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第12話 悔い

 その日の晩。夜が更けて世界が静寂に包まれても、稀一郎はなかなか眠れませんでした。目を閉じてもまぶたの裏で闇がぐるぐる回って落ち着かず、目を開けていても天井以外に見えるものがありません。  静かな暗がりの中、隣に眠る少年は規則正しく寝息を立てています。朔之介、と声をかけると、寝返りを打って壁の方を向いてしまいました。稀一郎は心細いような妙な気分になり、朔之介をふんわりと抱擁しました。朔之介の丸い背に沿って稀一郎も背を丸め、体をぴったりとくっつけます。髪の毛や頬の膨らみ、首から肩のラインが、闇にぼんやり浮かんでいます。 「なぁ、本当に寝たのかよ」  再度呼びかけても反応がありません。朔之介は寝息を立てるだけです。稀一郎は回した腕をもぞもぞ動かして、朔之介のお腹を探ります。布越しでもわかる柔らかい場所を見つけ、そこを優しく撫でます。指先でくるくると文字を描くように撫でてみます。朔之介はやはり静かなままです。  稀一郎はさらに体を密着させて、朔之介の髪に鼻をうずめました。癖のつきやすい猫っ毛が稀一郎の頬をくすぐります。頭部のくぼみに沿って鼻先を滑らせ、うなじを吸います。ほのかに香る石鹸と、乳のような素肌の匂い。 「……やっぱり好きだなぁ」  稀一郎は穏やかに嘆息しました。朔之介をひしと抱きしめ、馴れた犬のように鼻を擦り付けます。 「いい匂いがする……安心する……」  思い出すのは故郷のことです。朔之介のふにふにした腹を摘まみながら、これで眠れそうだと安心したのも束の間、稀一郎の手を何者かが掴みました。 「…………悪い、起こしたか?」  たっぷり間を空けて稀一郎は言いました。朔之介は稀一郎の手を掴んだまま黙りこくっています。 「なぁ、なんか言えって……その、こんなみっともないとこ見られて俺……」  もぐもぐと口籠ります。恥ずかしすぎて穴があったら入りたい、と稀一郎は声に出さず叫びました。幼子のような行動を、よりによって朔之介に知られてしまうなんて、面目が立ちません。顔面はじわじわと熱を持ちます。普段から冗談を言ったりふざけたりはしていますが、それとこれとは別なのです。こういう突発的なことに稀一郎は慣れていないのでした。  朔之介はやおら起き上がり、布団をめくりました。せっかく暖まっていた空気があっという間に逃げていきます。稀一郎が戸惑いの声を上げるのも構わず、朔之介は稀一郎の腹部にまたがりました。膝立ちで腰を浮かし、背筋を伸ばして稀一郎を見下ろします。 「……おれを好きなのか」  やっと口を開いたと思ったら、朔之介は意味不明なことを言い始めます。稀一郎は朔之介の意図を汲み取れず、暗がりで揺れる影をただ見つめていました。 「好きか嫌いかって言えばそりゃあ……」  好きに決まっています。嫌いな相手と寝食を共にするような博愛精神を、稀一郎は持ち合わせてはいないのです。しかし先ほどの熱が尾を引いているのか、言葉がうまく出てきません。稀一郎の脳みそは全くぽんこつになってしまって、“好き”ってなんだっけ?などという初歩的な疑問を、それこそ幼子のように必死に考えているのでした。 「稀一郎?」  朔之介の不安気な声が降ってきます。稀一郎は頭の回らないまま両手をうろつかせ、とりあえず朔之介の腕を掴みます。その手首が思いのほか細く、稀一郎はたじろぎました。定まらない視線で朔之介を見、何度かつっかえながら言います。 「す、好きか、嫌いか、と言えばだな……どっちかと言えば、好きだぜ」  これだけの言葉のためになぜこれほど動揺しているのか、稀一郎にはさっぱりわかりません。朔之介がなぜ今そんなことを改まって問うてくるのかもわかりません。白む視界の中、黒い影がゆっくりと下りてきます。稀一郎の頬に唇を寄せ、朔之介が囁きました。 「うれしい」  くぐもった声と熱い吐息。同じ調子で朔之介は続けます。 「しようぜ」 「な、にを……」  稀一郎は困惑するばかりです。加えて緊張と動揺が混乱に拍車をかけます。明かりがなく、朔之介の表情も読み取れません。  朔之介は滑らかな手付きで寝間着の袖を抜き、襦袢もはだけて肩脱ぎになります。皮膚の表面を滑る布の音が心地良く響きます。薄い布に守られていたはずの柔肌は、今や稀一郎の眼前に堂々と鎮座していました。病的なほど青白い肌は闇にあってもその姿をはっきりと浮かび上がらせ、稀一郎の目にもはっきりと見て取れるのでした。  稀一郎は朔之介の体に触れてみたいと感じながらも手を出すのを堪えていました。腹の底から湧いてきて心身を突き動かす衝動の正体が不明瞭で、理解が追い付きません。こんな状況もこんな気持ちも初めてで、知識の範疇を超えています。 「お前も脱げよ」  朔之介は上体を傾け、しなのある動きで稀一郎の胸元へおもむろに手を入れました。衣服の隙間から冷たい風が入ってきますが、朔之介の手は吐息と同じくらいに温度がありました。ざらざらしていて且つ張りのある稀一郎の皮膚を、朔之介は指先で優しく触れていきます。胸から肩、そして腕へ。帯を緩めてさらに上体を露出させます。 「寒くないか?」  こちらを気遣う朔之介の声を、稀一郎は上の空で聞いていました。何かが思い出せそうで、過去の記憶を手繰り寄せているのです。記憶の奥深くに閉じ込めていたものが頭をもたげて這い出てきそうな気配を、稀一郎は感じ取っていました。 「稀一郎……」  熱っぽく名前を呼び、首を傾げ、耳に髪の毛をかける。そして再度上体を起こすと見えるしなやかな肢体、背から腰への曲線、くびれ。これらを目にして、稀一郎の記憶の糸は完全に繋がります。  東京の、西園の屋敷で、半年ほど前に見た場景とそっくりではないか、と稀一郎は思いました。小さな離れの部屋で男に犯されていた朔之介、それをこっそり覗き見ていた自分。障子越しに入る淡い月光に濡れていた肢体。ばっちり目に焼き付いたはずなのに忘れていたとはどういうことかと訝りつつ、稀一郎はあの時のことを思い返します。  しかし次の瞬間思い出されるのは、拳で殴る衝撃音、腫れあがった顔面、流れる赤い血、痣だらけの体。零れ落ちる涙と乾いた唇、か細い声。忘れていたわけではない、記憶の片隅へ追いやっていた過去の場景が、極彩色を伴って目の前にありありと映し出されます。視界が揺れて、渦巻きます。 「稀一郎」  朔之介の呼び声に、稀一郎は急激に現実へ引き戻されます。はっと目を開くと、朔之介の薄い唇の隙間から赤い舌がちろっと覗き、すぐに引っ込むのが見えました。 「なぁ、お前も何か――」  朔之介が不満の混じった声で言いかけますが、稀一郎は勢いよく身を起こし、朔之介を強く抱きしめました。肌と肌が直接、初めて触れ合います。胸が重なり二人分の心拍がうるさく響きます。稀一郎が朔之介の背中に回した腕を強張らせると、朔之介もおずおずと稀一郎の背に両手を回します。ほっとした様子で、朔之介はまた名前を呼ぼうとしますが、それを遮る形で稀一郎が言いました。 「こんなことしなくてもいいんだ」  努めて冷静に、穏やかな口調で言います。腕だけでなく全身が強張り、少し震えます。 「お前がどういうつもりでこういうことをしたのかわからないけど、別に俺は見返りを求めてお前と一緒にいるわけじゃないんだ。こんなことしてくれなくたっていい」  朔之介は稀一郎の背中を引っ掻き、きゅっと着物を握ります。そしてただ一言、そうかと言いました。 「……きっと疲れてるんだよ。俺、明日も早く帰ってくるからさ。一緒にお風呂行って、帰りに酒でも買って、ゆっくり休もうぜ。な?」  朔之介は力なくうなずきます。稀一郎は安心して体を離し、朔之介の乱れた着物を直します。稀一郎がおぼつかない手付きで襦袢も小袖もひとまとめに着させようとすると、朔之介は素直に腕を上げて袖を通します。衿も綺麗にそろえて、帯はきつめに結び直しました。  稀一郎は、自身の乱れた衣服も手早く直します。自分だけ肌を晒しているのは気まずいのです。普段はこんなもの崩して着ているのですが、今回はなるべく崩れないよう気を遣い、衿元をぴっしりと閉めました。  二人は先ほどまでと同じように、狭い布団の中に収まっています。肩まで布団を被り、彼らを包む空気はだんだん暖まっていきます。互いに背を向け、一方は壁を、もう一方も壁を見ています。 「悪かったな」  長らく押し黙ったままの朔之介が口を開きました。 「お前に気を遣わせた。おれはただ……お前には世話になってるから……恩返しのようなことをしてみたいと思ったんだ」  抑揚のない、平坦な低音でした。 「ちょっとばかし趣を変えたかったんだ。でも、お前の気持ちを考えていなかった。今日のことは忘れてくれ」 「いや、いや、いいんだよ、そんなこと……。俺だってお前に気を遣わせちまったし、あまつさえあんな……」  体で返すみたいな真似をさせちまって、と稀一郎は言いかけますが、言葉として発するのはあまりに憚られました。 「俺はあいつみたいになりたくないだけだ。お前を傷つけたり、痛いことや酷いことはしたくないから……」  あいつ、とは朔之介の養父だった男のことです。この男に関わる話は――月夜の晩のことは殊の外――稀一郎にとって極力忌避したいものでした。朔之介も、まるで何事もなかったかのように、この話題には一切触れようとしませんでした。西園の話が出たのは、こちらへ移り住んでから数えれば今回が初めてです。 「だから、体でどうのこうのとか、そういうの、お前に求めたりもしないし……つうかそもそも男同士でってのもよくわかんねぇし……そんなことしなくたって、お前はここにいていいんだよ。お前はもう自由なんだから」 「……ああ、そうだな。お前は本当に、お人好しだ」  表情の欠けた声音で朔之介は言いました。 「もう寝ようぜ。明日も早いんだろう」  朔之介は体を丸めて寝に入ります。おやすみとだけ言って、稀一郎もまぶたを閉じました。  翌早朝、稀一郎はあまりの寒さに目が覚めました。壁の隙間から白い光が漏れています。しんみりと静かな朝でした。  稀一郎は寝ぼけ眼で寝返り、布団の中を探るように手をさまよわせます。しかし、どこを触っても何も掴むことができません。指は虚しく空を掻き、くたびれた布団に沈み込むばかりです。動き回ったせいで暖まった空気が逃げていきます。稀一郎は仰向けに両腕を広げ、うちの布団はこんなに広かったろうかと思いました。目を擦りながら起き上がり、がらんとした部屋の中を見渡します。 「朔之介?」  返事はなく、人影もありません。ざわざわと嫌な胸騒ぎがして、稀一郎はがばりと立ち上がりました。朔之介!ともう一度呼んでみます。稀一郎の声だけが空疎に響きます。ふと足元へ目をやると、枕元に紙が置いてあります。巻紙に字を書いて、切らずにそのまま置いていったという印象です。稀一郎は急いで紙を拾い上げて広げます。そこには殴り書きのような乱雑な文字が並んでいました。一部、墨で上塗りされて読めません。  『恩を返したいなどは方便だ。掛け値なしにお前と――――だけだ。黙って出ていくことを許してほしい』  稀一郎の手から巻紙が滑り落ちます。それが床へ着くか着かないかのうちに、稀一郎は玄関から飛び出していました。乱れた寝間着姿のまま、裸足で通りを走り抜けます。途中、水汲みに行く女性とすれ違ったことにも気づきません。過熱した機関車のように、稀一郎は白い息を吐きながら一心不乱に表通りまで駆けていきます。裏道を抜けて周囲を見渡しても、人影はほとんどありません。右も左も、目に映るのは土色の地面と灰色の空ばかり。  辺り一面、時が止まったように静かでした。氷のように鋭い空気が手足を貫きます。白い息の塊は、吐き出されるごとに凍えていきます。キーンと高音の耳鳴りが聞こえます。  もう一度走り出そうとして、稀一郎は膝から崩れ落ちました。知らず、足の裏をざっくり切っていたのです。稀一郎は掌に爪の痕がつくほど固く拳を握りしめ、力いっぱい地面を叩きました。二度、三度叩きつけます。手に、膝に、砂が食い込みます。天を仰ぎ、景色が滲んで揺れるのを見ました。ひらひらと降り始めた羽毛のような粉雪が、稀一郎の目元に触れ、溶けて消えました。

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