞くが早いかディヒトバイは財布から金貨一枚を取り出すと店主に渡し、釣りは要らないと言った。
「い、いいんですか」
「これから移動するってのに銀貨をじゃらじゃら持ってても仕方ねえだろ」
「でも……」
「気にするな」
「……ありがとうございます。大事にしますね」
クエルチアは言って腰にナイフを差した。そして財布から銀貨を一枚取り出し、ディヒトバイに差し出す。
「刃物の贈り物をするときはこうやって買ったことにしろって、聞いたことがあって。縁が切れるからと」
「迷信だろ」
言いつつもディヒトバイは銀貨を受け取った。そして静かに口を開いた。
「次にああいうことがあったら、助けようなんて思うな。見捨てろ」
クエルチアの返事も待たずにディヒトバイは教会に向けて歩き出した。
見捨てろとはどういうことか。不安に駆られながらディヒトバイの背を追う。
教会に着くとアカートが石段の前に立っていた。
「今終わったところだ。詳しい話は宿でしよう」
アカートの言葉通りに、三人は宿に向かった。
アカートが宿にこだわりがあるようで宿探しは難航したものの、なんとか日が暮れる前に空きのある宿を見つけ、三人は部屋に落ち着いた。
宿というより遠方からきた羽振りのいい商人の滞在する商館といった風だったが、金さえあれば一見の客でも受け入れてもらえるようだった。
天蓋付きのベッドに柔らかいソファ、細やかな彫刻の施された机と椅子に、植物の模様が織られた大きい絨毯。クエルチアの思い描いていた宿屋とは何から何まで違う部屋に、小さく声を漏らした。
「ここ、随分高いんじゃないんですか」
「いいのいいの、宿代は俺持ちなんだし、キースに小遣いももらったからな。それとも板張りの床で雑魚寝がいいか?」
成人男性に小遣いをもらう成人男性というのもすごい話だと思ったが、そのおこぼれに与る手前、何も言わないことにした。
「それで、話というのは」
「そうそう、教会で聞いた話だったな」
言うとアカートはソファに座り、対面に座るよう促した。クエルチアはディヒトバイの隣に座っていいものかと一瞬彼のほうを見やったが、彼は何とも思っていないようだった。
アカートは二人の話を聞く準備ができたと見ると話を始めた。
「聞いたところによると、スキュラは北部の森にいるそうだ。まだ退治はされてないらしい。というのも、根城にしている森ってのが霧が深くて地元の人間も近寄らない、魔物を倒すどころの話ではないらしいんだ。場所が場所だけに曖昧な目撃談しかないが、五日前には魔物に襲われた賊の死体が発見されたそうだ」
「とりあえず、その森に魔物がいるってことですね」
「スキュラかどうかはわからないが、それこそ現地に行って確認するしかないだろう。ここからが大事な話だ。スキュラは一度退治されている」
「退治されてる?」
クエルチアの言葉にアカートは頷いた。
「ああ、スキュラはこの辺りの森にいて段々と北上したんだが、その途中、教会の騎士団がスキュラの現れた場所に出向いて退治しているんだ。谷に追い落とし、油をかけて燃やしたと。しかしスキュラは再び姿を現し、人々を襲っている」
「倒しても死なない魔物?」
「そうかもしれねえし、単に二体いただけなのかもしれねえ。だが、どちらにしても厄介なのは確かだ。見かけたら必ず退治するようにと言われたよ」
「そんな魔物、俺たちで倒せるでしょうか」
「やってみないとわからんだろう。明日からは北部の森に向かうことにしよう。俺はここの商人連中に道やら足やら聞くから、お前らはその間に風呂にでも入れ」
「ここ、風呂もあるんですか」
「あるって話だぜ。今日は休みのつもりでゆっくりしてくれ。……ディヒト?」
「あ、ああ……。すまねえ、何でもねえよ」
思い詰めるような表情をしたディヒトバイは、声をかけられて我に返ったように答えた。アカートは彼を心配そうに見つめる。
「何か不都合があるか?」
「……何も」
ディヒトバイはそう答えたきりアカートから視線を反らして押し黙ってしまった。
「何でもいいが、無理はするなよ。今のお前らは俺の護衛だが、キースの大事な稼ぎ頭でもあるんだからな。自分一人の体じゃねえってことだ。何かあったらすぐに言うんだぞ」
アカートは珍しく強気に言うと部屋を出て行った。早速商人に話を聞きに行くのだろう。自分勝手な男だが、それでいてまめに働く男でもあるというのが数日間行動を共にしたクエルチアの感想だった。
「ディヒトさん、大丈夫ですか」
「……大丈夫だ」
隣にいるディヒトバイに声をかけるも、その言葉に言葉通りの意味があるとは思えなかった。
ディヒトバイをそっとしておいたほうがいいかと思い、クエルチアは風呂に入った。海水でべたついている肌や髪を洗ってさっぱりしたその帰り道、ホールを通ると商人と話をしているアカートに出会った。
丁度話を終えたところだったアカートはクエルチアに気付くと、ホールの隅にあるソファに座るよう促した。促されるままにクエルチアはソファに座る。
「どうしました」
「どうしましたじゃねえ、今日はどうだったんだよ、二人きりになったんだろ?」
そのことかとクエルチアは納得すると、悩みながら話し始める。
「船の上でナイフをなくしたでしょう。その代わりを、今日ディヒトさんに買ってもらって。自分を助けるためになくしたんだから、自分が買うって」
「十分収穫があったんじゃねえか。何もなかったのかと思ったぜ」
「でも、それしかなくて……。話も何もできなかったし……」
「まあ待て、冷静に考えろ」
無駄に威勢のよかったアカートは更に威勢をよくし、身振りを加えながら話し始めた。
「あのディヒトがだぞ。一匹狼を絵に描いたようなディヒトが他人に贈り物を! これはかなり脈ありと考えていい」
「でも」
「どうした、浮かねえ顔をして」
クエルチアはアカートのほうを窺い、ため息をついた。
「次にああいうことがあったら見捨てろって、言われてしまって」
きっと自分のような若輩者に助けられたのが気に食わなかったのだろう。ディヒトバイの気分を害してしまったと落ち込むクエルチアに、アカートはにやにやしながら答えた。
「そんなの決まってるだろ、自分のために命を投げ捨てるような真似をすんなってことだよ。よく思われてる証拠じゃねえか」
「都合が良すぎやしませんか?」
「そんなこたあない!」
怪訝そうにクエルチアは問うと、アカートはなぜか自信満々に答えたのだった。
「ふふふ、予言しよう。この恋が必ず実るとな」
指を振りながらアカートは言った。
「何です突然」
急すぎるアカートの言葉に、クエルチアは疑わしいものを見るような目でアカートを見た。
「お前にゃ突然に見えても俺にゃ突然じゃねえの。確固たる根拠があんの」
「その根拠とやらを教えてくださいよ」
「そりゃあのとき船の上で……、って駄目だ。そこまで言ったらディヒトが可哀想だ。そこはそれ、保証されてんだから好き勝手やって当たって砕けろって意味だよ」
「船の上で何かあったんですか? それに砕けちゃ意味がないでしょう」
「勢いでディヒトと寝た割には細かいことを気にする男だな」
「そ、それは……」
アカートは不真面目だが嘘をつくような人間ではない。しかし、だからといって他人を弄ぶような言動はどうかと思いながら、クエルチアはため息をついた。
「でもディヒトさん、さっき様子がおかしくなかったですか?」
クエルチアが言うと、アカートは痛いところを突かれたというように唸った。
「まあな。フリースラントに行くって聞いた時点で相当嫌がってたし、さっきは怖い顔をしてたもんな。行きたくない場所があるみてえだ」
「何か、力になれればいいんですけど……」
クエルチアが言うと、アカートはクエルチアの肩を叩いた。
「それは俺に言うんじゃなくて、ディヒトに言ってやんな」
アカートは言うとソファから立ち上がる。
「作戦会議は以上だ。部屋に戻ろう」
言うほど作戦会議だったのかは疑問が残るが、何も進まなかったわけではない。
自分がそこまでディヒトバイによく思われているかは実感が湧かないが、嫌われているわけではないことを他人から言ってもらえるのは安心する。
彼がこの旅に不安を抱えているというなら、せめてその助けになろう。そして、それを伝えよう。
クエルチアはそう決めて部屋に戻るアカートの後を追った。
その後、結局ディヒトバイと話すことはできずに就寝を迎えた。
彼はずっと剣呑な雰囲気を纏っていたし、アカートの前で何かを言えば後にからかわれそうで、クエルチアから何かを切り出すことはできなかった。
ベッドが一つしかないため、体が一番大きいからベッドを使えと言われてしまった。年長者をソファに寝かせるのはどうかと思ったのだが、二対一では逆らう道理もない。
落ち着かない気持ちで寝ることになったのだが、その所為なのか夜中に突然目が覚めてしまった。視界の端で何かが動いたような気がして見てみると、人影が扉を潜って部屋から出て行くところだった。
体を起こしてソファのほうを見ると、アカートが自由な寝相で寝ている。出て行ったのはディヒトバイなのだろう。
クエルチアは気になって後を追うことにした。もしかしたら、二人で話すことも叶うかもしれない。
音を立てないようにして部屋を出ると、廊下の向こうに人影が消えた。廊下の先はバルコニーに続いている。
廊下からバルコニーを覗くと、手すりにもたれてぼんやりと空を見ているディヒトバイの姿があった。
静かに近寄ろうとして歩を進めた瞬間、強い衝撃が頭を襲う。
「いたっ」
バルコニーのアーチに頭をぶつけて思わず言葉が出てしまい、ディヒトバイが振り返ってしまった。
「大丈夫か」
「な、慣れてますから……」
ぶつけた箇所をさすりながらクエルチアはディヒトバイの隣まで歩み寄る。
「起こしちまったか。悪いな」
そう言うディヒトバイの険のある雰囲気はいくらか和らいでいるように見えた。
「眠れませんか」
「……いらねえことばかり考える」
彼は小さい声で答えた。
今まではこの一歩をためらっていた。しかし、この一歩を踏み込まないと何も変わらないのだ。覚悟してクエルチアは言葉を口にした。
「それは、ここに来たからですか」
「……そうだ」
警戒しているような、わずかに棘のある返事だった。
「その、深く聞きたいわけじゃないんです。誰にだって言えないことはあるし……。俺はまだまだ頼りないかもしれないけど、こう思ってます。ディヒトさんが困っているなら、力になりたいって」
自分がディヒトバイの力になるなどおこがましいかもしれなかったが、それでも自分はそう思っていることを伝えたかった。言っている最中に恥ずかしくて、最後のほうはしどろもどろになってしまったが、力になりたいとちゃんと言葉にした。
クエルチアが不安の中恐る恐るディヒトバイのほうを見ると、彼は呆気に取られたように気の抜けた顔をしていた。
それも一瞬のことで、見られてはいけない顔を見せてしまったとでも言うようにさっと顔を背け、大きなため息をついた。
「や、やっぱり、俺じゃ力不足ですよね……。すみません、変なことを……」
「そうじゃねえ、そうじゃねえんだ」
ディヒトバイは珍しくクエルチアの言葉を遮った。
「年下にそんなことを言わせちまうくらい情けねえざまを見せちまってんのかと、そう思っただけだ。お前は悪くない」
そして一呼吸置いてから、口を開いた。
「嬉しくないってわけじゃねえんだ。ただ、これは俺一人の問題なんだ」
それだけ言うとディヒトバイは踵を返し、部屋の中に戻っていった。
去り際に一言。
「ありがとうな」
その言葉だけを残して。
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