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第3話 目

 ある晩のことです。草木も眠る丑三つ時。月の出ない闇夜でした。西園邸の離れには細い明かりが灯っていました。人影ははっきりとしませんが、二人分あるように見えました。 「朔之介。黒田とはうまくやれているか」 「はい、父上」  一組の布団の上、屋敷の主である西園|次信《つぐのぶ》と、彼の遠戚で養子の朔之介が、神妙な面持ちで向かい合っています。西園はゆったりとした寝間着を、朔之介は白の長襦袢を着ていました。その襦袢は絹でできているらしく、ロウソクの明かりに照らされて真珠のように艶めいていました。白百合の繊細な刺繍が銀糸で施されてもいました。  雪よりも白いそれを乙女のように着こなした朔之介の姿は、さながら嫁入り前の少女です。白の上、髪や瞳の黒はいっそう映えるのでした。 「おかしなことはしていないだろうな?」 「はい父上。何もありません」 「それを聞いて安心した。私はお前を信用しているのだからな。あのようなことは二度と起きてはならない。もう次はない」  朔之介は膝に置いた拳をぎゅっと握りしめ、震える肩を叱咤するように背筋を伸ばしました。西園は朔之介の頭を撫でて目を細めます。 「よしよし、怖がらなくていい。いつも優しくしてやっているだろう。……さぁ、舐めなさい。歯を立ててはいけないよ。舌を使うんだ。わかっているな」 「……はい」  朔之介は右目の包帯をほどき、西園の前へ跪いて身をかがめます。その手はもはや震えてはいませんでした。  *  翌日の昼食後、縁側に座っていた朔之介に、稀一郎はビワの実を差し出しました。庭にビワの木があり、実がたくさん生っていたので無断で採ってきたのです。月に何度か庭師を呼んで手入れさせているのですが、西園は庭で採れる果物には興味がないようで、実がなっても鳥にくれてやっていました。稀一郎にはそれがもったいないように思えたのです。 「実家にあった柿の木を思い出したんだ。せっかくだから食べてやらないとな。それにこういうのって家族みたいでいいなぁって」  それに、今日の朔之介は普段以上に無口で表情が硬く、朝もなかなか起きられなかったので、体調を崩したのではないかと稀一郎はひそかに心配していたのでした。お互い黙々とビワの皮を剥き、一口食べました。甘味よりも酸味が強くて水っぽいビワでした。 「ちょっと酸っぱいな。早かったかな」 「売り物じゃないからな。おれは悪くないと思う」  朔之介が言うと稀一郎はにこりと笑って、俺も悪くないと思うと言いました。 「でもビワって種がでかくて、あんまり食べた気しないよな。また明日持ってきてやるからな。お前もたまには外に出ても……」  朔之介はしゃきしゃき返事をしません。ぼんやりとしてどこか遠くを見ているようでした。目の下にできた隈が、より一層陰鬱さを醸し出しています。稀一郎は朔之介の横顔を見つめたまま一寸考えて、また口を開きました。 「なぁ、話変わるんだけど、昨日の夜さ――」  瞬く間に、朔之介の顔色が変わりました。血の気の引いた青白い顔、細かに震える唇、ただでさえ大きな瞳はぐらぐら揺れて今にも零れ落ちてしまいそうな勢いです。指先が冷えてかじかむのか、朔之介はしきりに両手を擦り合わせます。苦しそうに胸を押さえて、喘息患者のように呼吸を乱します。何度か声を出そうとしますが、ひりつく喉からは枯れた空気が漏れるだけでした。 「……何か、聞いたのか」  絞り出すように、朔之介はやっとそれだけ口にします。光を反射しない深い黒目に射すくめられてすっかり動揺してしまった稀一郎は、しどろもどろに答えました。 「いや、その、犬が吠えてたんだよ。ワンワンキャンキャン、すごくうるさくて、」  稀一郎は赤くなったり青くなったりしながら、身振り手振りを交えて話します。それを見ているうちに、朔之介の肌には色が戻りました。 「外に出ても姿は見えないしどこにいるんだろうって……だから、その、お前も犬がうるさくて寝不足なのかと思っただけで、別にそれ以上の意味はないというか……」 「……犬がうるさかったってだけの話か」 「うん、そうそう!でもその犬一匹だったみたいで、誰も鳴き声を返してくれなかったんだ。かわいそうにな」  朔之介は強張っていた体を緩め、背後の壁へ寄りかかりました。その後すぐに、何がおかしかったのか、愉快でたまらないという調子で笑い出しました。 「なに笑ってんだ?今の話そんなにおもしろかったか?」  けらけら笑っている朔之介は珍しく、もはや不気味とも言えます。稀一郎はいまだ動揺を隠せません。 「傑作だな。本当に最高だ」 「そ、そうか?」 「おれもとっておきの話があるんだ。聞かせてやる」  朔之介は稀一郎の耳へ口を寄せ、その犬は実はおれなのだと囁きました。 「うまいもんだろう?おじ上が喜ぶから、時々鳴き真似をしてあげるのさ」  耳たぶをくすぐるように息を吹きかけます。稀一郎は耳を押さえ、困ったように朔之介を見ました。 「変なことすんなよな」 「お前がかわいいから」 「意味わかんねぇよ。犬の鳴き真似ってのも意味わかんねぇ。真夜中にやるのも意味わかんねぇし旦那様が喜ぶのもわからねぇ」  朔之介は常よりも口角を吊り上げ、からかうように笑います。 「だからお前はかわいいと言ったんだ」  稀一郎は納得できず、怪訝な表情を浮かべました。 「もっとおもしろい秘密を教えてやる」  朔之介は稀一郎を誘うように腕を絡め、縁側から室内へ入ります。困惑する稀一郎の声を無視して、外へ声が漏れないように障子を閉め、押し入れの襖までぴったり閉じます。そして再度稀一郎の耳元でこそこそ話し始めました。 「おれの目、右目のことだ。実はな、なんともないんだ」  朔之介は稀一郎の手を取り、額に巻き付けている白い布へと触れさせました。稀一郎は驚いて肩を揺らします。 「っな、なに」 「だからこの包帯の下、おれの素顔をさ、見たくないか?なんてことはない。普通に目玉がついてるだけなんだぜ。な、気にならないか?」  耳元で喋られてくすぐったい稀一郎は身をよじり、朔之介の方へ向き直ります。 「……でもお前、顔見られるのが嫌なんだろ?旦那様にも叱られてしまうし」 「そんなことか。言わなきゃいいだけだ。それにおれは、顔を見られるのが嫌だなんて言った覚えはない」  はて、そうだったろうか。たしかに聞いたはずだが、と稀一郎は思いました。 「おじ上が勝手に言ってるだけだ。過保護なんだよ。……なぁ稀一郎、気になるだろう?おれの右目がどうなっているのか」  朔之介はたっぷりと息を含んで名前を呼びます。呪われたように黒い左目が稀一郎を捕らえます。 「……や、やっぱりなんかおかしいぞ。寝不足か?変なもんでも食ったか?」 「おれのことを知りたがっていただろう?教えてやるから、この布剥いでみろよ」  朔之介は稀一郎に体をすり寄せ、しっとりと惑わすように言います。いよいよ逃げられなくなった稀一郎は、ええいもうどうにでもなれと、力任せに包帯を取り去りました。結び目は簡単にほどけ、するりと朔之介の頬を撫でて落ちました。 「っ、な」  稀一郎は息を呑みました。それは不透明な琥珀です。いえ、おそらく本物の目玉なのでしょう。しかしこんな妙な色の球体を目玉と呼んでいいのでしょうか。漆黒の闇のような左目と比べて明るすぎるその右目には、瞳孔がくっきりと浮かび上がっていました。その非対称さがなんとも不気味で、見た者の心を掻き乱すような不安定さと妖しい魅力がありました。 「……はちみつ……」 「は?」 「はちみつを零したみたいな色だな。本当の本物なのか?」  稀一郎は朔之介の顎を掴み、強引に顔を近づけました。睫毛の触れるほど近距離で、その瞳をまじまじと覗き込みます。鮮やかな金の中に青や緑が散っているそれは、まるで希少な宝石のようでした。左目と同じく、黒々とした長い睫毛がびっしりと周囲を縁取っており、これもまた瞳の金を際立たせるのに一役買っていました。 「はちみつって言ったけどべっこう飴にも見えてきた。舐めてもいいか」 「ば、馬鹿言うな、いいわけないだろ」  朔之介はあからさまに狼狽えました。稀一郎の手を引き剥がそうと頑張りますが、びくともしません。むしろ稀一郎の腕にも力が増していきます。 「離れろ、この……顔が近いんだよ」 「なんでだよ、お前が見せてきたんだろ。……うん、やっぱりすげぇぜこれ。十何年生きてきたけど、こんなの見るのも聞くのも初めてだ。見えてるのか?俺の顔わかる?左右で見え方が違ったりするのか?右側だけ金色に見えてたりするの?」  稀一郎は途中感嘆の声を漏らしながら、興奮気味に畳みかけます。 「クソ、もういいだろ。放せってば」  朔之介がほのかに涙を浮かべて暴れ始めるので、稀一郎はぱっと手を放しました。 「ごめん、ごめんな。嫌だったよな。怒ったか?」  朔之介は目をごしごし擦った後、別に怒ってないと言いました。 「ちょっと驚いただけだ。お前みたいなやつには出会ったことがない」 「俺だってこんな綺麗なものを見たのは初めてだ」 「そういうことじゃない……」  朔之介はむっと口を尖らせますが、その後ぽつぽつと稀一郎の疑問に答えました。例えば、左右で同じ色のものが同じように見えていることなどを。稀一郎は興味深そうにうなずいて、時々朔之介のまぶたを撫でるのでした。

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