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あいこ先生の情熱

   あいこ先生、もとい、吉行愛子は、二十四時間保育園『ほしぞら』に勤め始めて四年になる。  若く見られがちだが、年齢は二十八歳だ。  愛子の母親は看護師、父親は介護士で、両親それぞれに多忙だった。しかも両親共に、自分の家庭よりも職場の患者や利用者たちを優先する『熱心』なタイプだ。  愛子が熱を出しても、風邪で学校を欠席しても、『もっと大変な思いをしている人が待っているから』という理由で、いつも家にひとりぼっちだ。それがいつも寂しくて、不満で不満でたまらなかった。将来自分が仕事をするなら、自分のためだけに時間と金を使えるような職につきたいと心底思っていたものである。  高校を出てすぐに、地元の運送会社の事務員として就職したけれど、毎日毎日数字や文字と向き合うだけの仕事は単調だった。これといったやりがいもなく、さほど人間関係にも変化はない。それはそれで安定した職場だし、愛想のない愛子にとってはありがたい出会いだったのかもしれない。だが、このまま一生ここで働くのかと想像すると、息苦しさを感じずにはいられなかった。  そんな時、ふと目にした新聞の折り込み広告で、保育士になるための通信教育講座があると知った。その瞬間、愛子はこれだと思ったのだ。すぐさま書かれていた番号に電話を掛けて入会し、仕事をしながら勉強した。  両親の仕事を忌み嫌っていたはずなのに、気づけば自分も、誰かの為に時間を費やす仕事を選んでいた。  もともと子どもは嫌いじゃないし、親戚が多い愛子は、子どもの面倒を見ることにも慣れていた。それが決め手になったのだろう。愛子はコツコツと勉強を重ね、保育士試験に合格した。  二十四時間保育園の求人に応募したのは、他でもない。  過去の自分のように、心細い夜を過ごす子どもたちのそばにいてやりたかったからだ。  たとえ親が仕事で、眠る時にそばにいなくても、誰かがそばにいてくれる。それは必ずしも、肉親でなくともいいのだ。きちんとした生活を守ってくれる大人がそばにいれば、それだけで、子どもたちは自分の力で成長できる――そういう保育者になりたいと思ったから。  ――この国は社畜の国。世のため、人様のために働くことが強いられる社会。それは子育て世代だろうが何だろうが変わらない。こんな世の中だからこそ、わたしは、子どもたちのためになりたい……!!  という熱い想いを胸に抱きつつ、愛子は二十四時間保育園『ほしぞら』の門をくぐった。夜勤・日勤なんでもござれ。若さと熱意で『ほしぞら』を支えていくのだ――!!  と、生来の生真面目さを存分に発揮しつつ保育士としての仕事に燃えていた愛子だ。その甲斐もあり、子どもたちからも保護者からも、そして職場の仲間たちからの信頼も厚くなってきた今日この頃である。不規則な生活で、仕事と自宅の往復しかできていない毎日だが、それでも良かった。もともとそこまで親しい友人はいないし、今最も親しいのは、長時間顔を合わせる職場の仲間たちだからだ。  そんな中、愛子唯一の潤いは―― 「こんばんは、あいこ先生! 遅くなってすみません!」  時刻は十九時半。通常のお迎えタイムよりも遅い時間帯に、スーツ姿の若い男が園の玄関先に駆け込んできた。  日中の疲れを窺わせる、やや着崩れたワイシャツ。すっきりとした体型に沿う細身のスラックス。こめかみから一筋の汗を流しつつ、ちょっと申し訳なさそうな表情で愛子を見つめるのは、爽やかイケメンリーマン・霜山壱成。『ほしぞら』の園児・早瀬空の保護者である。  血縁関係にある空の保護者は、兄の早瀬彩人だ。職業はホストで、夜の仕事だ。毎日のように夜間保育を利用していた。  その容姿の華やかさは園内でも当然のごとく評判で、夜勤担当の保育士ら(若者からおばさんに至るまで)は、『彩人クンが来るから♡』といって夜中でも化粧を欠かさない。  だが愛子はそもそも、彩人のような派手なタイプの男には食指が動かない。しかも相手はホストなのだ。空を預けておいて、どこぞの女とでも夜な夜な遊んでいるのだろう……と思い込んでいた。  そんな彩人の代理として、ある日突然現れた爽やか青年に、愛子はひどく面食らった。遊んでそうなホストと、真面目そうなサラリーマンという取り合わせに混乱もした。  ひょっとしてひょっとすると、彩人に命令でもされて、壱成が空の迎えを押し付けられているのでは――!? と邪推さえした。  だが、空の反応を見てすぐに分かった。彩人と壱成が、対等な信頼関係にあることが。  そして後日、空を送ってきた彩人の台詞や表情にも、ピンと来るものがあったのである。  彩人は柔らかな笑みを浮かべながら、ほんのちょっと照れくさそうにこう言ったのだ。『あいつ、中学時代の同級生なんすよ。昔から良いやつで、空もすげーなついちゃって。つい、世話んなっちゃって……』と――  送迎のときはいつも疲れた顔をしている彩人が、こんなにも優しい口調で壱成のことを語るのかと驚いた瞬間、愛子は稲妻に撃ち抜かれるが如き衝撃を受けた。それは萌えという衝撃だ。  この二人は、ただならぬ信頼関係で結ばれている――!! そう気づいた瞬間の熱く激しい心の滾り。それ以降、愛子は俄然、彩人と壱成を応援するようになっていたのである。  その二人がとうとう同じ家に暮らし、しかも空を交互に迎えに来るということになった。  ということはつまり、二人で子育てをすることにしたってことじゃないのそれって実質結婚おめでとうございます!!! と、愛子は心の中で派手に拍手喝采を送り、フラワーシャワーを撒き散らし、青空に色とりどりの風船と白い鳩を解き放った――  だがしかし、この二人に会う時は必ず仕事中だ。個人的な感情を表に出すわけにはいかない。  愛子はプロの保育士として、あくまでもポーカーフェイスで彩人と壱成に向き合っているのである。 「お疲れ様です、霜山さん。あのう、延長保育の申し出は、前日までにしてくださいね」 「本当にすみません、急なトラブルがあったもので……」 「いえ、謝るなら空くんに。といっても、今日は累くんがお泊まりなので、空くんもご機嫌で遊んでいますが」 「あ、そうですか……良かった」  ほっと胸を撫で下ろす壱成の先に立ち、愛子はスタスタと廊下を歩く。壱成に背を向けている間だけは、にやつきそうになる唇がふるふる震えてしまうのだが、それは致し方のないことだ。 「ゲフン……あの、空くんまだご飯食べてるんで、ちょっと待ってくださいね。もうすぐ終わりますので」 「あ、はい。分かりました」  空のいる保育室のドアの前で立ち止まり、愛子は壱成とともに部屋の中を覗き込む。今日、園で夕食を取るのは十五人の園児だ。わいわいと楽しげにおしゃべりをしながらご飯を食べる子どもたちの姿を、壱成が微笑みながら見つめている。  テーブルの中ほどでカレーを食べている空の傍には、累がいる。必ずといっていいほどに累がいる。  以前は問題行動が目立っていた累だが、ここ最近はすっかりおとなしいものだ。大好きな空に怪我をさせてしまったことがよほどこたえたらしい。 「そらくん、カレーついてるよ。ぼくがとってあげる」 「えぇ? ほんと? ありがとー」 「ふふ、どういたしまして」  空の小さな唇の横にくっついたカレールーを、累が指先で拭う。そして累はカレーのついた指先を口に含んで、にっこりと微笑んだ。  ぽろぽろと食べものをこぼしてしまう空のそばで、累はいつでも世話を焼いているのだ。ここ最近は『るいくんてそらくんのおにーちゃんみたいだね』と女の子たちに冷やかされるほどである。  壱成が「保護者みたいだな……」と呟く横で、愛子は「グフん!」とポーカーフェイスのまま内心くぐもった悲鳴をあげた。ここ最近、めっきり麗しい累と空に、可愛らしさと萌えを感じずにはいられないのである。 「? あいこ先生? どうかしました?」 「い、いい、いいえ……。ちょっとくしゃみを我慢して」 「大丈夫ですか? 我慢しなくてもいいのに」 「いえいえお気遣いなく……」  そうこうしている間に、空もカレーを食べ終えたようだ。まだ食べている子もいる中、空と累はすぐそばの畳コーナーへと移動して、二人で図鑑を眺め始めた。  累の膝の上に広げられた図鑑を覗き込みながら、空が楽しそうに笑っている。空は時折顔を上げて累を見上げて、ニコニコと笑い合う二人の姿はまさに天使だ。(ちなみに累は図鑑そっちのけで空を見ている) 「仲良いなぁ……微笑ましい。でも俺、累君にどうも嫌われているような気がして……」 「そうですねぇ……まぁ、ここのところ空くん早く帰るようになったので、『いっしょに寝たいのに』って文句は言ってましたけど」 「えっ、そうなんですか? ……なるほど、俺が連れて帰っちゃうから怒ってるんですね」 「ええまぁ……って、これは霜山さんに直接伝えることじゃなかったですね、すみません」 「いえいえ、薄々そんな気はしてたんで。累くんのことも、もっと知りたいですし」  そう言って苦笑する壱成もまた麗しく、愛子は内心『ほう……』とため息をついた。この出来事を、彩人とどんなふうに話し合うのだろうかと妄想しかけて、慌ててやめた。 「累くん、早瀬さんのこと尊敬してるんですよ。すごくカッコいい、さすが空くんのお兄ちゃんだって」 「……なるほど。まあ確かに……」 「あと、空くんが霜山さんの話たくさん聞かせてくれるので、それにもちょっとヤキモチやいてるのかもしれませんね」 「え、空くんが俺のことを……」  こっちを向いた壱成の目が、キラキラと嬉しそうに輝いている。愛子は内心、その眩さに頭を抱えた。この一家、ことごとく愛子のツボを押しまくってくる……。 「ま、まぁ……そのうちおさまりますよ。夏はお泊まり保育で、花火のイベントとかもありますし」 「へぇ、楽しそう。それはぜひ参加させてあげたいなぁ」 「ええ、毎年ご好評いただいてて。保護者の皆さんものんびりできるって……」  と、言いかけて愛子はハッとした。  空がいない夜、彩人と壱成は家で何をするのだろう――なとどいう不埒な妄想が花開きかけたからである。  愛子は心の中で己の眉間に右フックをかましながら、震え声で「奮ってご参加ください」と伝えた。 「ありがとうございます、早瀬にも伝えておきますね」 「ええ、ええ、はい……。あっ、そろそろ空くん呼びましょうか」 「お願いします」  萌えを押し殺していたぶん、自然と空を呼ぶ声も高くなってしまうというものである。 「空くんお迎えだよ〜」と裏返った声で呼びかけながら保育室に入って行くと、空の顔がぱぁっと輝く。だが、累の表情は分かりやすく仏頂面だ。その対比に、毎回身悶えそうになってしまうのだが我慢している。 「いっせー!! おかえりぃ〜〜!」 「あはは、ただいま。ほら、荷物持ってきて」 「あーっ、わすれてたぁ!」  壱成に飛びつきかけた空は途中で方向転換して、自分のロッカーへリュックサックを取りに行く。すると保育室の入り口に佇む壱成のほうへ、累がスタスタ歩いて行くではないか。愛子はあわててフォローに向かった。 「いっせーさん、こんばんは」 「こんばんは、累くん……。ええと、どうしたの?」 「きょうもかっこいいほうのお兄さんじゃないんですね」 「あ〜うん、そうなんだよ。あはは〜……」  ――ああもう、累くんたら分かりやすい嫌がらせを……。  すると、引きつった笑みを浮かべる壱成のもとへ、たたたーと空が駆けて行く。そして壱成の脚にぎゅっと抱きつき、「いっせーもかっこいいでしょ〜!」と無邪気な笑顔だ。 「もー、るいはすぐいっせーにわるぐちいうんだから」 「わ、わるぐちってわけじゃないもん。ぼくは……」 「にぃちゃんもかっこいいし、いっせーもかっこいいし、るいもかっこいいよ。ねー、あいこせんせー!」 「えっ!? え、あ、ああう、うん!! そうだよねー!!」  突然空に話を振られ、愛子は大慌てでブンブン激しく頷いた。  空が満面の笑みでそんなことを言うものだから、累も照れてしまったらしい。それ以上は何も言えないのか、「え、ぼくも……ぼくもかっこいい……?」と頬を赤らめモジモジしている。 「じゃーまたあしたねー! いっせーかえろ〜、きょうはおふろでなにしてあそぶー?」  と、当の空はニコニコしながら壱成と手を繋ぎ、さっさと帰って行ってしまった。そんな中、累はぽわんとした顔でその場に佇んでいる。その横で、愛子はぽん、と累の肩を叩いた。 「……ぼく、かっこいい? そらくん、ぼくのことかっこいいっていってくれた……?」 「うんうん、累くんはかっこいいよ。力持ちだし、足速いし、お友達にも優しいし」 「へへ……へへへ。そうなんだ」  空にひとこと「かっこいい」と言われただけで、この喜びようである。愛子は内心、『空くん……なんて罪作りな子ッ……!!』と膝から崩れ落ちてしまった……。 「ねぇあいこせんせい、ぼく、どうやったらもっとかっこよくなれる? もっとかっこよくなったら、そらくん、ぼくのこともっとすきになってくれるかな」 「ン゛ン゛っ……!!? どっ、ど、どうもしなくても、累くんは今のままでじゅうぶんかっこいいよ!!? そのままでいいんだよ君は!!」 「そうかなぁ。へへ〜〜」  ぽわぽわとした笑みのまま、累は窓の方へ駆けてゆき、園庭を横切る空と壱成の背中を見守りはじめて……。  夜勤をいくら繰り返そうとも、愛子の肌は、日に日に艶が良くなってゆく。 『あいこ先生の情熱』 おしまい

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