三月下旬。 　季節がすっかり春になった、天気の良い平日の午後。 　匠は賢一の車で県外の温泉旅館に向かっていた。共に四月の初めから仕事が始まる。時間のあるうちに遊び倒そうと、賢一が計画を立てて遠出をする話になった。 「前の車クソ遅い。挙動もおかしーし。免許持ってんのかよ」 　相変わらず賢一は口が悪い。 「みんながみんな、運転得意なわけじゃないんだよ。俺もそんなに得意じゃないし」 　匠はいつも、飽きずに賢一の暴走をなだめている。最近は、それほど悪質な事態は起きていない。 　運転する賢一が、目を細めて苛立った表情を見せる。 「こっち陽が当たって暑いんだけど。運転代われよ」 「さっき代わったばっかりだろ」 　軽くたしなめると、賢一は黙り込む。それからしばらく、無言で車を走らせた。 　ミネラルウォーターで喉を潤して、賢一が言葉を漏らす。 「平和だなー。たまにはなんか刺激が欲しいな」 「俺、なんかしたほうがいい？　もっと、積極的になるとか」 　自己評価が低い性質は、そう簡単には修正できなかった。匠は自分に賢一の近くにいる価値があるのかと、時折迷う。 　匠は賢一に対して、好きであるとか愛しているだとか、その類の言葉を伝えていない。もう少し愛情表現のようなものを表に出したほうが良いのではないかと考えながら、何もできていない。 　賢一は再度無言で車を進めながら、残りのミネラルウォーターを飲み干した。 「俺は匠の薄情な顔が気に入ってんだから、むしろなにもすんな」 「薄情のどこがいいんだよ」 「面白くもないのに笑ってるヤツと一緒にいるより、よっぽど落ち着く。たまに腹立ってんのに笑ってるヤツとかいるからな」 「そうなんだ」 　賢一らしい受け止め方。この少し変わった感性が、匠にはとても不可解で、好ましい。信号で車を停めた賢一が、一瞬横目で匠を見る。 「匠が顔色変える時って、まず嘘じゃねーだろうし、よっぽどのことだから、かなりそそるし。急に素直になられてビビるときあるけどな」 　素直になることなどあっただろうか。わからないから、聞き流す。 　信号が変わり、景色が再び動き出す。 　静かな車内。 　何もするなと命令され、変わりたくても変われないと気に病む匠は、浮かばれる。 「なんか本当に、平和だね」 　ほんの数ヶ月前、初冬(しょとう)の自分はもっと自堕落的ではなかったか。一つの季節が過ぎる間に、環境が著しく変わっている。 　初めて賢一に会った時、全てが完璧に見えて怖かった。 　現状に流されて身体を酷使していること聞くと、憐(あわ)れに感じた。 　裏切られたと思った時は、悲しかった。 　顔と身体に関しては、会う度に好意を示された。 　誠実な部分が見えると徐々に信頼を取り戻し、 　不正な部分が見えても、切り捨てることができなかった。 　愛される可能性を知り、愛せないことで傷つける可能性に恐怖した。 　だが賢一は、自分は既に愛されていると言った。 　匠に、情も態度も今まで通りに、変えることをするなと言った。 　だが、明らかに変わっている。 　身体だけの関係が、互いを尊重しつつ依存しない、心地の良い関係になっている。 　生きることに疲弊して流されるだけだった自分は、未来を見据えて就職した。 　賢一は、自分の悪癖の例えに使った煙草をやめた。 　壮大な途(みち)へと、踏み出す感触。 　目的地に到着するまで寝ていればいいと賢一は言ったが、匠は眠らなかった。 　無言で前方を見続ける、誠実そうでいて傍若無人な姿を横目に、同じ前方を眺めながら、目的地までの道のりをゆったりと最後まで共(とも)にした。 了