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第3話 れん

理人は黒瀬に出会った1ヶ月後、都立総合病院からT大付属病院に転勤した。 「合鍵・・・」 理人は黒とシルバーのカードキーを理人に渡した。 「いつでも勝手に来てかまわない」 「教授・・・」 教授室に呼び出された理人は、驚いてカードキーと黒瀬を見比べた。 「・・・何だ、そんなに驚くことか?」 「いえ・・・あの、教授・・・奥様は・・・」 「・・・随分前に別れている。今は悠々自適の一人暮らしだ」 「そうだったんですか・・・」 「お前は俺と寝ながら、そんなことを考えていたのか」 「・・・それから同僚が、教授には愛人が何人もいると教えてくれました」 「全く好き勝手なことをほざく奴ばかりだ」 黒瀬は口の端をつり上げて、悪い顔で笑った。 「なんなら見てもいい。気になるなら、お前が消去しろ」 黒瀬は白衣の胸ポケットから携帯電話を取り出し、デスクの上に置いた。 携帯電話を手に取って固まった理人を、黒瀬は背後から抱きしめ、液晶画面をのぞき込んだ。 「それは・・・循環器科のナースだ」 「・・・・」 「その次は、この間バーで会った・・・若いネコだ」 「ネコ」の言葉に、理人の親指がぴくりと反応した。黒瀬は楽しそうに、理人の耳元で、次々と連絡先の説明を続けた。 「その下は、ここの事務員」 「次は・・・内科のナース・・・次は眼科の看護師」 ナースと看護師と言い分けるのは、看護師が男だということを示していた。その都度、理人の表情が固まる。 「本当に僕が消していいんですか」 感情を押し殺して理人は尋ねた。黒瀬は耳に唇が触れるほど近くで、言った。 「かまわない。お前が俺を束縛してくれるんならな」 「・・・嬉しそうですね」 「そうか?」 「もしマンションで誰かに遭遇したら、僕、その人殺しますよ」 「そんなに俺が好きか」 「教授こそ・・・そんなに僕を信用していいんですか」 黒瀬は理人の唇を塞いだ。理人の髪の香りを鼻腔に吸い込む。黒瀬は舌を割り込み、理人の口の中を犯した。 ドアの外では、せわしなく看護師たちが行き交う足音が響いている。 その逢瀬の後、教授室を出た理人を、ある男が呼び止めた。 「長谷川くん?」 理人に声をかけてきたのは、麻酔科の医師、登坂だった。 黒瀬の部屋から出てきたのを見られたかと、理人は身構えた。 「登坂先生・・・」 「今・・・黒瀬教授の研究室から・・・」 「薬剤部の田所部長から頼まれて、処方箋を届けに来ました」 準備していた言い訳を、出来るだけもっともらしく理人は答えた。 登坂はふっと表情を緩め、そうか、と笑った。理人は作り笑いを浮かべ、会釈をしながら、横を通り過ぎようと一歩踏み出した。 「・・・れん」 登坂は、すれ違いざまに呟いた。 思い出したくない記憶を不意に掘り起こされ、理人は不覚にも立ち止まってしまった。 銀縁の眼鏡の向こうの瞳を好色そうにぎらつかせ、登坂は理人を上から下まで舐めるように見た。背筋に冷たいものが伝い、理人は思わず後ずさった。 「ビンゴ?似てると思ったらやっぱり・・・」 「っ失礼します・・・っ」 登坂が理人の手首を掴んだ。想像以上の力に、掌と手首がねじれ、理人は足を止めざるを得なかった。登坂はぞっとする笑顔を浮かべて、小声で理人だけに聞こえるように言った。 「終業後、麻酔科の医局に。ばらされたくなければ、ね」 ぱっと理人の手を離し、登坂はもとの人当たりのいい笑顔に戻って歩き出した。反対方向からワゴンを押してきたナースに、にっこり笑って挨拶を返す姿は、理人の全身をなめ回すような視線を絡めてきた男とは別人だった。 理人が18の頃。高校を卒業して薬剤師を目指した。そのころすでに、女性に興味を持てないことは自覚していた。一般的なバイトと掛け持ちで、ウリ専ボーイをした。 3年ほど続ける間に、援助を申し出た裕福な紳士に囲われたこともあったが、国家試験に合格した時点で辞め、数人いた男達とも縁を切った。 それから9年が経ち、理人自身そのことは思い出さなくなっていた。 悪寒が走る身体を抱きしめ、理人は調剤室へと急いだ。 「れん」は、その頃使っていた源氏名だった。

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