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第1話 出会い
20世紀目前、東京府―
よく晴れた春の午後のこと。とある大きなお屋敷に一人の少年がやってきました。年の頃は十五、六の少年です。平屋で瓦葺のその屋敷は小高い丘の上にあり、天気の良い日には遠くに海を眺めることもできました。少年はなだらかな斜面に沿った一本道をてくてくと登ってきたのでした。
「ごめんください」
屋敷の周囲を屋根付きの土塀が囲み、中央には屋根付きの門が構えています。行く手を阻むようにして建っている、すすけたような色の木の板を拳で思い切り叩きますが、中から返事はありません。彼がもう二度ほど大声で挨拶すると、門扉の脇の通用口から女中と思しき女性が姿を見せました。
「黒田稀一郎 と申します。今日からお世話になります」
少年は深々と頭を下げました。日に焼けて焦げ茶に傷んだ髪が、ぱさりぱさりと空を切ります。彼はおよそこの屋敷には似つかないぼろをまとい、図田袋を家宝のように大切に抱えていました。しかし顔は綺麗に整っており、肌も健康的な小麦色で、ぱっちりした目には強い生命力を宿していました。女中は奇妙な少年だと思いましたが口にはせず、ただ軽く会釈をしました。
「新しい下男の方ですね。旦那様から聞いています」
実のところ、この少年について、女中は詳しい話を何も聞かされてはいませんでした。人手が足りないから新しく下男を雇うのだということしか聞かされていなかったのです。彼女には彼が何者なのかなんてことはさっぱりわかりませんでしたし、知らなくても一向に構わないことでした。
女中に案内されて、少年は屋敷の門をくぐります。純和風邸宅のイメージそのままに、中にはこれまた立派な庭園が広がっていました。巨大な松の木に見下ろされ、少年は思わず立ち尽くします。
「珍しいですか」
「すいません。こんな家に入るの初めてで……緊張しちゃって」
少年は恥ずかしそうに笑いますが、彼の身なりを見ればそれは当然のことでしょう。
「住めば慣れますよ」
正面の玄関ではなく、さらに庭の奥へと進みます。少年は女中から見えない位置で、飛び石の上をぴょんぴょん跳ねてみました。土の上に石を置くのはどういった理由からなのだろう、そのまま土の上を歩くんではだめなのだろうか、裸足で歩くのならむしろ土の方が軟らかくて良さげなのに……などと思いながら。
短い石橋を通って池を渡ると、赤や金の模様をした太った鯉が岩陰から顔を出し、光を反射させてまた下へと潜っていきます。少年にとっては珍しいものですから、かがんで水の中を覗き込むようにすると、餌をもらえると勘違いしたのかまた鯉が浮かんできては口をパクパクとさせます。その間抜け面がおもしろくてずっと見ていたいと思ったのですが、女中が先にある小屋の前で待っているのが見えたので、慌てて立ち上がり駆けていきました。
「あの、本当すいません。初めてのことばっかりで、どきどきしてしまって」
「いえ……」
彼女は興味なさげにうなずくと、ガタガタと引き戸を開けました。薄暗くて、ところどころ壁が剥がれ落ちている木造の小さな小屋です。土間の向こうは板張りで四畳ほどの広さがあり、中央には囲炉裏が造ってあります。
「ここがあなたの部屋です」
「母屋からは大分遠いんですね」
少年は辺りを見回して言います。母屋の屋根瓦がぎりぎり見える程度で、小屋の周りはサツキやケヤキといった緑に囲まれておりました。
「元々馬の世話をする者たちが住んでいた場所らしいですから」
「他に下男はいないのですか」
「おりません。私のような下女ばかりです」
少年はもう少し話がしたかったのですが、母屋から彼女を呼ぶ声がしたので口をつぐみました。
「旦那様がお帰りになりましたら案内しますから、それまでここで大人しくしていてください」
そう言い残すと、女中はぱたぱたと小走りで去っていってしまいました。
少年はふぅっと大きく脱力して、荷物を置きます。彼の体は、自分で思っているよりもずっとくたびれていました。鉄道での旅も東京の人混みも見知らぬ土地を歩くのも、今日起きた出来事全てが、若く健康な彼を疲れさせるのに十分でした。少年は半刻ほど眠ろうかと思い冷たい床に腰掛けると、扉の隙間からこちらを覗いている目玉に気がつきました。
少年はぎょっとして、そこで何してやがる!と叫び、脅かすようにわざと大きな音を立てて扉を開けました。そこに立っていたのは、彼と同じ年頃の少女でした。稀一郎の迫力に驚いたらしいその子は、目を真ん丸にして突っ立ったままです。
「何してんだって聞いてんだぜ」
少女は黙って後退るだけです。稀一郎がさらにもう一歩踏み出すと、まるでそれが合図だったかのように、少女は身を翻して逃げていってしまいました。少女が母屋の方へ駆けていくので、稀一郎はまずったなと思いました。この家の“旦那様”の子供だったかもしれないからです。知らなかったとは言え、雇い主の子を邪険に扱ったとなれば心象が悪くなります。
しかし、稀一郎の頭の中は既に別のことでいっぱいになっていました。先ほどの少女の、怖いくらいに大きくて黒い瞳。一瞬見ただけでしたが、稀一郎の目に強烈に焼き付いて離れません。あの子について他にもいくつか気がついた点はあったのですが、瞳のことしか稀一郎の心には残りませんでした。
西の空に紫に滲み始めたころ。昼間とは別の女中が、夕食のにおいと共に小屋へやってきました。彼女に連れられ、稀一郎はやっとこの屋敷の敷居をまたぎました。長い廊下を過ぎて入った一室で、稀一郎は初めて“旦那様”と対面しました。この部屋は書斎のように思われました。机に向かって書き物をしていた“旦那様”は、女中が出ていったのを確認してから、稀一郎の方へ体を向けました。稀一郎も急いでその場に正座します。
「本日からお世話になります、黒田稀一郎と申します。よろしくお願いいたします」
両手をつき、深く頭を下げました。
「元気がよくて結構だ。顔を上げなさい」
“旦那様”は、濃く長い口ひげを蓄えた体格の良い壮年の男性でした。稀一郎の父親よりは少し上の年代でしょうか。壁に掛けてある制服から、彼が軍人であることは稀一郎にもわかりました。広い床の間には掛け軸と、反りの深い大太刀が堂々と飾ってあります。彼は西園 と名乗り、こう続けました。
「黒田、お前には通常の仕事の他にも頼みたいことがあるのだ」
西園が隣の部屋へ声をかけると、するすると襖が開いて少年が顔を覗かせました。
「そんなところへ引っ込んでいないで、こっちの明るい方へ来なさい」
少年はおずおずと西園の隣へと座ります。その顔を見た稀一郎は、あっと声を出しそうになりました。昼間、小屋で見かけたあの子だったのです。一目見た時から、稀一郎はどういうわけか、彼を女の子だと勘違いしておりました。しかし近くでじっくり見てみると、どうも男らしいのです。黒髪は光沢を持って美しく、重たい前髪が額を隠し、色白で顔つきも幼いのですが、男物の着物を着ているのです。
「遠縁の子だが、訳あって私が預かっている」
「臼井朔之介 です」
少年は軽く会釈をします。声を聞いて、やはり男だと稀一郎は思いました。そういえば昼間会った時も背丈は自分と変わらなかったな、とも思いました。
「これの相手をしてほしいのだ。なに、特別なことは何もない。毎回の食事を運び、部屋を掃除し、たまに使い走りでもしてくれれば良い」
「かしこまりました」
とは言ったものの、稀一郎にはもう一つ気になる点がありました。それについて尋ねようとすると、西園が先に口を開きます。
「朔之介はもう下がりなさい」
そう言われて、少年はまたおずおずと立ち上がり、襖を閉めて隣室へ戻ってしまいました。
「……朔之介様は、どこか怪我をされているのですか」
朔之介の額には、右目を隠すようにして真っ白な包帯が巻かれていました。頭か右目部分に怪我をしているのだろうかと稀一郎は思ったのです。
「不治の病だよ。あれは目が悪くて、右目はもう使えないのだ。見た目も悪いのでな、普段は隠させている。だが、これ以上の詮索はしてくれるな。朔之介は他人に顔を見られるのを極端に嫌がる」
「それは、不躾なことを申し上げました」
稀一郎は深く頭を下げますが、西園は怒った様子もなく、ただ稀一郎を圧倒する威厳を漂わせておりました。おそらくこの屋敷の外部でも数多の人間を従えているのだろう、と思わせる風格でした。
「詮索はするな、だ。長く働きたいのなら、私や朔之介について何も知ろうとしないことだ。あれの世話を頼むとは言ったが、無駄な会話は許可していない。女中たちとの交流も必要最小限にとどめるように」
西園はその他にもいくつか注意事項を述べました。稀一郎はまた何度かお辞儀をして、書斎を後にしました。
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