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お泊まり保育の夜〈前〉

 彩人、そして空と一つ屋根の下で暮らすようになってから、一年あまりが経った。  一人暮らしをしていた時とはまるで違う生活リズムとなり、初めは少し戸惑うところもあった。けれど、今はすっかり慣れたものである。  例えば、ひとり暮らしの時ならば、ギリギリまで寝ていられた朝。だが今は、三人そろって朝食を取りたいががめに、以前よりも一時間半ほど早く起きるようになった。そうでもしないと、平日に皆で食事をする機会が持てないからだ。  ほんの数時間前に帰宅したばかりの彩人は、当然のごとくいつも眠たげである。もっと長く寝かせてやりたいから、壱成はしばしば空を保育園に連れて行く役回りも引き受けようとした。だが彩人は、頑として首を縦に振らなかった。 「だってさぁ。朝起きたら誰もいねーとか、寂しすぎじゃん?」 「まぁ……そりゃそうか」 「そーだよ。帰ってきたら壱成も空も寝てるわけだし、すれ違いとか悲しいしさ」  そう言って、ちょっと悲しげに眉を下げつつホットケーキを食べる彩人を前にしてしまえば、それ以上は何も言えない。空の手前、彩人を思い切り抱きしめたい気持ちをグッと堪えて、壱成は深々と頷いたものである。  そして空もすっかり、壱成のいる生活に慣れたようだ。    慣れてきた時こそ、もっとわがままを言い出したりするのではと思っていたのだが、空は相変わらずただただ天使のように可愛くて、日々癒されまくっている壱成である。  以前、彩人がしっかりと言い聞かせた言葉が、空の中にしっかりと根付いているのだろう。空はむしろ進んで壱成を手伝おうとしたり、疲れている壱成を労おうとしてくれたりするのだ。  なんならもっとわがままを言ってくれてもいいのに……と思ってしまうほど、空と二人の時間も楽しくて、毎日が幸せだった。  そして今日も、壱成は空との入浴を終え、リビングでくりくりの茶色い髪をタオルで拭いているところだった。空はふと思い立ったように壱成のほうを振り返って、こんなことを言った。 「ねぇいっせー、あした、さみしくない?」 「え? 明日?」 「うん。だって、あしたはおとまりほいくだよぉ。そらがいなくて、さみしくない?」 「ああ……そっか、明日だったか」  明日は『ほしぞら』からバスで郊外へと出かけてゆき、そのまま宿泊施設で一夜を過ごす園外保育の日だ。  パンツ一枚の空は、ラグマットにあぐらをかいている壱成に向き直り、心配そうな目をしている。壱成は微笑んで、空の頭をぽんぽんと撫でた。 「ちょっと寂しいけど、空くんも楽しみにしてたお泊まりだろー? 大丈夫だよ」 「ほんとぉ? さみしくてないちゃわない?」 「ははっ、泣かないよ。みんなといっぱい遊んでおいでな」 「うん!」  白いタオルに包まれて、にっこりと愛らしい笑顔を見せる空の天使っぷりに、壱成もメロメロである。  身体が冷えないようにすぐにパジャマを着せ、毎晩の楽しみである寝かしつけに勤しんだ。    +  次の日。 「とはいえ……やっぱ、寂しいかも」  こうして家に一人で帰宅するという身軽さは、もはや壱成にとって非日常的なものになっているらしい。左手を握る空の小さな手がそこにないというだけで、なんだか妙な気分だ。  繁忙期を抜けたものだから、今日に限って仕事は順調に終わり、19時過ぎには玄関のドアの前だ。  帰宅しても空はいない。だが、今日は……。 「壱成、おっかえりー」 「ただいま、彩人。わぁ……なんかすげぇいい匂い」  彩人が、キッチンから朗らかな笑顔を見せる。長袖の白いTシャツに黒エプロン姿という彩人もまた格好が良く、壱成の胸はきゅーんと鳴いた。 「へへっ、せっかくの休みだったからな。ちょっと凝ったもん作ってみたくてさ」 「うわー、楽しみ。あ、空くん、朝どうだった? 元気に保育園行った?」 「おう、すげぇ元気だったよ。でかいバスに乗るのが楽しみーとか、累と何して遊ぼーかなーとか、うきうきだったぜ」  ――なんか、彩人とのんびり二人きりなんて久しぶりだな……。うわどうしよ、なんか腹ん中むずむずする……。  朝の出来事を話しながら、彩人は着々と食事の準備を進めてゆく。ドキドキしながらカウンター越しに彩人の手元を覗き込んでみると、ちゅっと額にキスをされた。 「もうちょっと時間かかるからさ、先風呂入ってこいよ」 「あ、うん。ありがと……」  つい、甘い期待に顔が緩んでしまいそうになる。……が、ふしだらなことばかり考えているスケベ野郎だとは思われたくないため、壱成は努めてきりりと顔を引き締める。  そして念入りに入浴を済ませ、壱成は再びリビングに戻った。  すると照明はほんのりと落とされて、部屋の中はそこはかとなくいい雰囲気に仕上がっているではないか。  普段は空のスペースと化しているリビングだが、今日ばかりはローテーブルにワイングラスがきらめき、うまそうな飴色のビーフシチューと、きれいに盛られたサラダなどが並んでいる。甘さを含んだデミグラスソースの香りに、壱成は「うわぁ……」と感嘆のため息を漏らした。 「す、すげぇ。彩人これ、全部お前が作ったの?」 「へへっ、そーそー。赤ワインたっぷり使ってさ、イチから煮込んで作ってみた」 「マジかよ! 美味そう……」 「さ、こちらへどうぞ」  エプロンを外した彩人は、ちょっとおどけた笑みを浮かべ、恭しく胸に手を当てて軽く一礼した。スーツを身につけていなくとも、彩人がキメ顔をしているだけで、過ごし慣れた部屋が高級レストランに見えてくるので不思議すぎる。しかも。 「う……うまい……! もはや店で食うレベルの味……!」  料理を初めてからこっち、ぐいぐいと腕をあげてゆく彩人だ。時折、スパイスからカレーを作ってみたり、それに合わせてナンを焼いてみたり、でかい肉の塊を買ってきては、プロ顔負けのローストビーフを焼き上げてみたり……と、完全に本人も楽しんでいる。  彩人の作る料理が美味すぎて食べすぎてしまうこともあるため、壱成はここ最近、腹回りに肉がつかないようにと、筋トレに勤しんでいる。  もりもりと料理を平げ、皿をきれいにしてゆく壱成を前にして、彩人も嬉しそうな笑顔だ。しかも、空になったグラスに、さりげなくワインを注いでくれるため、いつしか気持ちよくほろ酔いである。さすがとしか言いようがない。 「彩人にこんな才能があったとはな……。イケメンな上に料理上手とか、なんなんだよお前。ありえねーだろっ!」 「もー壱成、なにキレてんだよ。ま、俺もこんな上手くできると思わなかったけどなー。なかなかの出来じゃん?」 「なかなかどころじゃねーよ! 美味すぎだろ! 空くんにはちょっと大人すぎる味付けかもしれないけど……」  何気なく空の話題を出してみると、急に普段とは違う静けさに気づいてしまう。  何気なく、部屋の中を見回してみる。ひとりで遊んでいても不思議と賑やかな空がそこにいないというだけで、妙に家の中が広く、がらんとして見えた。 「なんか、空くんいないと静かだな。っていうか……寂しいよな」 「うん、そーだなぁ」 「さっきも変な感じだったんだよね。仕事帰りはいつも空くんと手ぇ繋いで歩くのが習慣になっちゃってるからさ、なんかこう、左手がスースーするっていうか……」 「……壱成」  壱成の左手に、そっと彩人の手が重なった。突然のスキンシップに驚きつつも、彩人の手のひらの熱さに、きゅんきゅんと胸の奥が騒ぎだす。  だが彩人は、少しものさみしげな表情だ。 「ど、どした?」 「なぁ、今日は俺がいんだろ」 「へっ……? う、うん……」 「ここんとこ、ふたりっきりで過ごす時間全然なくて、ちょっと寂しかったんだ。……だから今はさ、俺のことだけ見ててよ」 「あ、彩人……」  ラグマットの上で指が絡まり、ぎゅっと握りしめられる。  確かに、ここひと月ほど壱成も仕事が忙しく、夜中まで起きて彩人を迎えられないこともしばしばだった。  空の部屋でそのまま寝落ちてしまうことも多かったが、そんなときはいつも、朝起きると身体に毛布がかかっていた。深夜に帰宅した彩人が、壱成を気遣ってくれた証だと思うと、帰りを待っていてやれなかったことに罪悪感を感じてしまう。  だが彩人はいつも、「全然いーって、気にすんなよ。仕事の後、空の相手とか色々あると、疲れんだろ?」と言って爽やかに笑うのだ。  そんな日々が続いていたため、この一ヶ月はまともにセックスをしていない。手で抜き合う程度のことしかしていなかったこともあり、壱成も少なからず……いや、相当に寂しかった。  今日こそは彩人に……という想いが急速に湧き上がり、壱成の身体はあっという間に火照ってしまう。 「空、前よりいっぱい笑うようになったしさ、保育園でもしっかりしてきたって、こないだあいこ先生言っててさ。それ全部壱成のおかげじゃん、って思ってたんだ」 「い、いやいや……俺は別になにも……」 「お前がいてくれるだけで、空も俺も、すげぇ安心できるんだよ。……ほんと、ありがとな」 「な……な、なんだよ改まっちゃってさ! お、俺はただ純粋に空くんが可愛いから……」  壱成がたどたどしくそう言うと、彩人はことさらに甘い笑みを浮かべた。彩人の腕が壱成の肩に回り、ギュッと強く抱き寄せられる。 「でも今日は、俺が壱成を独り占めする日だから」 「ひとりじめって、そんな」 「壱成……キスしよ?」 「んっ……」  すい、と顎を掬われ、間を置かずに重なった彩人の唇は、いつにも増して熱かった。彩人も壱成を欲して、こうして身体を火照らせているのかと思うといじらしくて、愛おしくてたまらない気持ちになる。  両腕を伸ばして彩人の首を抱き、さらにキスを貪ると、彩人が少し息を呑むのが分かった。壱成から積極的に食らいついてゆくさまが珍しかったのだろう。さらに深くまで口内を愛撫され、壱成は堪えきれず甘い声を漏らした。  吐息に誘われるように、彩人がぐいと強く腰を抱く。そのまま押し倒されてしまいたかったが、彩人はふと唇を離し、キスの隙間で囁いた。 「……壱成、床じゃイヤだろ? ベッドいこ?」 「いやだ、ここで……っ」 「けど」 「やだよ、すぐしたい……彩人」  腰を支える彩人の手に手のひらを重ねる。はやる気持ちのまま彩人を見上げ、壱成はさらにキスをねだりながらこう言った。 「もう……自分で慣らしたんだ。だから」 「へっ!? ほんとに?」 「うん……早く、したくて」  壱成は彩人の手を取って、シャツの中へと導いた。彩人を求めて熱を燻らせる肌に、早く触れて欲しかった。  不慣れな誘惑だが、彩人は艶めいた微笑みを浮かべ、壱成の素肌に手のひらを這わせる。

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