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第1話

 1    左手で軽く掴んだ赤い果実を器用にくるくると回して、固定した包丁の刃をあて皮を剥く。一般的に林檎は、等分に切り分けた後に皮を剥く。しかし一人で食すのならばおそらくこの剥き方のほうが圧倒的に早いだろうと、六乃瀬葵(むつのせあおい)は思っている。  剥き終えた長い皮をビニル袋の中に入れて、一口齧る。シャリシャリとした実に歯応えの良い食感と、糖度の高い蜜は聞きおよんだ通りに美味かった。  正午前の職場はスタッフがほとんど来ておらず、とても静かなものだ。システムキッチンを搭載した休憩室には、葵が咀嚼する音しかしない。  朝食代わりに剥いた林檎をゆっくりと食しながら、果汁に触れていないきれいな方の手でテーブルの上に共用物として置かれている備品のメモ用紙とマジックペンを手元に寄せる。そして背凭れの高い椅子の背を引いた。  不意に出入り口のドアが遠慮がちに開くのが視界の端に入る。  そちらを見ると、見慣れない人物がいた。  年の頃はおそらくまだ成人前だろうか。若いが、キリリと引き締まった精悍な顔付きの青年だ。ショートの少し明るい茶髪がよく似合っている。視線が合い、ぺこりと会釈をされたので会釈を返す。 「今日からお世話になります。ヨシ、です」  ぎこちない挨拶だった。初めて会う相手に名前だけを名乗るのだからたぶん妙な感じが拭えないのだろうと、葵は感慨に浸る。しかしこの名乗り方は、店での決まりごとの一つなのだ。 今日から、ということは新人だろう。 「俺は葵です。よろしく」 「あっ、葵さんって、関東で総合№1の葵さんですよね? 写真で見たときから、実際に会うのを楽しみにしていました」 「はは、そうなんだ。ありがとう」  硬そうな印象の顔が一転。たちまち破顔した笑顔を向けてくる彼は、まるで大型犬のようだ。その好意は純粋に嬉しい。だが、齧りかけの林檎を持ったままでは格好のつけようもないなと、葵はつい苦笑気味に答えた。  よかったら座りなよ、とテーブルを挟んだ向かいの椅子を指し示すとヨシは素直に座った。見慣れない場所が興味深いのか、きょろりと室内を見回している。  おそらく何か運動でもしていたのだろう。ヨシの少しだけ浅黒い肌が実に男らしい。だが体格はどちらかと言えば細身だ。  彼は装身具の類を全く身につけておらず、そのシンプルさが一層初々しさを醸し出していた。  そんなヨシとは対照的に葵は、上から左耳に一つ、右耳に二つのピアス、それからシルバープレートのネックレス、シルバークロスのパーツがメインのブレスレットをつけている。それらは黒地にシルバーやゴールドで飾られている。どれもこれも、貰い物だ。また、今しがた齧り終えた林檎ですらも。  片手間にマジックペンのキャップを外し、メモ紙に手早く『みなさんでお好きなだけどうぞ。葵より』と、書き記す。そしてテーブル中央に置いている紙袋の脇にそっと添えた。  その紙袋の中には、新鮮さを誇示するような瑞々しくきれいな赤い林檎が溢れんばかりに入っている。 「これ、葵さんが?」 「正確には昨日呼んでくれた“お兄さん”から。ヨシくんも食う? 剥こうか?」 「はい、……でも悪いですよ」 「好意は素直に受け取る方がいいぜ?」  茶化すように言えば、大型犬の彼は過剰に頷いた。純粋にかわいらしい。  食し終え残った芯を皮と同じビニル袋に入れた葵は、シンクで手を洗ってから新しい林檎を紙袋から一つ手にした。プラスチック製の薄いが丈夫なまな板と、簡易的に設置してある食器棚から白い平皿を取り出して皮を剥く。今度は等分に切り分けた。そして爪楊枝を刺してからヨシの前へ置くと、素直にいただきますと言い、丁寧ではあるが一つを数口で食していく。  その口元をさり気なく見やると、歯並びの良い白いエナメル質が肌とのコントラストのように目立っていた。 「今日からってことは……写真撮影か?」 「撮影は夕方にしてもらえるみたいです。それまでは葵さんから教えてもらうようにと言われました」 「誰が俺を教育係に任命してんだか」  もうこれで何回目だろうか。  数えることさえも億劫なほど新人によく仕事内容や職場のイロハを一から教えてきた。 教えさせられてきた。  ありがたいことに葵の名前と顔だけは世間に広く売れており、ホームページの顔写真から辿って入ってくる者が多数を占めている。そのためか、常に興味と羨望の眼差しで見られていた。  それに対して悪い気はしなくとも、人にものを教えることは未だに慣れない。 「確か黒いスーツで、店では一番目に偉いと言っていた……」 「守代(かみしろ)か」  ヨシの述べる特徴から思い浮かぶ人物は一人。店長兼チーフマネージャーの、守代一樹(かみしろいつき)だ。  守代は面接の際にはいつも自ら足を運び、この業界で働けるかどうかの素質を見極めていた。そのためか、ここ最近の店内はレベルの高い子ばかりが徐々に増えている。そうして、彼は必ずと言っていいほど頻繁に、新人の教育係を葵に回してくるのだ。 「あの」 「ん?」 「オレ、男相手にシたことないんスけど、大丈夫でしょうか?」

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