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第2話 対話
翌日、稀一郎は太陽が昇ると同時に起きてまずは家の中の雑務をこなし、朝食ができあがるとそれを台所から朔之介の部屋まで届けにいきます。彼の部屋は稀一郎のいる小屋とは母屋を挟んで反対側の離れにありました。稀一郎は何度か廊下を曲がり、さらに渡り廊下を抜ける羽目になりました。
渡り廊下も離れの建物も、後から建て増しで造ったようで、他の場所よりも新しい木材が使われていました。やはり瓦葺で、北側の二辺は壁、南側の二辺は縁側という開放的な造りです。雨戸は開いていますが、内側の戸は閉まっています。
「朔之介様、朝ごはんをお持ちしました」
部屋の前で声をかけますが返事はありません。障子張りなので、中の様子も見えません。
「あのぉ」
もう一度呼びかけますが何も返ってきません。やはりお坊ちゃんなのだなと稀一郎は思いました。きっと甘やかされて育ってきたのだ、羨ましいがけしからんことだ、とも思いました。しかし、このままではせっかくの食事が冷めてしまいます。
朔之介が起きるのを待つよりも勝手に開けて入ってしまえと、稀一郎は障子の取っ手に手をかけました。しかしそこで、昨日の西園の言葉が思い返されます。『朔之介は他人に顔を見られるのを極端に嫌がる』……。稀一郎がうだうだと逡巡していると、障子がひとりでに開きました。
「……そこに置いておいて」
稀一郎が昨晩聞いたのよりもずっと低く掠れた声でした。戸の隙間から覗く真っ黒な瞳。またしても左目。長い睫毛に縁取られているのに、どこか険のある眼差しです。朔之介は呆れたように溜め息をついてまた言いました。
「そこに置いといてって言ったんだけど」
「俺が中まで運びますよ」
「……そういうのいいから。それ置いて、さっさとどっか行って」
朔之介は小さく舌打ちをします。あからさまに不機嫌をぶつけられ、稀一郎はお腹のあたりにむかむかときましたが――おそらく小学校の同級生に同じことをされたら即殴りかかっていただろうと思いますが――ここはぐっと堪えます。
「わかりました。膳は後で取りに来ます。それと、お部屋の掃除はいつやりましょうか。お布団の片付けとか」
「掃除なんかしなくていい」
朔之介はそう言った後に、敷布は洗ってほしいから廊下に出しておく、と小声で付け足しました。
「でも、部屋の掃除も俺の仕事です。旦那様に申し付けられました」
「だったら廊下とか外をやってくれ。中には決して入るなよ」
朔之介は吐き捨てるように言って、お膳をさっと部屋の中へ入れ、ぴしゃりと障子を閉めてしまいました。稀一郎にはなすすべがありません。まるで朔之介の不機嫌がうつったように稀一郎も苛々していましたが、彼の黒曜石のような瞳だけはとても魅力的だと思うのでした。
そんな調子で半月ほどが過ぎようとしていました。稀一郎はいまだに、朔之介とまともに会話もできていません。顔だってちゃんと見ていないのです。初日のようなとげとげした物言いは減りましたが、朔之介は稀一郎のことを好いてはいないようでした。
「今日は天気がいいので布団を干すそうですよ。俺が持っていきますから、廊下に出しておいてください」
朝食を届けたついでに稀一郎は言いました。相変わらず障子は閉まったままです。本当なら布団を部屋から廊下に出す作業も稀一郎がやるところですが、朔之介が戸を開けてくれないので仕方ありません。朝食の膳を置いてさっさと立ち去ろうとすると、おもむろに障子が開いて黒曜石が覗きました。
「……おい、帰るな」
思いがけない言葉に、稀一郎は間延びした声を上げます。
「どうしたんですか。急に、話しかけるなんて」
戸をさらに二十センチほど開いて、朔之介が全身を見せました。麻の葉模様が描かれた白の寝間着を身に着けていました。相変わらず右目には包帯を巻いています。朔之介はむっつりと眉間に皺を寄せたまま、ぎこちなく言いました。
「……庭に、鳥のヒナがいたんだ。木の根元に落っこちてた」
「はぁ。それで?」
「そ、それで……巣に戻してあげてほしいんだが」
朔之介は目を合わせず、もじもじと着物を掴んでいます。その仕草が意外であり、稀一郎は二つ返事で承知しました。
日中、稀一郎は庭中を隈なく捜しました。松の木の下、幹の上、枝の先、茂みの中、鯉がいる池、橋の下までです。しかし朔之介の言っていたものはとうとう見当たりませんでした。夕食時に報告すると、朔之介は肩を落とします。
「怪我をしていたんだ」
親鳥が巣に連れ帰ったのかもしれないですよ、と稀一郎が言うと、朔之介は安堵したように顔を上げました。
「お前の名前、ちゃんと聞いてなかったな」
つぶらな瞳が慣れない近距離で覗いてきます。稀一郎はなぜか変な汗をかきました。
「黒田稀一郎です」
「臼井朔之介だ」
それから稀一郎と朔之介は徐々に親しくなっていきました。同年代の人間がいない屋敷内でお互い退屈していたし、孤独でもあったので、二人の交流は当然と言うべきものでした。朔之介の気が向けば昼食を一緒にとることもあったし、稀一郎が薪割りをしているところへやってきて無駄話をすることもありました。
ひと月もすれば、稀一郎がおつかいの帰りに飴を買ってきて朔之介と二人で食べたり、逆に朔之介がもらい物のカステラを稀一郎にくれたりするようにまでなりました。
「本当にもらっていいのか?イギリスの高級なお菓子だよな、これ」
「イギリスじゃなくて長崎だ」
そう言って朔之介は口角をわずかに上げます。彼の微笑みは独特で、いつも目元を動かさずに笑うのでした。稀一郎はこれを初めて見た時、ずいぶん下手くそな笑顔だなと思いましたし、もしかしたら無理して笑っているのではないかと疑ったりもしたのですが、今ではもう慣れっこでした。
「おじ上の仕事の関係でよくもらうんだ。遠慮しないで食べろよ」
これまで駄菓子や豆菓子しか食べたことのなかった稀一郎にとって、目にするのも匂いをかぐのすらも初めての洋風菓子です。どぎまぎしながら手に取って一口頬張ると、稀一郎は瞳を煌めかせて言いました。
「うまい!」
朔之介はまた下手な笑みを浮かべます。
「しっとりしててふわふわでまろやかで、とっても甘い。上等な砂糖の味がする。今まで食べたものの中で一番うまい」
稀一郎はカステラをぺろりと平らげてしまいました。永遠に食べ続けたいと思うほどおいしかったのですが、そんな我慢ができるはずもありません。贅沢に慣れるのはよくないと思いつつも、稀一郎は朔之介の好意を毎回ありがたく受け取っていました。
「こんなうまい菓子初めて食ったよ。お前って本当いいやつだよな」
屈託のない笑顔で稀一郎が言うと、朔之介は怪訝な顔をします。
「菓子を分けてやってるだけだろう」
「それはそうなんだけど……ほら、最初会った時のこと、旦那様に言わないどいてくれたろ。そういうところが、なんて言うか、優しい?」
「そんなのは自分のためにしたことだ。感謝されるいわれはない」
朔之介の言うことが、稀一郎には時々わかりません。
「でももしお前が言い付けていたら、俺は初っ端から叱られる羽目になってたんだ。そうならなかったのはお前のおかげだし、菓子もくれるし、やっぱりいいやつだよ」
稀一郎はもう一度、ありがとうと言いました。朔之介はかすかに目を伏せます。長い睫毛が下まぶたに濃い影を落とします。
「そんなことよりも、いつも通り約束守れよ」
稀一郎と友人のように過ごした後、朔之介が決まって言う言葉がありました。
「他のやつらには絶対秘密だ」
自らを戒めるようにして言うのです。そしてこの言葉の意味も、稀一郎にはよくわからないのでした。
「今日おれたちは会わなかった。一緒に菓子なんか食わなかった。わかってるな。おじ上にも他の女中連中にも言うんじゃないぞ」
「わかってますよ。俺だって旦那様にバレたらまずいし」
朔之介の毎度の忠告に稀一郎も毎度大人しく従っていますが、今回は少しだけ踏み込んだ話がしたかったのです。
「あのさ、いつも絶対秘密だって言うのは何か理由があるのか?確かに秘密にした方がいいかもしれないけど、ものすごーく悪いことをしてるわけでもないだろ?別に、ただ一緒に菓子食ってるだけだしさ」
朔之介はぴくりと眉を寄せて言います。
「それを聞いてどうする」
「どうするってわけじゃないけど。俺はただ、あんたのことをもっとよく知りたいだけだ。あ、でも詮索するなって旦那様にも言われてるし、言いたくなければ言わなくても……」
ごにょごにょ言った後にいたたまれない気持ちになった稀一郎は、とりあえず熱いお茶を飲み干しました。
「……言いたくない、ってわけじゃない。だけど、おれだけ話すのは不公平だろう?」
「あ、ああ、うん。そうだな」
てっきり朔之介の機嫌の損ねたとばかり思っていた稀一郎にとって、それは意外な反応でした。
「お前の身の上話を聞かせてくれたら、話してもいい」
「俺のぉ?おもしろい話でもないけど、それでもよければ」
「聞かせてくれよ、稀一郎」
朔之介は頬杖をついて言いました。
「んー、俺は普通に農家の出なんだけど」
黒田稀一郎は関東近郊の農村の生まれでした。両親と共に農家をしながらつましい生活を送っていたのですが、あるとき村が流行病に襲われます。両親が死に、他の村人も相次いで死んでいく中、生き残った稀一郎は村を捨て、日雇い労働や年季奉公で食っていくようになりました。
「まぁ、ざっくりこんなもんかな。次、お前の番な」
朔之介は時折相槌を打ちながら稀一郎の話を聞いていましたが、自分の話す順番になると渋い顔をします。
「約束でしょ?何でもいいからさ」
「ん……じゃあ、つまらない話だが……」
朔之介は物心つく前に西園に引き取られ、以来ずっとこの屋敷に住んでいます。今では女中ばかりの西園邸ですが、過去には男の使用人を雇っていたこともありました。しかし、朔之介が小学校に上がったばかりの頃、雇っていた下男が事件を起こしたのです。それ以来、西園家では極力男の使用人を雇わなくなったのでした。
「西園のおじ上は、おれが相手を怒らせるようなことをしたんじゃないかと疑っておれを叱るんだ。だから今でも、おれが大人の男や屋敷外の人間と関わるのをすごく嫌がる。お前と会ってることを知られたら、おれだっておじ上に叱られるんだ」
「本当に相手を怒らせるようなことをしたのか?」
「さぁ。おれの目のせいだとか、肌の白いのがよくないとか言っていた。こっちにその気がなくても、向こうが勝手に勘違いしたのかもしれない」
「ふぅん。お前も苦労してんだな」
稀一郎から見ても、朔之介の今の生活は自由とは言い難いものです。離れの部屋からほとんど出ないし、屋敷外を出歩いているのなんて一度も見たことがありません。きつい言い方をすれば、軟禁されているのとほとんど変わらないように思えました。
「旦那様はお前の親戚なんだよな。お前の本当の家族は今どうしてるんだ?」
朔之介は首を振り、物憂げに呟きます。
「何も知らない。ただ、おれを育てられないから養子に出したらしい、というのは聞いた」
この時稀一郎は、朔之介の目元や色白の肌が、大昔に亡くなった妹を想起させることに初めて気がつきました。妹は、朔之介と比べればずっと活発で表情も富んでいたけれど、ふとした瞬間の朔之介の横顔や眼差しが、どことなく妹と重なって見えるのでした。
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