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第11話 日常
ちょうどいい商売を見つけた朔之介は、月に何度か体を売って稼ぐようになりました。主に駅前の歓楽街などで客を取ります。表通りはガス灯が明るく、人々がたくさん行き交ってにぎやかです。飲食店や居酒屋などの店も多く、煌びやかで、活気があります。しかし裏道へ一歩逸れれば、街灯もなく、道は狭く、人通りもぐっと減ります。そして、非合法の売春宿や連れ込み宿が乱立しているのでした。朔之介はここでひっそりと客を取るのです。
夕刻、ガス灯に火が灯る頃、街角に立って煙草をふかします。そのうち、近所で女を買えなかった男や、そもそも男を買いたい者や、千鳥足の酔っ払いなどが声をかけてきます。一目で街娼とわかって声をかけてくる者もいるし、家出少年と間違える者もいます。
「どうしたんだい兄ちゃん。こんなとこで待ち合わせ?行くとこないの?」
「行くとこはないし待ち合わせでもない……ねぇおじさん、お金持ってる?今なら一発一円、安くしとくからさ。一晩買ってよ」
薄暗い路地にふさわしい、物憂げな声音で誘います。相手にその気がなければここで終わりですが、大概は近くの手頃な宿に連れ込まれるのでした。朔之介の評判は案外悪くなく、贔屓にしてくれる客も数人おりました。
さて、しかし今晩の客は最悪でした。良い服を着た小太りの中年男性で、お洒落に帽子なんか被っていましたが、代金を踏み倒されてしまったのです。プレイもしつこくて、朔之介はほとほと参ってしまいました。精液を何度飲まされたか知れません。喉の奥まで無理やり突っ込んでくるのです。おかげで顎は外れそうに痛いし、舌は引き攣って痺れているのでした。
こんな時は銭湯で汗と汚れを洗い流すのが一番効きますが、今夜はどうにも気分が晴れません。しばらく橋の上から川を眺め、しかしそうしていても仕方ないので、朔之介は長屋に帰りました。
「ただいま」
部屋の明かりは消えていましたが、おかえりと稀一郎の声がしました。枕元のランプをつけようとする稀一郎を止め、包帯だけ取って朔之介もさっさと布団へ潜り込みます。
稀一郎と朔之介は一組の布団を二人で使っていました。綿入れは大変だし、狭い部屋で場所だけ取るし、二人くっついて寝れば暖かいので、これがちょうどいいのです。彼らはまだ成長途中の少年ですから、一枚の布団にぎりぎり収まります。時々足がはみ出てしまうのだけ我慢すれば、他に問題はないのでした。
「飯は食ったのか?」
「食ってきた」
朔之介は掠れた低音でぶっきらぼうに答えます。
「遅くなって悪かった。お前も外で食ってきたんだろう?」
「今日はうどんを食ったよ。天ぷらも乗せたんだ」
稀一郎は上機嫌に言いました。
「帰りが遅いのは気にするなよな。仕事ならしょうがねぇよ」
朔之介は稀一郎に詳しいことを話していません。酌婦の真似事をしてお金をもらっているのだと、嘘でもないが真でもない、要領を得ない言い訳で通していました。具体的なことは口が裂けても言えなかったのです。
「もう寝るぜ。おやすみ」
「えっ、早くない?」
「早くない。お前も寝ろ」
にべもなく、朔之介は稀一郎に背を向けて目を瞑りました。きつく身を丸めます。常ならば好ましく感じている稀一郎の快活な声が、今は苦しいのでした。
*
ある日の午後。季節外れに寒い日でした。仕舞い込んでいた半纏を引っ張り出さずにはいられない寒さです。朝から北風が刺すように冷たく、溶けかけていた氷も張ってしまって、まるで冬に逆戻りです。朔之介は茶屋での店番を早々に切り上げ、多少遠回りをして長屋へ帰りました。
建付けの悪い玄関の戸は、がたがたとうるさい音を立てます。朔之介は足蹴にして無理やり開けました。土間には稀一郎の草鞋がそろえて置いてあり、居間の奥では正座で手を合わせる稀一郎の姿が見えます。朔之介が帰ってきたのに気づくと、稀一郎はそわそわと気まずそうに瞬きました。
「お、おかえり」
「ただいま。早かったんだな」
稀一郎は唇を結んで目を逸らします。よくよく見てみると、稀一郎が家宝のように大切にしている位牌に向かって、手を合わせていたのでした。位牌といっても木片に戒名らしきものが書かれただけの粗末なものです。しかし稀一郎は後生大事に持っているのです。
「……それ、何してるんだ」
尋ねない方がいいだろうかと思いながら、朔之介は口にしました。稀一郎はやはり言いにくそうに口を開けます。
「彼岸だから。秋はまだそんな場合じゃなかったけど、今日は何となく、そういう気分で」
彼岸とは何だったろうか、と朔之介は思います。極々最近耳にした単語のような気がします。これまでの人生で縁のなかった事柄なので、詳しいことはわかりません。ただ言葉だけは知っています。
「そういえば、店のばあさんが何かくれたんだ」
朔之介は胸に抱いていた紫の風呂敷を広げました。中には竹皮の丸い包みが入っています。稀一郎も興味を持ったらしく、すぐさま朔之介の隣へ座りました。
「あんこ?」
「ぼた餅だと言っていた」
「ふぅん」
気のない返事をする稀一郎の声が一音上がったことに朔之介は気づきます。
「一緒に食おうぜ。二つ入ってるし」
「いいのか!」
稀一郎は目を煌めかせて前のめりになりますが、すぐに手を引っ込めます。
「あ、でもまずは仏さんにお供えしないと……」
朔之介はぽかんとして、なんだそれは、と言いました。
「えっと、お彼岸ってのはつまり、お盆と似たような感じで、死んだ人をお参りする日なんだよ。知らない?」
朔之介は何も知りませんでした。お盆についても、言葉は知っているけれど、具体的に何をするのかわかっていません。葬式に参加したことは一度もないし、墓や仏壇を見たことすらありませんでした。
「本当は花を飾ったり、線香があればいいんだけど、そこまで用意できなかった」
「線香……ってのはどんなものだ」
朔之介が問うと、稀一郎は困ったように頭を掻きます。
「うーん、すごく細長くて、先端に火をつけるとゆっくり燃えてくやつ。いい香りの煙が出るんだ」
一寸考えた後、朔之介は懐に手を入れ、煙草とマッチを取り出しました。薄い唇に一本くわえて先端をあぶると、たちどころに紫煙が立ち昇ります。稀一郎は端整な面を思い切り崩して笑いました。頬は普段通り薔薇色に色付いています。
「何だよそれ!線香の代わりかよ」
「お前も吸うか?」
「俺ェ?吸ったことねぇんだけど、大丈夫かな」
朔之介は煙草を稀一郎の口元に差し出しました。
「少しずつ吸えばいいんだ。肺まで入れないで、口の中に含むだけだぞ」
稀一郎はもぐもぐと唇を突き出し、控えめにくわえました。緊張気味に、しかし深く吸い込んでしまって、稀一郎は激しく咳き込みました。
「だから言ったのに」
「何これぇ~、すげぇ煙たいじゃん」
稀一郎は目尻に浮かぶ水滴を指先で拭います。
「お前、いつの間にこんなもん吸うようになったんだよ。全然知らなかった」
「別に、ただの嗜みだろ。お前もやるか?」
「やだよぉ。煙いし、苦いし」
笑いながら、まだむせています。しゃっくりをするみたいに笑って、咳も落ち着いた後、稀一郎はあっけらかんと言いました。
「お供えしなくてもいいか。先に食っちゃおうぜ」
「いいのか?」
「こんなもんは気持ちの問題だからな。今更どうこうしたって、何かが変わるわけじゃなし」
稀一郎は手際よく竹皮を剥がすと、一つ引っ掴んで、大口開けて食べてしまいました。もちゃもちゃという豪快な咀嚼音が聞こえます。お前もさっさと食っちまえと、聞き取りにくい声で言います。白い歯が小豆色に染まっています。稀一郎は位牌を神棚の奥へ隠すように戻しました。
「風呂屋行こうぜ。お前もまだだろ?」
太陽はすっかり陰り、ちょうど山の向こうへ消えていくところです。夕日の残り香、藍色の空。三日月がほのかに輝いています。北風はますます冷たく、稀一郎と朔之介は半纏をきつく締めて歩きました。
長屋から一番近いところにある銭湯です。西園邸には内風呂があり、朔之介もずっと内風呂を使っていましたが、庶民には銭湯が一般的でした。仮住まいの人々にとっては尚更必要な場所です。朔之介は当初、人前で裸になることに抵抗がありましたが、わがままを言っていられる状況でもなく、何度か経験するうちに慣れていきました。
稀一郎は待ち切れないという様子でせっせと着物を脱ぎます。稀一郎の体は順調に筋肉がついてきていました。未発達な部分も残っていますが、大人の肉体と大差ありません。上腕や大腿は特にたくましく、波打つ腹筋は思わず指でなぞりたくなるほどです。また、地肌の小麦色と日焼けした褐色との境目には、妙な色気があるのでした。今まで見た男の中で最も綺麗に整った体付きをしている、と朔之介は常に思います。
一方、朔之介の体はまだまだ少年の部分を残していました。生白くて肉付きもよくなく、全般に丸っこいのです。朔之介は自身の体が貧相だとわかっていたし、新旧様々の痕が見え隠れするのも惨めに感じるのでした。稀一郎と並んでみると釣り合いが取れていないとも感じていました。
稀一郎は手早く体を洗い、どぼんと湯船へ飛び込みます。人影はまばらで、これを咎める大人もいません。
「早く来いよ」
稀一郎が歌うように呼びました。朔之介は稀一郎よりも丁寧に体を洗ってから湯船に入ります。やっと肩までお湯に浸かり、三角座りで膝を抱えました。稀一郎は波を立てながら湯の中を移動し、朔之介の隣に座ります。
「気持ちいいか?」
朔之介はうなずいて、鼻の下まで沈んでぶくぶく泡を吹きました。
「一緒に来るの久しぶりだよな。たまにはゆっくり休むのもいいな」
稀一郎はすっかりご機嫌で、鼻歌なんか口ずさんでいます。ほんの数十分前まで位牌の前でうなだれていたくせに元気なものです。さっきだって、いきなり笑い出したかと思えばお供えなんかしなくていいと言い出すし、稀一郎は気持ちの切り替えがうまいのでした。感情に左右されやすいわりに、どうしようもないとわかればすっぱり見切りを付けられる。稀一郎の人となりが、朔之介にもわかってきました。
「なんの歌だ?」
「さぁ。ただ耳が覚えてるんだ。誰かが歌ってた」
おそらく、子守唄かわらべ歌の類でしょう。朔之介は湯気の匂いをかぎながら稀一郎の歌を聞いていました。知らない節なのに、なぜか心に沁みました。朗らかな声、滴る雫、反響音。目を瞑れば、この世にたった二人しか存在しないような錯覚を起こします。
「一生、このままでいたい」
思っていたことが口をついてしまいました。稀一郎はきょとんとして朔之介を見ます。
「どうしたの、急に。いつもそんなこと思ってるのか?」
「いや……今だけだ」
朔之介はのぼせた顔を濡らします。
「おかしいか?こんなことを思うのは」
「だって、お前がそういう風に、思ってることとか話すのって珍しいじゃん」
お前だって、と朔之介が呟くと、稀一郎は曖昧に笑います。
「そうだけどさぁ……俺は一生このままなんて思わないぜ。俺たちはもっと幸せにならなきゃいけない、だろ?明日は今日より素晴らしくなきゃいけないんだ。ずっとこのままなんて……まともに大人にならなきゃなぁ」
稀一郎の前向きで楽観的な性格は一種の救いですが、朔之介は時々切なくなります。他者と同じ人間になることは不可能だという、厳然たる事実がのしかかります。いつの日か稀一郎は、朔之介を取り残してでもどこか遠くへ行ってしまうのだろう。そう思うとたまらなくなります。なぜなら、彼らの間にはまだ何の約束も誓いもないのだから。所詮は、殺人を犯して逃亡したという一連の流れの中、惰性的に一緒にいるだけの関係なのです。
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