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第13話 母

 翌年の晩夏、東京府――  窓の格子戸を開けると、風が髪を揺らしました。手すりにもたれながら、朔之介は煙草に火をつけます。立ち昇る煙は糸のように流れ、空中で掻き消えました。煌びやかに着飾っていた街並みも、夜が明ければ静まり返り、爽やかな風が抜けるだけです。しかしまた夜になればどこからか人が湧いて出て、大枚をはたいては欲を満たすのです。欲望の渦巻く街、男も女も同じことです。  表通りからやや下ったところにある宿の二階。すぐ近くの神社で引っかけた男はまだいびきをかいています。四十半ばくらいで、無精ひげが少々不潔な、横幅の広い男です。引っかけたのか引っかけられたのか、詳しいことは忘れました。どちらが先に声をかけたかなんて、今更どうでもいいのです。  朔之介の服装は相変わらず羽織も着けない着流しですが、今はまだきちんと着付けておらず、上衣は肩に掛けているだけです。朔之介は退屈凌ぎに煙で輪っかを作り、ぷかぷか浮かべました。  男が大きなくしゃみをし、のそのそと布団から起き上がります。朔之介はさっと吸いさしを灰皿に押し付けました。まだ半分も吸っていないのに、と肩を落としますが、すぐに朗らかな表情と声を作って男に話しかけます。 「おはようございます。寒かったですか」  実際のところ、表情も声の調子もあまりうまく作れておらず、ぎこちなさが残るものでした。しかしこれが朔之介の精一杯なのです。 「お代をまだ頂いておりませんので」  いそいそと男の傍らへ座り、媚びるような上目遣いで言いました。男は懐を探り、それが貸し出しの浴衣だったことに気づくと、昨晩脱いで散らかしたままの洋服を漁ります。財布はスラックスのポケットに入っていたようです。男はがま口から金貨を取り出して朔之介に渡します。朔之介は丁寧に受け取って、袂にしまいました。 「ちょっと聞きたいんだが、母君は元気かね?」  藪から棒に男が言います。朔之介は思わず立ち尽くします。 「おれは、母のことは何も知らないんです。顔も覚えてません。母に会ったことがあるんですか」 「いや、人違いかもしれないんだが、君とそっくりな女性に会ったことが……もうかなり昔の話だが、君と瓜二つの美しい女がいたんだ」  男は二十年も前の初恋の話をし始めました。誇張や妄想が多分に入っていそうな話振りにうんざりしながらも、朔之介は大人しく耳を傾けます。  学生の身でありながら、悪友に誘われて初めて花街へ出かけた時のことです。男は彼女に出会いました。女は高級遊女ではなく、一介の芸者でしかありませんでしたが、特に目を引く美しさだったと言います。零れ落ちそうなほどのつぶらな瞳が印象的でした。三味線の弦を走る細い指、音楽に合わせて動く薄い唇、一々の仕草に目を奪われました。  解散後、友人は別の芸者を伴って奥座敷へ入ってしまいました。当然男も気に入った彼女を誘い、寝ました。白粉を塗っていない肌も白く透き通っていて、繊細な色香がありました。それから男は足繁く彼女の元へ通い、何度も床を共にしました。しかしある時、女がこう告げます。 「そろそろ一人に決めようと思っているの」  待ってくれ、と男は言いました。 「ごめんなさい。あなたには感謝しているけれど、でも私にはあの人しかいないの。すごくすごく好きな人なのよ」  男は唖然とします。こんなものはただの遊びだし、そう割り切って考えていたのに、他の男に奪われると思うと非常に口惜しく思われました。とはいえ結婚など考えられる年齢でもありません。結局、その晩が女との最後の晩となりました。 「君の横顔が彼女と生き写しだったもので、思わず声をかけたんだ。透き通った肌も大きな瞳もそっくりだ。もしも素顔を知ることができたなら、きっともっと似ていたに違いない」  朔之介の包帯に触れて男は言います。右目は潰れたとか怪我をしたとか病気だとか適当な言い訳をつけて、朔之介は男たちからの追求を凌いでいるのです。もちろん無理やり包帯を剥ぎ取る者もいます。彼らは朔之介を気味悪がったり罵ったり、時には手が出ることもありますが、朔之介は黙って耐えることにしています。今回は運が良かったのでした。 「しかし、やはり確信を持って言うが、君はあの人の息子なのではないかな。君の左脚の付け根に変わった形の黒子があるだろう?彼女も同じ場所に同じ形の黒子があったんだよ」  言われてみれば、そんなものがあったように思います。これまで気にも留めていませんでしたが、確かに朔之介の脚の付け根には歪な形の黒子がありました。 「おれはそんなに、その女に似ていますか。女の名前はなんというんです」 「千草と名乗っていたが、本名ではないと思うよ。店の名前は……深川の松屋だか松乃屋だか、松のつくものだった気がするが……」  それだけ知れば十分でした。朔之介は立ち上がると、肩に掛けていただけの着物に袖を通し、帯を締めました。 「帰るの?朝まで付き合わせて悪かったね」 「いえ、色々お話を聞かせてもらえて良かったです。宿も上等だし、あっちの方も最高だった。機会があればまたお願いしますね、旦那」  ぎこちない笑顔で言い、朔之介は一足先に宿を出ました。実の母が枕芸者だったと聞かされても、朔之介は案外驚きませんでした。蛙の子は蛙。血は争えません。一方で、心はわずかに上擦っていました。  朔之介は今まで母を恋しく思うことがなかったわけではないものの、捨てられたという恨みもあったために熱心に探そうという気は起きませんでした。しかし、こんな話を聞かされてはさすがにじっとしておれません。大昔の曖昧な話だとしても、母の行方を探る手掛かりをほんの一欠片得ることができたのです。一目でいいから会ってみたいと思わずにはいられません。血は水よりも濃いと言います。  たとえろくでもない人生であっても、家族さえ見つければいくらか好転するのではないかという希望が湧いてきます。だってそうでしょう。あの稀一郎でさえ、既に亡くなっている肉親に対してだけは、他にはない執着を見せていました。詳しいことを語ろうともせず、独りで背中を丸めていたのです。朔之介の肉親だって、朔之介のことをきっと思ってくれているはずです。  朔之介はそのまま徒歩で、母がいたという花街へ向かいました。背の高い灯篭が道の脇に立っています。これが花街への入口です。そこからお不動までの細い通り沿い、料亭や待合茶屋、貸座敷などが所狭しと並んでいます。時々裏へ入る横道があって、そちらにも似たような店がひしめいているのでした。建物が太陽を遮り、ぱっきりとした影を落としていました。  まだどこも開店していませんが、とりあえず目についた扉を叩いてみます。茶屋の主人らしき女性が鬱陶しいと言わんばかりの顔を覗かせました。 「ごめんなさいねぇ。昼間は営業してないんですよ」 「あの、えっと、人を捜しているのです。このあたりで二十年も前に働いていた千草という芸者を、ご存知ありませんか」 「……お客さんじゃないのかい。そんな昔のこと、あたしは知らないよ」  女性がむっとして玄関を閉めようとするので、朔之介は慌てて言います。 「は、母を捜しているのです」  女性は呆れたように溜め息をついた後、維新以前から営業しているという料亭を教えてくれました。そこからいくつかの店を転々と回り、やっと辿り着いたのが菊乃井という芸者置屋でした。  その店もやはり町屋風の造りで、裏道へ逸れたところに狭苦しく建っているのでした。入口の細い格子の隙間からは中の様子は窺えません。朔之介は店先でもじもじしながら、じっと聞耳を立てました。かすかに三味線や太鼓の音と、合わせて歌声が聞こえてきます。今夜のために昼間から練習しているのでしょう。母も朔之介を抱いて歌を歌ったりしたのでしょうか。こんなものをいくら聞いていたって、記憶にないことなど思い出せるはずもありません。  朔之介が遠慮がちに戸を叩くと、女性が顔を出します。現役の芸者というには歳を取っていて、落ち着いた佇まいです。髪は丸髷に結っていました。女性は朔之介の顔を見るとはっとして、何も言わずに座敷へ上げ、親切にお茶まで出してくれます。 「お千代ちゃんの息子さんよね?」  開口一番、涙ぐみながら女性は言いました。朔之介はうっかりお茶を噴き出しそうになります。 「一目でわかるわ。そっくりだもの。今日は一人でいらしたの?お母さんはお元気?また会いたいって伝えておいてちょうだいな。それにしても本当にそっくりねぇ。女の子だったらうちで働いてもらいたいくらい、かわいらしいお顔だわ」  中年女性に特有の、きんきんと耳に響く喋り声です。その勢いに圧倒されつつ、朔之介はここへ来た理由を話します。 「母に、どうか一目会いたいのです」  女性は不憫がって泣きました。手巾で目頭を押さえます。 「まさかあのお千代ちゃんがねぇ……あなたも、まだ若いのに苦労されて、大変だったわねぇ」 「あの、母と深い仲だったんですか。母は今どこにいるんでしょう」  実家の住所はわかるから、と言って女性は記録簿を持ってきます。ここに所属していた芸者の個人情報を記した紙の束で、重ねて紐で括ってあります。 「お千代ちゃんは私と同級で、長いことここで一緒に生活したのよ。お琴や舞のお稽古も一緒にやったわ。お千代ちゃんは楽器は上手だったけど踊りは苦手だったの。私は楽器は下手だったけど舞はできたから、二人でお仕事に行くことも多かったわね」  母のことが書いてある箇所を見つけ、女性はそれを朔之介に見せてくれます。朔之介は紙と筆を借り、住所等を書き写しました。 「父、弥平、母、テツ……」 「お千代ちゃんは、田舎を出てきた時から何だか垢抜けていたの。でもあまり上昇志向はなかったみたい。享楽的っていうかね。でもお顔はかわいらしいし、年齢よりもずっと幼く見えて、ご贔屓さんがたくさんいたのよ。あのまま続けていたらもっと売れっ子になって、この店もあの子のものになったかもしれないのだけど」  喉が渇いたらしく、茶を一杯飲みました。この女性はただ思い出話をしたいだけなのだ、と朔之介は思います。 「ある時、政府の偉いお方がお千代ちゃんを気に入っちゃって、彼女もかなり本気になっちゃって、男女の仲になったらしいのね。すぐにその旦那の子を身籠ったわ。彼がどう言ったか知らないけれど、私たちは産むのに反対したの。でも彼女、絶対に産むって言って聞かないのよ。結局実家に帰ってしまった。もったいなかったわ」 「その、政府の偉い人ってのは誰なんです。おれの父親でしょうか」 「ええ、そうでしょうね。でも彼もあまりいい噂は聞かなかったわ。女遊びが激しくてね。あっちこっちの花街で色んな女をとっかえひっかえしてたみたいよ。お千代ちゃんも結局彼に捨てられてしまって。だから堕ろすよう言ったのだけどねぇ。実家で出産して、その後のことは知らないのよ。便りも絶えてしまって」  旦那の名前も知らない、ごめんなさいねと女性は言いました。

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