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第4話

 翌日、宿で知り合った商人が北に向かうというので荷馬車に乗せてもらうことになった。  朝早くから出発し、いくつかあるうちそれほど荷物の載っていない荷馬車に乗り込み、揺られ続けること一日。  ちょうど街道の岐路にさしかかり、更に北へ行くクエルチア達と商人は別れた。  日が沈むまではもう少しあったので、野宿に適した場所を探しながらブナの生える森の中を進んだ。 「もうちょっと進むと例の霧のかかった森に出るんだが、どうにもきな臭い話を聞いた」  アカートが歩きながら口を開いた。 「と、言いますと」 「ここの領主が最近賊狩りをしんだが、生き残った残党が霧の森に逃げ込んでいるという話なんだ。もしかしたら、どこかで鉢合わせするかもしれねえな。ま、そういう時のためのお前達だ。上手くやってくれよ」 「頑張ります。旅に出てからずっと寝てばかりでしたからね」  クエルチアが答えると、アカートは満足そうに笑った。  しばらく進むと足下に霧がかかり始めた。まだそれほどではないが、これから日が沈み空気が冷えると更に濃くなるだろう。空も暗い雲が広がり、いつ雨が降ってもおかしくはない。 「おっと、霧が出てきたな。雲も怪しくなってきたし、今日はここら辺で野宿をするか」  薪を集めながら進むと、ちょっとした崖が抉られて庇のようになっている場所があった。木の根がしっかりと張っていて崩れ落ちる心配もなさそうだ。これなら雨が降っても濡れないだろう。  荷物を下ろし、集めた薪に落ち葉を乗せて火を点ける。無事に薪に火が燃え移ったことを確認すると人心地がついた。 「そういえば、森に滞在する期間はどのくらいなんですか? 一週間くらいの食料は確保しましたけど」 「準備の段階では一週間と言ったが、今考えてるのは三日くらいだな。思ったより霧が濃い。この中を歩き回るのはそれくらいが限界だろう。成果を出すまで帰ってくるなとでも言われてれば別だが、元から期待されてねえんだから三日も探せば十分だ」 「そうですか」  答えながら、クエルチアは内心ほっとした。ディヒトバイの調子が万全ではない以上、彼にかかる負担は少ないほうがいい。スキュラを求めて森を彷徨う期間が予想より短いのは歓迎だった。 「お前はこの辺りについて何か知ってることはあるか?」  アカートがディヒトバイに尋ねる。ディヒトバイが乗り気でないことは知っているが、それ以上に確かな情報がほしいのだろう。  何かを逡巡するような少しの沈黙のあとに口を開きかけた瞬間、何かに気付いたディヒトバイがはっとしたように顔を上げ、ある方向を見る。 「やれっ!」  男の声がし、霧に紛れて賊が襲いかかる。  ディヒトバイは跳ねるように立ち上がると魔鎧を纏って声を上げた。 「そいつを連れて逃げろ! 北に行くと川がある、上流に向かえ!」 「ディヒトさんは……」  同じく魔鎧を纏い、アカートを守るように得物を構えたクエルチアが周囲の様子を窺いながら問う。 「俺が止める、早く行け!」  クエルチアが言葉に迷う時間もなく、ディヒトバイは賊に斬りかかった。 「……また会いましょう!」  それを見て覚悟を決めたクエルチアはアカートを担ぎ上げ、北に向けて走った。背後の剣戟の音が徐々に遠ざかる。  賊の人数もわからないままアカートを守って戦うのは圧倒的に不利だ。霧で視界もなく、クエルチアの戦斧は森の中では取り回しが悪い。  アカートを守り通すことがクエルチア達の目的ならば、一旦別れてでも態勢を立て直すことが重要だ。  魔鎧を持つディヒトバイなら賊が何人襲いかかろうと後れを取らないだろうというのが唯一の救いだ。しかし、それとて不安を完全に拭い去るとは言えなかった。  川の水の流れる音が聞こえ、音のするほうに向かうと確かに大きめの川があった。  霧の中でも無事目的地に着いたという安心に立ち止まり、息を整える。 「大丈夫か? もう下ろしてもらっても構わねえが……」  アカートの言葉を聞いて、クエルチアはアカートを担いでいることを思い出した。 「念のために川を渡りましょう。濡れないように気をつけてください」 「お、おう」  アカートを担ぎ直して慎重に川に踏み込む。流れが遅くても油断ならない。川は思ったより深く、一番深いところでは腰ほどもあった。  時間はかかったが無事に渡り終え、改めて息をつく。アカートを地面に下ろすと随分と体が軽くなった。 「大丈夫ですか」 「ああ、お陰様で」  辺りの様子を窺うが黄昏時に加えて霧で遠くは見えず、物音も川の水の音にかき消されていた。 「また野宿をする場所を探さねえとな。次は念のため火も焚かねえほうがいいだろう」  言ってアカートは川沿いを歩き出す。その背を見つめながら、クエルチアは元来た道を振り返った。 「ディヒトさんは大丈夫でしょうか」 「あいつなら上手くやるさ。川があるって知ってたってことは、ここの地理にも明るいみてえだしな。さ、歩いた歩いた。人の心配する前に自分の足下を固めにゃあ」  アカートの言葉に、クエルチアは背中を押されたように歩き出した。  剣から滴る血を払い、魔鎧を解く。  丸太を粗雑に組み上げた小屋の中に、血に染まっていない場所などなかった。  手間かけさせやがって。  言おうとして開きかけた口も面倒で開ききらなかった。  襲ってきた賊を斬り伏せ、わざと少数を見逃して帰し、後をつけて根城を襲った。  アカートの言っていた通り、縄張りを追いやられた賊の残党だろう。  霧に紛れて三人連れを襲う。実入りは少ないが新天地で自信をつけるために失敗のない計画をした。  だが誤算があった。三人のうち二人が魔鎧を持っていた。ただ襲われるだけだった人間が牙を剥き、抗えぬまま賊は死んだ。  二人には川の上流に向かうように言った。何もなければ明日には合流できるだろう。  小屋を出る。日暮れにはまだ時間があるはずだが、暗く沈んだ雲のおかげで夜に等しい暗さだった。  来た道を辿って火を焚いた場所まで戻る。荷物は置いたときのままだった。三人の分をまとめて背負うとまた歩き出す。  途中に倒れたばかりの木があった。その下ならば寝るのに丁度いいだろう。死体と同じ屋根の下に眠るつもりにはならない。  少し歩き始めてから、ぽつり、ぽつりと滴が額を打った。苦々しく舌打ちをする。小屋の外で全てを仕留めるべきだった。そうすれば今夜は何の心配もなく眠れたはずだ。  ――――。  細く伸びる、狼の遠吠えが聞こえたような気がして足を止める。  呼んでいるのか、遠ざけているのか。  自分を落ち着けるように深く息を吸って吐き、再び足を進めた。 「雨、強いですね」 「お前はいいよな、鎧を着れば濡れないから」  大きな木の下で雨宿りをしながら、クエルチアとアカートは言葉を交わした。  アカートの亜麻の外套はおろか、その下の紫紺の服までずぶ濡れになって肌に張り付いている。クエルチアはというと、雨が降ってからは魔鎧を身につけて滴一つさえ体に届くことはなかった。  二人は川の近くで一晩を明かし、夜が明けてから川の上流に向かっていたところ、先程から激しい雨が降り始めて足止めを余儀なくされていた。  叩きつけるような音のする雨は、否応にもクエルチアの不安を煽る。 「無事に、ディヒトさんと合流できるんでしょうか」 「川の上流なら一本道だ。そう難しく考えることじゃねえよ」 「ですけど……」  クエルチアが言い淀んだとき、視界に動くものを認めた。その影は動物ではなく人のものだった。 「ディヒトさん!」 「無事だったか」  雨に濡れながらディヒトバイは歩いてきた。その姿にはやや疲れが見えているものの、しっかりとした足取りだ。二人の元まで歩いてくると、肩にかけていた荷物を地面に下ろす。 「荷物、持ってきてくれたんですか」 「ああ」 「賊は……」 「全員斬った」  それだけ言うと革のコートを脱ぎ捨て、濡れた服を脱いで絞った。今はディヒトバイの体に見惚れている場合ではないと、クエルチアは目を反らす。 「なんだ、派手な刺青してんな。そんな刺青入れるようには見えねえが、若気の至りか」  ディヒトバイの腹にある狼の刺青を見て、アカートが茶化すように言う。 「ま、俺も人のことは言えないがね」  アカートも濡れた服を脱いで絞る。そう言う彼の胸にも大きな刺青があった。円を基調に構成された何かの文様は真ん中から左右にちぎったような独特な形をしている。 「お前のほうが若気の至りって気がするな。代書屋風情には過ぎたもんじゃねえのか」  珍しくアカートに言い返したディヒトバイの言葉には棘があった。しかし、それをものともせずにアカートは笑う。 「言うねえ。お前の言うとおり、確かに若気の至りなんだが。だが、ただの刺青じゃねえ、悪魔の徴(しるし)だ」 「悪魔?」  クエルチアは思わず声に出していた。ディヒトバイも言葉にはしなかったが視線をアカートに向けている。 「俺の体には怖い怖い悪魔が封印されてんのさ。おっと、もっと近くで見られるのは俺と夜を共にしてくれる姉ちゃんか兄ちゃんだけだぜ。ま、どうしてもって言うなら一晩くらいは……」 「誰がするか」  最後まで聞くに及ばないとディヒトバイは切り捨てた。 「冗談だよ、じょうだ、ん?」  肩を叩かれアカートがクエルチアのほうを向くと、今までにないほど鋭い目つきをした彼の顔があった。大きな体躯に加え、今は鎧を着ているので余計に威圧感があった。  無言で腕を引っ張られ、少し離れた場所に立たされる。微妙に枝の届かない場所で雨粒が次から次へとアカートの体に降り注いだ。 「何をディヒトさんに粉かけてんですか! 俺を応援してくれるって!」  アカートの肩をがっしりと掴んで揺さぶりながらクエルチアは小声で問い詰めた。 「焦るなよ、搦め手ってやつだろうが。他の相手に言い寄られたときにはっきりする自分の本当の気持ちってのがあるんだよ、世の中には」  アカートは揺さぶられながらもわずかに引きつった声で答える。 「本当ですか。本当にディヒトさんのことは何とも思ってないですか」 「思ってねえよ。一晩だけなら面白そうだと……」 「アカートさん!」  冗談か本気かわからないアカートの言葉に、声を小さくすることも忘れてクエルチアが叫ぶ。 「何かあったか」 「い、いいえ何も!」  ディヒトバイに声をかけられ、クエルチアは慌ててアカートを解放し誤魔化した。怪訝な目で見ていたディヒトバイだったが、しばらくすると興味が失せたのか服を絞ることに専念した。 「これからどうする」  絞った服を再び着てディヒトバイが問うと、アカートも服を着て唸りながら答える。 「どうするったって、雨が止まねえことには何もできねえからなぁ。明日も雨ならさっさと帰るか。歩き回れないんじゃあ調査どころじゃねえし」  アカートが言うと、クエルチアが呆れたように声を上げた。 「帰るって、何のためにここまで来たんですか……」 「帰りに観光して帰ればいいだろ」 「そういう問題ですか?」 「そういう問題だ。俺の護衛だってのに俺以上に真面目になるんじゃないよ。この旅の全ての決定権は依頼者の俺にある。俺が観光して帰ると言ったら、何もなくて楽だくらいに思っとけばいいんだ」  アカートの言葉に納得いかないようにクエルチアは唸った。  雨は止む気配はなく、依然としてざあざあと降り続けている。  りん、と。  雨音の中に鈴の音が聞こえた。  三人が耳慣れない音に周りを見ると、いつからいたのか、少し離れた場所に男が立っていた。  骨の先に鈴がついた黒い傘を差し、ゆったりとした真っ黒なローブを着ている。肩までの髪も同じように真っ黒だった。 「こんにちは」  男は笑いながら声をかけてきた。  警戒したディヒトバイがアカートの前に出ようとすると、アカートはそれを制して口を開いた。 「こんにちは。見たところ魔法使いのようだが、俺たちに何か用かな?」  アカートが魔法使いに尋ねると、魔法使いは優しく微笑んだ。 「昨日までこの辺りに賊がいたんだけど、今日になったら死体で見つけてね。もしかして君たちが片付けてくれたのかなって」 「その通り。俺の護衛は腕が立つんだ」  魔法使いはディヒトバイとクエルチアを検分するようにじっと見ていた。やがて口の端を上げて満足そうに笑う。 「じゃあ、君たちを片付ければ、この森には誰もいなくなるんだね」  魔法使いは傘を閉じ、傘の先で地面を突いた。再び鈴が鳴る。魔法使いの前の地面に光芒が現れ、魔法陣を描いた。  その中心からせり上がるように出てきたのは豊かな黒髪を持つ見目麗しい女だった。しかしただの女ではない。腰には六つの犬の頭と十二の犬の足、魚と蛇を掛け合わせたような下半身を持っている。その姿こそオデュッセイアに描かれる怪物、スキュラであった。 「まさか、てめえが……!」  アカートが言い終える前にスキュラの腰の犬の首が伸び、牙を見せてアカートを食おうとした。それを魔鎧を纏ったディヒトバイが前に立ち剣で防ぐ。  三列に並ぶ鋭い犬の歯は鋸を連ねたようで、剣さえ噛み砕かんと牙を立てる。これが魔鎧と揃いの剣ではなく普通の剣であったら、瞬く間に折られていただろう。 「僕はこの森を気に入ったんだ。霧が深くて、静かで……。この森に僕の工房を作りたい。賊やここに住んでいた者たちのように、死んで静かになってくれ。その死体で怪物を作る、無駄にはしないさ」  魔法使いが微笑みながら言うと、残りの犬の首も伸びて三人を襲う。  魔鎧を纏ったクエルチアが伸びた首を叩き切ろうと上段から戦斧を振り下ろすが、幾重にも折り重なった固い毛は刃を通さなかった。  ディヒトバイの剣に噛みついていた犬の首が大きく振り上げられ、ディヒトバイは勢いよく木に叩きつけられた。衝撃を受けた木が音を立てて折れる。  地面に伏したディヒトバイは苦痛に耐えながら剣を支えに立ち上がる。  そのときクエルチアが犬の首を払い、ディヒトバイの目の前に無防備な首が晒された。 「ディヒトさん!」  好機にクエルチアがディヒトバイの名を呼ぶ。しかし、ディヒトバイは剣を構えるだけだった。まるで何かをためらうように。  体勢を戻した犬の首は再びディヒトバイに食らいつく。剣に犬の首が噛みつき、身動きが取れなくなった。それを狙って他の犬の首もディヒトバイの体に牙を立てる。 「ぐ、う……っ」  強固な魔力で編まれたスキュラの牙は魔鎧の加護すら貫通し、その表面に亀裂が入る。  クエルチアは自分とアカートを守ることで精一杯で、ディヒトバイの助けにはなれなかった。 「このまま僕のスキュラで遊ぶのもいいけど、魔鎧持ちが二人もいるならこっちのほうが面白いよね?」  魔法使いが再び地面を傘で突き、鈴を鳴らす。その音を聞いて犬の噛む力は更に増し、魔鎧の亀裂は更に大きなものとなり、ついに、割れた。  赤い光がディヒトバイの体を包み、生身の体が露わとなる。その隙をついてスキュラの手がディヒトバイの頭を鷲掴みにした。 「ディヒトさん!」  クエルチアが叫ぶも犬の首は攻撃の手を緩めず、クエルチアをその場に縫い止めている。  スキュラはディヒトバイの頭を掴む手に力を込めると、黒い光となった魔力を注ぎ込んでいく。 「同士討ちさせてやる!」  魔法使いが下卑た顔で笑うと、スキュラはディヒトバイを投げ捨てた。  黒い光に全身を包まれディヒトバイは何かに耐えるように体を折って苦痛に耐える。 「う、ぐっ……、ああああああっ!」  ディヒトバイは頭の中に入り込んでくる魔力に抗おうとするが、泥沼の中に突き落とされたように体が、思考が鈍っていく。  同時に自分の中に湧き上がる明確な敵意を押さえつけるも、最早視界は黒く染まり、誰に剣を向けるべきなのかもわからなかった。  目が、目が浮かんでいる。  暗闇の中に狼がいる。  狼は高く吠えた。  ――――。  吠え声が、響く。  その瞬間、その場にいた誰もが何が起こったかわからなかった。  ディヒトバイに纏わりついた黒い光が膨れ上がり裂けるように消え去った後、そこにいたのは異形だった。  見上げるほどもある巨躯をした黒い狼。黄金色の瞳は爛々と輝いている。  誰もが霧と雨に煙る中で見た幻とさえ思った。  しかし、体が感じ取る確かな恐怖にそれが現実だと知った。 「な、なんだ、これは……」  最初に声を上げたのは魔法使いだった。その声に黒狼は振り向き牙を剥く。弾けるように走り出した黒狼の前に、主人を守るようにスキュラが立ちはだかった。  犬の首が伸びて黒狼に牙を立てるも、それをものともせずに走り続けスキュラに食らいつく。柔らかい肉を噛み切るように容易くスキュラの体は両断された。青い体液が噴き出し、力を失った体は地に落ちて腐った肉に成り果てる。  スキュラの負けを察した魔法使いはすでにどこかに姿を消しており、クエルチアとアカートだけがこの場に残った。  黒狼は口の周りを体液で汚し、噛まれた箇所から血を流しながら雨に打たれていた。 「ディヒト、さん……?」  クエルチアが恐る恐る声をかけると、黒狼はゆっくりと振り返った。  黄金色の瞳と視線がかち合い、クエルチアはその眼に理性が宿っていないことを感じ取った。狼がこちらに向けて走り出した瞬間、後ろにいたアカートを担ぎ上げて一目散に逃げ出す。  ――――。  雨の中に、獣の遠吠えが響いた。  アカートを担いだまま森を駆けると、突然開けた場所に出た。  木でできた家がまとめて建っており、何かの集落のようだった。 「こんなところに、村が……」 「下ろしてくれ」  アカートに言われ、クエルチアは彼を地面に下ろす。アカートが近くの家に歩いていくのでその後ろをついていった。 「戸が開いてる」  アカートはそう言って中の様子を窺う。その顔はすぐに険しいものになった。 「どうしました」 「食われてる。あの魔法使いとスキュラだ。ここに住んでいる人間にも手を出したようなことを言ってただろう」  言いながらアカートは家から出てきた。その顔には怒りが滲んでいる。 「他の家も同じだろう。余所者が入り込んだのに誰も寄ってこない」 「村の人間を、全員殺したというんですか」  クエルチアは辺りに立ち並ぶ家を見回す。隣の家の戸口には死体があった。 「死体から怪物を作って自慢するような奴だ。まともな感性なんか持ってねえよ」  アカートは自分の怒りをぶつける何かを探すように歩き出した。  一番大きな家の裏には入り口が狭くなった洞窟があり、そこに二人は滑り込んだ。 「これならあいつも入ってこれないだろう。少しは安心できる」  言ってアカートは外套のポケットから何かを取り出した。小さなガラス球を岩壁に叩きつけて割ると、中から光球が現れた。ぼんやりとではあるが辺りが照らし出され、少しだけ気が楽になる。 「こ、れは……」  光に照らされ露わになった、空間の隅に積まれているそれを見て二人は言葉をなくした。  ばらばらになった人間の体が山と積まれていた。まるでごみだとでも言うように。体は血に染まらない箇所などなく、顔は苦痛に満ちたままで止まっていた。  周囲に目をやると何かの祭壇らしく、床には血で描かれた魔法陣が、壁を削って作った壁龕(へきがん)には装飾を施された数々の動物の骨が安置され、それに供えるように生首が置かれていた。 「何かの儀式をした跡ですか」 「元からある祭壇を利用してスキュラを治したんだろう。あいつがいる限りスキュラは何度でも蘇るってわけだ。……ん?」  アカートは何かを見つけたように声を上げた。 「おい、これ見てみろ」  アカートが示したのは人の右足だった。その足には大きな鳥の刺青が彫られている。細やかな文様はどこかで見たような気がした。 「これ、ディヒトの刺青に似てねえか」  クエルチアはディヒトバイの刺青を思い出す。形こそ違っているが、基本的な模様は同じものだった。 「こっちの手にもあるな。これは魚か?」  クエルチアは途中で目を背けたが、アカートは一通り死体を検分すると満足そうに唸った。 「なんとなく、わかってきた気がするな」  アカートは言うとため息を吐いた。 「本当ならあんたたちの作法に則って葬ってやりたいが、今は緊急事態だ。これで許してくれ」  そう言うとアカートは空中に指を走らせ何かを呟く。するとどこからか炎が現れ、音もなく死体を燃やし灰にした。 「さあ、これで本当に安心だ」  アカートは灰から離れ、平らな場所を見つけて座る。クエルチアもその向かいに座る。足の力が抜けてへたり込むといったほうが近かった。 「ディヒトさんは、どうなるんです?」  独り言のようにクエルチアは零した。何が起こったのかも、今この場で自分に何ができるかもわからない。ただ、困惑と不安だけが胸を占める。 「戻らなければこのままだろう。だがそれじゃこっちが困る。あいつを戻す方法を見つけなきゃな」 「でも、戻すって……」 「焦るな、冷静になれ。まず俺たちが知っていることは何か、だ」 「知っていることって、俺は、何も……」 「だから落ち着けって。俺たちは何も知らないってわけじゃないんだ」  クエルチアを宥めるようにアカートが言う。 「何から話したもんかな。そうだな、魔法使いの言ったことだ」 「魔法使いの言ったこと?」  クエルチアが鸚鵡返しに問うとアカートは頷いた。 「あいつは同士討ちさせてやる、と言った。あの魔法使いは、お前とディヒトを同士討ちさせるためにあいつの精神に干渉する魔法をかけた。しかしなぜかディヒトは狼に変わった。そしてその狼は俺たちではなくスキュラを襲った。今のあいつは魔法使いに操られているわけじゃない。目の前にあるものを襲っただけなんだろう」  アカートはそこで言葉を切ると、言葉を整理するように少し間を開けてから口を開いた。 「魔法において変化という現象は万能じゃない。変化させる対象が内包する要素を表出させる。これが変化の大前提だ。人を狼に変化させたり、鳥を魚に変化させることはできない。人は狼の要素を持っていないし、鳥は魚の要素を持っていないからだ。だが、あいつは狼に変化した。つまり……」 「ディヒトさんは狼の要素を持っていた?」 「そういうことになる。まあ、ミドルネームのウオルフ、狼の刺青、狼の鎧と、あいつの周りには狼を示すものが多いから、今更な話ではあるんだがね。伊達ではなかったということだ」 「もしかして、ディヒトさんは狼男なんですか?」  クエルチアの言葉に、アカートは静かに首を振った。 「それは俺も考えたんだが、別の理由でその線はなくなった。奴が魔鎧を持っているからだ」 「魔鎧が?」 「お前たちが持っている魔鎧、それが何を元に作られているか知ってるか? 水銀だ。狼男の弱点は銀。それを持ち歩くどころか身に纏って平気でいられることを考えると、あいつは狼男や魔に類するものではない、ただの人間なんだろう」 「ちょっと待ってください、でも、狼の要素を持っているって……」 「そうなんだ。状況からすると、あいつはただの人間でありながら狼の要素を持っていることになる。これは矛盾するように思えるが、さっきそのからくりがわかった」 「本当ですか」  クエルチアが問うと、アカートは先程燃やした死体の灰のほうを見やった。 「ディヒトは最初からフリースラントには来たくなかった。霧の森に行くとなると更に様子がおかしくなった。そしてさっきの戦いだ。あいつは隙を見せたスキュラに対し攻撃しなかった。クラーケンや賊に対して一も二もなく飛び出したあいつが、スキュラにだけは攻撃をためらった。そしてこの場所にあった死体の刺青と似たディヒトの刺青。ここまで揃えば大体わかる。あいつは自分で刺青を入れるような人間には思えないだろう。しかし事実として腹に大きな刺青がある。多分あいつはここで生まれ育ったんだ。そしてこの場所の風習に則り刺青を入れた。他の死体と模様が似ているのはそのためだ。では何のために刺青を入れるか。それは先祖――族霊を示すためだ。ここには族霊信仰(トーテミズム)が根付いていたんだ」 「トーテミズム?」 「自らの氏族の先祖、族霊を自然の内に見出し、それを信仰対象とする信仰のことだ。これは原始的な宗教の形で、姓の発端を族霊信仰に見る者もいる。ディヒトの氏族は狼を族霊としていたんだろう。あいつの先祖は人間であると同時に狼、その子孫であるディヒトも人間と狼が重ね合わせになったまま生きている。あいつにとって人間と狼は等価値なんだ。そこに精神に干渉する魔法をかけられ、人間と狼の境界が壊されてしまった」 「それが、ディヒトさんが狼に変わった理由なんですか?」 「細かいところは違っているかもしれないが、大筋はこの見方で合っているはずだ」 「変わった理由はわかりましたが、ディヒトさんを人間に戻す方法は……」  クエルチアの言葉にアカートは大きく息を吐いた。 「変化する、ということは同時に不安定ということでもある。変化したばかりのあいつはまだ不安定な部分があるはずだ。強く刺激をすれば人間の側に戻せるかもしれねえ」 「それは、一体どうやって……」  アカートは口に出すのをためらうように押し黙ったが、渋々といった様子で口を開いた。 「族霊信仰には大きな禁忌(タブー)が二つある。それを犯した者は共同体からの追放、あるいは死を以て償うものとされる。一つは族霊を表すものへの禁忌。採取する、食べる、そして殺す。これらの行為を禁止する。だからディヒトはスキュラに対して攻撃しなかった。スキュラの腹には犬の頭があったからだ。狼を族霊とするあいつにとってあれは殺せないものだったんだろう。もう一つは、族霊が同じ人間と交わることを禁ずる禁忌。ディヒトはこのうちどちらかを破ったんだろう。だからここから追放された。ここに戻りたくなかった。それはディヒトの中でも強い記憶として刻まれているはずだ。それを刺激してやれば人間の側面を強く意識するだろう。禁忌を敷き、それを破るのは人間の特権だからだ」 「そんな……」  クエルチアは悔しそうに歯噛みする。 「それしか方法はないんですか、アカートさんの魔法や何かで元に戻すことはできないんですか」 「時間も手間もかけりゃもっと別の方法ができるのかもしれねえが、今俺たちにできることと言ったらそれ以外にない」 「そんな、そんなことをする資格が俺たちにありますか? ディヒトさんを元に戻すとためはいえ、心の中に土足で踏み込むような真似をするなんて……」 「優しいね、お前は。……俺がやろう、元からあいつには嫌われてるんだ。お前は時間を稼いでくれればいい」  アカートは岩の隙間から外を窺う。外の雨は止み、雲間から半月が覗いている。 「これを」 「鎖……?」  クエルチアはアカートから受け取ったものを眺める。手のひらほどの鎖で、先には金属で作られた球がついていた。その表面には複雑な彫刻が施されている。 「それを投げつけると魔法が展開されて動きを止められる。その間に俺がなんとかしよう。月も出ていることだし、何かがあってもあいつの確保くらいはできるだろう」 「……無理はしないでください」  言って、二人は外に出た。  早くしなければディヒトバイは二度と人間に戻らないかもしれない。 「幸運なことにあいつは強い魔力を帯びてる。場所を探すのは簡単だ」  アカートが歩き出すと、クエルチアも魔鎧を纏って歩き出した。  一人だった。  一人でいた。  一人でしか生きられないと思っていた。  一人では生きていけなかった。  俺は、一人だ。  共に歩むのは恐怖のみ。  死の恐怖ではない。  この世の全ての人間が、突如として自分に牙を剥く。  その恐怖がずっとこの身を苛んでいた。  怖い。怖い。怖い。  自分はどこにも居場所がない。  今は、違う。  自分は人間ではないのだから、人間のことなど歯牙にかける必要もない。  ただ欲するままに食らえばいい。  ここには人間の理など、ない。  人間としての情も、ない。  ここにいるのは、狼だけだ。  誰もそばにいなくていい。  牙があれば、俺は一人で生きていける。 「いました」  クエルチアとアカートはディヒトバイの痕跡を辿り、その姿を見つけた。  黒狼は何かを思案するように泉のそばに佇んでいる。 「お前があいつを鎖で止めたら、あとは俺が何とかする。何かあったら、また担いで逃げてくれよ」 「はい」  クエルチアが頷くとアカートは足下の石を拾い、黒狼に向かって投げた。それを追うようにクエルチアも走り出す。  空を切る音に気付いた黒狼は音のしたほうを見つめ、やがて走り寄るクエルチアを認めると牙を剥いて襲いかかってきた。  その巨躯に向けてクエルチアは鎖を投げつける。  放たれた鎖は黒狼の体にぶつかると大きくなりながら幾多の鎖に分かれ、黒狼に巻き付きその場に縫い止めた。 「――――!」  地の底を這うような唸りが辺りに響き渡る。黒狼は拘束を解こうと暴れるが、もがけばもがくほどに鎖は強くその巨躯を締め付ける。 「今です!」  戦斧を構えながらクエルチアが叫ぶ。 「よくやった!」  クエルチアの陰からアカートが出てきて言い、そのまま黒狼と対峙した。 「hagal,eihwaz,othila(ハガル、エイワズ、オシラ)」  中空に指を滑らせるとその軌跡に光が走り、三つのルーン文字を描いた。変化、再生、過去を意味する文字はやがて光弾となって黒狼に奔る。  しかし光弾は見えない壁に阻まれたように火花を散らして消え去り、黒狼に届くことはなかった。 「弾いただと……!」 「危ない!」  クエルチアがアカートを押しのけたのと、鎖が弾けて黒狼が解放されるのはほぼ同時だった。 「ぐっ……!」  すんでの所でクエルチアが黒狼の牙を戦斧の柄で押し止める。あと一瞬判断が遅れていたら二人とも噛み砕かれていただろう。 「逃げて!」 「十秒、十秒だ! それだけ時間を稼いでくれ!」  黒狼から遠ざかるように走り出しながらアカートは叫んだ。 「買い被られた、ものですね……!」  目の前に地獄が口を開けている。  一つ一つの牙が剣のように鋭く、一際大きな犬歯はよく磨かれた鉄杭のようだ。上下の臼歯に挟まれたら鉄でさえ砕かれるだろう。  そのどれもが自分を殺すために向けられている。一瞬でも気を抜いたら魔鎧ごと食われる事実を目の前にして、十秒も時間を稼げとは。  黒狼が距離を取ると、クエルチアはアカートの元に向かわせまいとそれを追い、力の限り戦斧を振るった。  先程のスキュラでさえ固い毛に阻まれて刃が通らなかった。なればそれ以上の力を持つ黒狼に刃が届くはずもない。こちらが渾身の力を込めて叩き切るつもりで、やっと打撃として通るのだ。手加減など考えている暇があれば殺される。  不意に、アカートの声が耳に届いた。 「ここより始まる(インキピット)――。月影の下に花は眠る、茎に花は頭を垂れる。花の梢は絶えず揺れ、囁くは覚めぬ夢。眠れ、眠れ、眠れよ、我が子――。今ここにその名を呼ぶ。砂男(ザントマン)!」  一陣の風が吹き、どこからか吹いてきた砂が舞い上がる。 「――――!」  黒狼は何かが変だと気付き、クエルチアから離れて吠える。その体を砂が包み込み、まるで砂に攻撃されているかのように地面をのたうち回っている。  クエルチアが辺りを見渡すと、黒狼を見下ろすように翁が宙に浮かんでいた。ローブを纏った姿で、辺りに漂う砂は肩に負った袋から流れ出ているようだ。  黒狼を警戒しながら、クエルチアは少し離れた場所に立っているアカートの元に向かう。 「何ですか、これは……」 「砂男を召喚した。月の裏に住む眠りの精だ。眠らない子供の前に現れ、目に砂をかけて眠らせる。眠らなければ目玉を取られる」 「だ、大丈夫なんですか?」  クエルチアが問うと、アカートは頷いた。 「大丈夫だ。目玉を取られるっていうのはただの脅しで、そうなる前に寝ちまうのさ。 万が一に備えての虎の子の魔力、全部使ったからにはもう魔法も使えねえ。これでどうにかなってくれれば……」 「そうなのかい。いいことを聞いたな」  背後からの声に振り返ると、黒衣の魔法使いが立っていた。その背後には人の体をつぎはぎにして作られた異形の怪物が控えている。 「急造品だから雑な作りになってしまったけど、スキュラ並の力はある。君達をばらして、あの狼もばらしてやる。その死体でオルトロスでも作ってやろう!」  魔法使いが異形の怪物を二人にけしかけようとした瞬間、どこからか放たれた光弾が怪物と魔法使いを貫いた。 「何……!」  核を穿たれ形を保てなくなった怪物はただの死体に還り、ばらばらになって崩れ落ちる。その隣に魔法使いの体も倒れる。  二人の視線は光弾の元に。召喚された砂男のほうに向いていた。  宙に浮かぶ翁は依然砂を纏ったまま動かない。その姿が突然、裂けた。内側から両手で持って引きちぎられるように。  悲鳴も上げず、血も流さなかった。体の内側には目があった。全てを見通すように深い輝きを湛えた黄金の瞳。  砂男の内側から出てきた何かは、異様な風体をしていた。  山羊の頭、人間の体、鳥の翼、牛の尾。いくつかの生物が継ぎはぎになった醜い姿。  何より変わっているのは、全身がありとあらゆるもので自由を奪われているという点だった。  紐、縄、鎖、蔓、弦、木、針金、管。  およそ考えられる細長いもの、その全てを使って何かは拘束されている。  手足があらぬ方向にねじ曲げられて胴体に固定され、宙から生えた鎖で吊り下げられるように何かは浮いている。  手も足も動かせず、口も塞がれている。たとえ喋ることが可能だったとしても意思の疎通すらできないだろう。  だが、目が合うだけでそれが何か把握した。  悪魔だ。  何もかもを魅了するような真円の月明かりの下に、黄金の瞳を持つ悪魔が顕現した。  一人だけ何が起こったか理解したアカートは忌々しげに舌打ちをする。 「満月、まさか……! 俺の目に介入したのかクソ悪魔! 召喚を乗っ取りやがったな!」  己を利用された怒りを隠すことなくアカートは目の前の悪魔を睨みつけた。  砂男は月の裏に住むという伝承の通り、月が欠けていないと召喚できない。アカートが先程見た空には半月が浮かんでいたが、今このとき天にあるのは満月だった。  アカートの体内に封印された悪魔は彼の目に半月を見せ、砂男を召喚させた。砂男の殻を被って外界に姿を現したのだ。  悪魔はアカートなど気にすることなく拘束をちぎって腕を伸ばすと、未だ砂に抗い続けている黒狼に手を伸ばした。悪魔に触れられ、黒狼が激しく暴れる。  悪魔が黒狼から手を放すと、その手には黒い光球が現れた。   次の瞬間、黒い閃光が一面を襲った。  実り豊かな秋がその姿を消し始める頃。  冬も近付き、冬支度をするためにいつもより獲物を多く仕留める必要があった。ここに雪が降ることは滅多にないが、それでも水が凍るほどの寒さが襲いかかる。  今のうちに、少しでも多く蓄えをしておかなければならない。  とはいえ、自分がやるのはいつも通りの狩りだった。男の役割は力仕事と狩りしかないのだ。  狩りは複数で行うが、獲物を探すときはある程度散り散りになるため一人で森を歩く。  昼間でも霧に覆われ薄暗い森は、嫌でも冬の気配を嗅ぎとるに相応しいだけの寒さを肌に伝えてくる。  周囲に不自然に動くものがないか気を配りながら、思考は自然とあることに及ぶ。  母のことだ。  母が未だに父の死を受け入れていないのである。  父が狼に食われて死んで以来、母はおかしくなってしまった。  どうにも、ぼう、としている。  世話を手伝ってくれる女が話しかけても、それにもろくに答えていなかった。  あれほど愛していた父が死んだのだから、塞ぎこむのも無理はない。自分を含めて誰もがそう思っていた。  ――あの人は帰ってこないの?  自分が留守にしている間、母はそう言って村にいる全員に尋ねて回ったのだという。  村の人間は再三父は死んだのだと説得した。だが、母は頑としてそれを認めようとはしなかった。  今では食事もろくに食べず、床に臥せっている。  もう十七で結婚の話も持ち上がる歳だが、そんな場合ではない。このままずっと母の面倒を見ながら生きていく覚悟はできていた。  ただ、母にもう一度笑ってほしかった。  優しい声で、自分の名を呼んでほしかった。  そんな願いすら叶う望みがない今に、ただただ絶望しながら毎日を送っていた。  いつの間にか足は歩くのを止めていた。  気がつけば陽も落ちかけている。微かに息が白い。  早く戻らないと。そう踵を返そうとした時、がさ、と近くの茂みが音を立てた。風が吹いた時のような葉擦れの音ではなかった。茂みに兎か何かがいるのか。そう思って茂みの裏に回りこみ、時間が止まった。 「母さ、ん……」  母がいた。  母が、地面に座り込んでいた。 「……あ」  母は信じられない、とでも言うように目を見開いて驚いている。 「あなた……」  その響きには、違和感を覚える。それは。 「かえって、きたのね」  自分ではなく、父に対しての。 「おかしいのよ、みんな、あなたはしんだっていうの」  ただ立ち尽くすしかできない自分に、縋りつくようにして母は言った。 「よかった、ぶじでよかった」  母は何回も同じ言葉を繰り返す。まるで、自分に言い聞かせるように。  何も言えなかった。何か言わなければいけないと思ったが、母がかけてほしいのは自分の言葉ではないのだ。父の言葉を、母は何よりも欲している。  しばらくすると、母は慌てたように自分から離れた。 「ごめんなさい。わたしもはやくかえらないといけないのに、あしが……」  示す先、確かに怪我をしている。履物の上からでも分かるほど血が流れている。この傷では歩けないだろう。  母は無理を押して痛みに耐え、声を押し殺して立ち上がろうとしている。  何も言わずに母を背負い、村に向けて歩いた。  母は背負われながら、あれこれと楽しそうに何かを言っている。母はいつもこうして楽しそうに父と話していた。  ああ、とか、うん、しか言えなかったが、そんなそっけない相槌にも嬉しそうに言葉を返した。  母が喜ぶのであれば、自分にできることならなんでもしてやりたかった。たとえそれが、自分の存在を母の中から消すことになろうとも。  家に帰り、久しぶりに母は料理を作った。その横顔は笑顔に溢れていた。これでよかったのだと、自分に言い聞かせた。  その夜、床板が軋む音に目を覚ますと、母がすぐそばにいた。  体が触れる。  女の体が触れている。  幾分痩せているものの、それは確かに女の体だった。  両頬に手を添えられ、否が応にも視線が合う。  どこか焦点のあっていない目をした、ただの女がそこにいた。  ただの、男を忘れられなかった哀れな女だ。 「あなた……」  こんなものは、母ではない。  愛おしそうな目で自分を見つめているのは母ではない。  愛する者にするように抱擁を交わしているのも母ではない。  こうして唇を触れ合わせているのも、母ではない。  これは自分の女だ。  これは自分の妻だ。  これは自分の愛した女だ――。  それ以降自分は父として、母は女として何度も体を重ねた。冬の寒さも、肌が触れあう時だけは感じなかった。  少しずつ削れていく何かに気付かないふりをしながら、母の体を味わうことだけを考えた。母の体に刻まれた狼の刺青が、頭から離れなかった。  長い、長い冬だった。  その年は久しぶりに冬の間に死者が出なかった。無事冬を越せると誰もが思っていたし、自分だってそう思っていた。  ある日突然長老に呼び出され、村の洞窟に連れて行かれた。  そこには沈痛な面持ちをした村の長老たちが集まっていた。体調が悪いと薬師の元に行った母の姿もあった。下を向いていて表情はよくわからない。  長老たちが車座になっている中に突き出された。 「自分が何をしたかわかっているのか! 自分の母を孕ませるなど!」  目の前に母が連れてこられる。その腹は、わずかに膨らんでいるように見えた。 「お前の父は誰より勇敢で、仲間を守るために命を落とした。その息子であるお前は何をした。畜生ですら犯さぬ愚を犯すことでしか報いることができなかったのか!」  何も、何も言えなかった。それでも母だけは守らなければいけない。 「どんな罰でも受けます、でも母は、母だけは見逃してやってください!」 「ならん。二人まとめて極刑とする」  その言葉に体が冷えた。自分はどうなってもいい、ただ、母と子供だけは助けなければ。 「待ってください、子供は、子供はどうなります!」  子供に罪はないはずだ。まだ世に生まれ出でていないものが、罪を犯せるはずもない。  長老は普段から言っていた。この世に良いも悪いもないのだと。人が結果を見て良い悪いを決めつけているだけなのだと。存在すること自体が悪いものなど、ないのだと。 「産んではならん。間違った行いで成した子だ。その道も間違ったものになる。世に落ちる前に死ぬことが何よりの救いとなる」 「生まれる前に何をするかわかっているのなら、なぜ俺は生まれてきたのですか。なぜ俺が腹にいるとき、罪を犯すから殺せと言わなかったのですか!」 「黙れ! 痴れ者が一端の口を聞きおって!」  その言葉を聞いた瞬間、母の手を取って駆け出していた。  止めようとする人間を手当たり次第に殴り、森の中に逃げた。  もう何も信じられない。  自分はどうなっても構わない、母とその子供だけ助かればいいと思った。  そのとき、放たれた矢が母の体を貫いた。 「母さん!」  体勢を崩し、地に伏した母の体を抱き寄せる。  母の背中に突き立った矢は体を貫通して腹から飛び出していた。鏃についた赤い血がてらてらと光っている。  母が口を動かしているのを見て、口元に耳を寄せる。 「あなた……、い、きて……」  口から血が溢れて激しく咳き込む母を抱きしめながら、激しい後悔と絶望に襲われた。  こんな、こんな結末を迎えるためにあんなにおぞましいことをしたのではない。ただ、母に笑っていてほしかっただけなのに。 「ごめん、母さん……」  体温を失いつつある母の唇にもう一度口づけをする。  もう一度名前を呼んでもらうことは叶わなかったけれど、せめて母の最後の願いだけは叶えよう。  生きるのだ。  もはやこの世に何の望みもありはしないが、この命を長らえることが安らぎになるのならば、生きてみせよう。  誰もそばにいなくても、俺は一人で生きていける。  黒い閃光と共に、ある男の記憶が頭に流れ込んできた。 「ディヒトさんの、記憶……?」  むせび泣くような感情の奔流。その波に飲まれないように自己を保つので精一杯だった。  砂に襲われもがいていた黒狼が吠える。その姿は黒い光に包まれ、やがて人の形になった。  人に戻ったディヒトバイの姿は生気がなく、風でも吹けば倒れそうなほどに虚ろだった。その背を支えるように悪魔はディヒトバイの肩を抱く。  ――戻してやったぞ。お前たちも見ただろう。この男の背負う罪によって、この男は人に定義される。人にしか為し得ぬ愚を犯したからだ。 「てめえ、何が目的だ……!」  流れ込んできた記憶に顔を歪めながら、アカートは悪魔に向けて言った。  ――お前たちはこいつを人に戻したがっていたのだろう? 願いを叶えて感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはない。報酬はこれをもらおう。  言いながら悪魔は人形遊びでもするかのようにディヒトバイの右手を取った。  その手はゆっくりとディヒトバイの右目に向けられ、眼窩に指を突き刺した。 「ああああああああっ!」  眼窩を抉る痛みにディヒトバイが叫ぶ。  ――砂男の殻を被っていたのでは目玉しか受け取れぬ。それにこの男、過去ばかり見つめて未来など見ておらぬ。目玉は一つで十分だ。  悪魔はディヒトバイの手の中から目玉をつまみ取ると、葡萄でも食べるかのように上を向いて口に入れた。  悪魔がにたりと嗤う。そしてディヒトバイの顎を掴み、クエルチアたちのほうに向ける。ディヒトバイの体がびくりと震え、目が恐怖に揺れた。  ――その目で見ろ。あれはお前が何をしたか知っているぞ。お前の愚かさを知っているぞ。人は人にとって狼だ。さあ、殺される前に殺すがいい。剣(きば)を貸してやろう。  悪魔は嘯くとどこからかディヒトバイの剣を取り出し、その手に握らせた。 「お、まえ……、知ってる、のか……」  枯れた喉を無理矢理鳴らすような声でディヒトバイは言う。彼の左目は怯える子供のような目で、空になった右の眼窩からは血が涙のように流れていた。 「ディヒトさん、待って、俺はあなたと戦うつもりは……!」 「……殺す」  低く呻くような声でディヒトバイは言った。  剣から赤い光が迸り、魔鎧を纏う。  その姿はクエルチアが目にしていた狼の形とは違い、鋭く棘のある、剥き出しの敵意を形にしたような姿をしていた。 「殺す……。知った奴は、殺す……」  焦点の合わない瞳で譫言のように呟くディヒトバイを送り出すように悪魔は背を叩くと、笑い声を上げて砂となり、風に乗って消えていく。  それが合図になったようにディヒトバイは走り出す。走り出したと認識した次の瞬間にはディヒトバイはクエルチアに肉薄していた。  剣と戦斧がぶつかり合う音が響く。 「知ったな! 俺の過去(つみ)を!」 「ディヒトさん! やめてください!」  暴風のような剣を受け止めクエルチアはディヒトバイに呼びかけるが、届かない。  ぽつり、ぽつりと雨粒が音もなく地に落ちる。それはやがて激しい雨へと変わった。 「殺してやる! 殺してやる!」 「ディヒトさん!」  速さも力も普段とは比べものにならない。先程の黒狼と同じかそれ以上だ。彼をここまで駆り立てるものとは、何なのか。  恐怖だ。  流し込まれたディヒトバイの記憶を見た。  それは悲壮に包まれた記憶だった。  彼はそれを知られることを何より恐れていた。  自分の犯した禁忌を非難されることを恐れ、それを知られまいと生きてきた。隣り合った誰かも、己の過去を知った途端に自分に牙を剥くのではという恐怖に晒されながら、一人で生きていた。  それを、悪魔の手によってではあるものの自分たちが暴いてしまった。  ならば彼は殺すしかないのだ。自分に牙を向ける者の一切を切り捨てることだけが、彼に安らぎをもたらすのだ。  その決意を誰がわかってやれただろう。  誰もいなかった。その過去を知ること自体が罪だった故に。 「ディヒトさん、聞いて! 俺はあなたと戦いたくない!」 「うるさい! お前らも同じだ! 狼だ!」  打ち合う度に手が痺れるような衝撃が走る。何度も戦斧を取り落としそうになりながら、クエルチアは呼びかける。 「俺はあなたのことを裁いたりしない! お願いです、聞いてください!」  もっと言いたいことがあるのに、戦いながらでは言葉にならない。  あの記憶を見た瞬間、クエルチアは悟ったのだ。ディヒトバイの隣こそが自分の居場所であると。この男の隣こそ、自分の求めていた場所だと。  それを伝えようにも今の彼には届かない。  長きにわたって溜めこんだ恐怖が極限まで高まった今、目の前の人間(おおかみ)が倒れるまで剣を振るうことが彼の心を守ることなのだ。  それを越えて、伝えたいことがある。  ディヒトバイが腰だめに構えた剣を見て、クエルチアは心を決めた。  瞬間、時が止まる。  ぐぶ、と腹に熱いものが突き刺さる感触。 「クエ、ル……」 「ディヒト、さん……」  剣で貫かれたクエルチアは手を伸ばす。どうして鎧を解いたのかと、不可解そうな顔をしているディヒトバイに。  焼けた鉄をねじ込まれたような痛みの中、クエルチアは動きを止めたディヒトバイを抱き留めた。 「捕まえ、ましたよ」  ディヒトバイの目が理性の輝きを取り戻し、戦意を失ったのか魔鎧も解けた。それを見て安心したようにクエルチアは微笑む。 「言わなくちゃいけないことが……、いっぱい、ある、けど……」  剣の刺さった腹は信じられないほど熱いのに、手足の末端からは徐々に温度が奪われていく。  言わなければ。  今ここで言わなければ、彼の心は永遠に救われない。 「俺は……っ、ディヒトさんが、好き、です……」  ずっと言いたかった言葉をようやく言えた嬉しさが、わずかに痛みを和らげる。 「クエル……、お前、どうして……」  ディヒトバイが自分を呼ぶ声は震えていた。 「俺は、何があっても……、ディヒトさんの、味方です……」  今にも解けそうになる意識を振り絞って思いを言葉にする。 「だから……、怖がらないで」  世界がこの人の行いを咎めようと、自分だけは彼を守ろう。  この思いがきちんと届けばいい。  どこにも安らぎの地を得られなかった狼が、わずかでもいい、静けさの中で眠れるような木陰を与えられるよう。  そうであればいいと願って、クエルチアの意識は闇に落ちた。

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