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第6話 残酷

 稀一郎を待つ間、朔之介は全く鼻歌でも歌いたい気分でした。祭りと聞いて胸が弾むのは誰でも同じことです。うっとりと目を瞑ると――十年も昔に一度見たきりですけれども――夏祭りの活気と熱気、汗のにおいや砂埃まで鮮明に思い出せます。御神輿を担ぐ掛け声や御囃子のリズムが、今でも脳裏に焼き付いています。  いきなり、部屋の障子が開かれました。朔之介が振り向くと、立っているのは着流しに着替えた西園次信です。 「父上……?」  待っていた者とは別の人物が現れたので、朔之介はぎょっとします。 「今日はお帰りにならないのでは」 「用事が早く終わった。私は疲れているんだ……早く服を脱ぎなさい」  朔之介はぞっとして青ざめました。西園との情事は新月の夜と決まっていて、そうでない時は事前に伝えに来てくれるはずなのに、今夜はそのどちらでもないのです。突然服を脱げなんて言われても、朔之介には心の準備ができていません。 「き、急にそんな……今晩は違うじゃありませんか」 「私に口答えする気か」 「いえ……」  朔之介は小さく縮こまりました。西園の有無を言わせぬ圧力が恐ろしいのです。朔之介よりも体が二回りは大きく、鍛えた肉体を鎧のようにまとった軍人。先の戦争で活躍して出世したらしく、公にも強大な権力を持っている。そんな相手に敵うわけがないと、朔之介はとうに諦めていました。抗うだけ無駄であり、傷を増やすだけだと理解していました。 「服を脱ぎなさい。私に愛されたいだろう?」 「はい……次信様」  明かりを消して、朔之介は着物の帯を解きます。全ての布を脱ぎ捨てると、あとは西園にされるがままです。布団に膝をついて腹這いになり尻を突き出すと、潤滑剤でぬめった指が肉を割いて入ってきます。武骨な指が中を掻き回して出ていくと、入れ替わりでもっと巨大なものがねじ込まれます。朔之介は歯を食いしばり、全身を貫く痛みと内臓を押し潰す圧迫感に耐えました。苦痛から悲鳴を上げると西園の機嫌が悪くなるからです。 「……私を愛しているか?お前は永遠に、私のものだな?」 「っ……はい……慕って、おります……」  西園が腰を揺すります。朔之介の方もだんだんと体が馴染み、中が柔らかく溶けていきます。こうなると徐々に、痛いだけでは済まなくなってきます。下腹部は熱く、尾てい骨の辺りから背筋がぴりぴり痺れます。あ、と朔之介が声を出すと、西園はさらに強く腰を打ち付けるのでした。 「気持ちいいか?お前はこれが好きだな、ん?」 「……んぅ、はい……好き、です……」  朔之介は短く喘ぎ、唇を噛みしめます。そして、混濁する意識の中で思いました。甘い声が漏れてしまうのは快楽を感じているからなのだろうか。快楽とは何だろう、なぜ気持ちいいのだろうか。これが愛なのだとおじ上は言うけれど、快楽とはすなわち愛なのか……?  西園に揺さぶられながらまぶたの裏に浮かぶのは、青空の下で入道雲を背に笑う稀一郎の姿でした。目を伏せたくなるほど眩しい笑顔が、朔之介は好きでした。そうだ、今日は祭りの日で、あいつと花火をしようと話していたのだった。それなのにどうして、おれはおじ上と体を重ねているのだろう。あいつは今どこで何をしているのだろうか。既にすぐ近くまで来ているのかもしれない。こんな姿を、あいつにだけは見られたくないな…… 「……き、ぃち……」  図らずも漏れてしまった朔之介の言葉に、西園はぴたりと動きを止めました。 「……今、誰のことを考えていた」  たっぷりと怒気を含んだ重低音が頭上から降ってきて、朔之介の意識は一瞬で現実へ引き戻されます。 「何を考えていたのだ」  ひんやりと、背筋が凍りつく思いです。朔之介は何も言えずに震え慄きました。西園は苛立った様子で朔之介の体をひっくり返して仰向けに倒し、握り拳で朔之介を殴打します。朔之介は低くうめいて、左頬を押さえました。 「他の男のことを考えていたなっ!?」  西園は声を荒げて繰り返します。朔之介は真っ青になって、乾いた唇で謝罪を述べますが、西園はまた朔之介を叩きます。 「黒田だなッ!?また男を誑かしたのか!?どうしてお前はいつも!いつもいつもいつも!こうなんだ!?この淫売めがッ!」  がつんがつんと絶え間なく、重い衝撃が走ります。朔之介は痛みと恐怖で身がすくみ、ぜぇぜぇと肩で息をするだけです。 「あ、あいつは、そんなんじゃあないんです……」  ようやっと、朔之介は泣き出しそうな声で言いました。 「さっきは下の名前で呼んでいたな!?あいつとの関係をはっきり言ってみろ!」 「っ……く、黒田は、ただの……下男です…………本当に、なんでもありませんから」  西園は聞く耳を持ちません。朔之介が懸命に謝ったり否定したりするのに、西園はひたすら拳を振り下ろします。目の前の少年以外の物は目に入らず、音も聞こえていないようでした。この勢いでは稀一郎まで殺しかねないと、朔之介は戦慄しました。そうやってしばらく痛めつけた後、西園は静かに尋ねます。 「……お前はまだ、私のものか?」  朔之介は内心ほっとします。この質問に正しく答えれば、暴力から解放されるのです。普段通り、もちろんあなたのものです、と言おうとして口を開きました。しかし、なぜだか声が出ません。喉の奥に絡み付いて、外へ出てこないのです。 「答えろ、朔之介。お前は私のものなのか!?」  西園がまくし立てます。朔之介は焦って咳き込みます。舌が引き攣れて痺れます。しかしどう頑張っても、声は出ません。  朔之介は泥の中に沈み込んでいます。真っ黒な穴の奥底にある底なし沼です。逃げ出したくても、この沼に捕まってしまえば最後、どんどん沈んでいく一方で、二度と地上へは出られません。今は顔だけ出してやっと息をしている状態で、窒息するのも時間の問題です。朔之介は足掻くことさえ忘れ、静かに死を待っていました。泥のぬかるみも、臭いも闇も、慣れてしまえば我慢できないことはないのです。  不意に、朔之介を強く掴んで泥沼から引き上げようとする者があります。その手を払っても、諦めずに引っ張り上げようとします。朔之介が根負けして空を見上げれば、汚れた顔で明るく笑う稀一郎の姿がありました。光に照らされて、朔之介は気づきます。空は高く、世界は広く、人肌はこんなにも温かいのだ。閉じられていた視界が一気に開けました。  こんなものはもちろん幻覚です。そうとわかっていて、朔之介は不思議なほど冷静でした。頭の中は靄が掻き消えるように、すっきりと晴れ渡っていきます。朔之介は今、自分の力で泥沼から這い上がるのです。 「聞いているのか?早く答えろと言っているのだ」  焦れたように西園が問います。朔之介はぼそぼそと呟くように答えます。西園が聞き返すので、朔之介はきっぱりと言い放ちました。 「おれは……おれはあんたのものじゃない!おれはあんたの玩具じゃないし、閨の奴隷でもない!」  朔之介は眉をぎりりと吊り上げ、大きな瞳で西園を睨み付け、叫ぶように宣言します。涙が出るのを堪えようと、奥歯を食いしばります。 「あんたの言いなりになんてならない!おれはおれのものだ!」  そう言い終わらないうちに、西園の拳が飛んできます。朔之介が腕を前に出して身を庇うので、西園は炎のような面になって殴りかかりました。  刺すような激痛が全身を貫きます。腹に入った衝撃が脳天まで鳴り響き、胃液と血の混ざったものを吐きました。内臓がばらばらに揺れ、体内で掻き混ぜられます。骨が粉々に砕け散って、崩れてしまいそうです。西園は今まで加減して殴っていたのだと、そんなどうでもいいことに朔之介は気がつきました。 「貴様なぞ、初めから殺しておればよかったのだ」 「……今殺したら、あとが大変ですよ……父上」  血を噴きながら、朔之介は薄ら笑いました。体中至るところに生々しい傷ができて、流血し、赤黒く腫れていましたが、そんなものが些末事に思えるくらい清々しい気分でした。西園は散々暴行を働いた後、朔之介の首を絞めようとしましたが、どうにも手が震えてしまってできません。西園は忌々しげに舌打ちをし、着物の裾を直すと黙って部屋を去りました。  朔之介は、血や汗や体液でどろどろに汚れた敷布の上で、ぐったりと横たわっていました。全身痛いのもありますが、それよりも精神的に疲れてしまって、何もやる気がしないし誰とも会いたくないという気分でした。このまま眠ってしまって明日になったら死んでいるかもしれないな、と思いながら寝返りを打つと、戸の隙間からこちらを覗く稀一郎と目が合いました。 「朔――」  稀一郎はすぐに駆け寄ってきて、朔之介の布団のそばへ座ります。朔之介は稀一郎の姿を見、己の最も恐れていたことは西園との関係を稀一郎に知られてしまうことだったのだと、初めて自覚しました。勝手に涙がぼろぼろ零れます。塩水が傷口に沁みても、目からあふれて止みません。 「……き、傷が痛むか?大丈夫か?」  稀一郎の気遣いが今の朔之介には苦しく、ただ静かに泣きました。 「俺にできることあるか?救急箱は?」  朔之介は黙って首を振り、いつからいたのかと尋ねました。稀一郎は一瞬茫然として、すまないと言いました。 「結構始めの方から……縁側の下で、音だけ聞いていた。何が起きているのかよくわからなかったけど、事が進むにつれわかった。それで……お前が酷い目に遭っているのがわかっていて俺は……何もできなかった」  稀一郎は悔しそうに、すまないと繰り返しました。稀一郎まで泣き出してしまいそうでした。 「…………今日のことは、見なかったことにしろ。お前は明日、きっと追い出されるだろうから、荷物をまとめておけよ」  朔之介が掠れた声で言うと、稀一郎は慌てて言い返します。 「なっ……それじゃあ、お前はどうなるんだよ。俺のことなんかどうだっていいだろ?一緒に逃げよう。このままだといつか殺されちまうぞ」 「うるせぇ。おれのことこそどうだっていい。……なぁ稀一郎、おれはどこへも行けないんだ。わかるだろう?お前はお前のことだけ考えてろよ。おれとの関係を聞かれても知らぬ存ぜぬで通すんだ、わかったな」  朔之介は稀一郎に背を向けて、早く行っちまえと言い放ちました。稀一郎が何か言いかけますが、朔之介の冷たい声に遮られます。 「放っておいてくれ」  その後はすっかり押し黙ります。稀一郎は納得していない様子で何度か後ろを振り返りながらも、とうとう部屋をあとにしました。

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