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第10話 二円

 秋も深まった頃、稀一郎と朔之介の生活もやっと落ち着いてきました。港町の安い長屋に身を寄せ合い暮らしています。障子張りの玄関、入ってすぐに土間があり、土間にはかまどや水瓶が置いてあります。板張りの居室は四畳半ほどで窓はありません。物も少なく、煎餅布団と火鉢と石油ランプ、収納用に小さな箪笥程度しか置いていませんでした。 「今日も稼いでくるからな」  稀一郎は朝から晩まで馬車馬のように働きます。新聞配達をしたり人力車を引いたり、波止場へ船が着いた時には荷降ろしや荷運びの仕事もします。基本的には土木作業などの肉体労働で日銭を稼いでいるのでした。  必然的に家のことをするのは朔之介の役になりましたが、昼間は外へ出ます。銭湯や飲食店で雑用の仕事をしたこともありましたが長続きせず、今は狭苦しい裏路地にある寂れた茶屋で店番として雇ってもらっていました。古い店ですが建物は立派なもので、二階の部屋には男女二人組の客が入ることが頻繁にありました。彼らは部屋代だけ払って飲食はせずに帰るのでした。 「おかみさん、ここの上ってどうなってるんです」  おかみさんと呼ばれた店主――といっても歳をとった老婆なのですが――彼女は昔からここに住んでいるらしく、この店も昔から営業しているらしいのでした。元々は夫婦で営んでいたものの夫に先立たれ、今ではおばあさんが一人で切り盛りしています。 「ただの休憩処じゃ。中で何してるかは知らないが……」  そう言ってのんびりと白湯を飲みます。朔之介のすることは少なく、毎度日暮れ前には家に帰るのでした。その分お給金も少ないので、家計は稀一郎の稼ぎでもっているようなものです。稀一郎にばかり負担をかけるのも申し訳なく、もっと稼げる仕事を探すべきかと朔之介は悩んでいました。  空がどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうな午後でした。おばあさんは外へ用事があるというので、朔之介が一人で店番をしていました。お茶と団子を出すくらいは朔之介にもできますが、客が来ないので店先でうとうとしておりました。 「お兄さん、お兄さん起きてよ。ここやってるの?二階空いてる?」  急に声をかけられます。朔之介ははっと目を覚ましました。若い男が一人立っていて、朔之介を見下ろしています。薄暗い店内で顔はよく見えませんでしたが、ずいぶん大柄で浅黒い肌をした男でした。 「空いてますよ。休憩ですか?お一人で?」 「そうだけどねぇ……もしかして、お兄さんが相手してくれるの」 「はぁ、あまりうまくありませんが」  男に頼まれて、朔之介は仕方なく部屋まで案内して布団を敷きました。ではごゆっくり、と言って戸口を開けて出ていこうとすると、男は朔之介の腕を掴み胸の中へ抱き寄せました。朔之介が目を白黒させている間に、男は腰へ手を回します。朔之介は男の腕の中にすっぽり収まってしまって、まるで捕らえられたような恰好です。 「お兄さん、名前なんていうの」  男の声はとても優しいものでした。西園のような威圧感ある低音とは全く違います。 「……朔之介です」  朔之介の声には警戒心が滲み出ています。朔之介は男を鋭い目付きで見上げますが、男はまた優しい声で言いました。 「それ本名?立派な名前だね」  辰夫と名乗ったその男は朔之介を強く抱き寄せて身をかがめ、あろうことか口づけを迫ってきました。朔之介はぎょっとして、近づいてきた男の顔を押し返します。 「っな、なに、急になんですか」 「接吻だよ。知ってるだろう」 「せっ……?」  呆気に取られている朔之介の後頭部を押さえると、男は強引に唇を奪いました。朔之介は突然の出来事と初めての感覚に戸惑うばかりです。男の熱い舌がぬるりと侵入してきたところで、朔之介はこれが擬似的な性交なのだと理解しました。息の仕方がわからず、だんだん苦しくなってきます。  朔之介の腰に回っていた男の手が下りていき、尻を撫で回します。上顎をしきりになぞられると、背中がぴりぴり痺れて膝ががくがく震えます。朔之介はもう立っているのもやっとになって、自ら男の腕にすがりつきました。男は朔之介の体を引き上げると、もっともっと深く口づけます。かび臭い布団に倒れ込んでも男は唇を離しません。朔之介の手首を布団に縫い付けます。  息ができないのと頭がくらくらするのと口の周りが気持ち悪いのとで、朔之介はもういい加減にしろと思って、男の肩をぐいぐい押し返しました。 「接吻は苦手なの?初心な反応は嫌いじゃないが」  男は清々しい表情で言います。朔之介は全身で息をしながら、二人分の唾液で汚れた口元を着物の袖で拭いました。文句を言ってやりたくてぱくぱく口を動かしても、出てくるのは薄い空気だけです。 「苦しかったか?君は細身だものなぁ。でもこれくらいしないと物足りないんだ、許してくれよ」  そういえば、と言って男は思い出したように手を伸ばし、朔之介の右目を覆う白い帯に触れました。 「これは何だい?どうしても目につくんで、気になっちゃってね」  朔之介はすかさず男の手を払いのけます。 「病気をうつされたか、それとも喧嘩か?」 「……酷く膿んでるんだ。触らないでくれ」  朔之介は少し考えてからこう答えました。 「そうか。詮索されたくないなら深掘りはしないさ。でも、膿んでいるってのはなかなかにいい。そそるね。舐めてもいい?」  男は朔之介の着物をはだけさせ、胸元に口づけを落とします。襦袢の中へ手を入れ、すべすべとした白い肌を撫でます。朔之介はくすぐったさに身をよじりました。 「あんた、おれのことが好きなのか?だからこんなことするのか?」 「一目で抱きたいと思った。君みたいな子が好きなんだ。儚げで神秘的なところがいい」  小袖も襦袢も脱がされて、朔之介の腹は剥きだしの状態です。年齢のわりにしなやかで平べったい腹です。その下、小さく膨らんだ褌に男が触ると、朔之介は息を詰めました。 「っ、何すんだ」 「ちゃんと感じてたんだね。よかった」  わずかに反応を示しているそれを優しく擦ると、朔之介は腰を引いて嫌々と首を振ります。 「いやだ、っ、やめろ」 「でも気持ちいいだろう。濡れてきてる」 「や……う、やだぁ……」  男は褌の中へ手を突っ込み、直接刺激します。朔之介のそれはかわいそうなくらい赤く腫れあがっていました。目にも涙を浮かべて、朔之介は小刻みに震えます。こんなことをされるのは初めてで、問答無用で集まる熱をどこへ逃がせばいいのかわかりませんでした。  西園に抱かれる時は、行先のわからない階段を一段ずつ上っていくような感覚だったのに、これはそうではありません。行先がわからないのは同じですが、階段を三段飛ばしで駆け上がっているような感覚です。その詳細のわからないゴールも、すぐ目前にあるという気配がします。どこに行きつくかはわからないのに、ただもうすぐ頂上に達してしまうという予感だけがあります。 「っ、なんか、出そう……あ、やだ、やだ……出ちゃうぅ……手、はなして」  朔之介が息も絶え絶えに懇願すると、男は嬉々として激しく手を動かします。先端のところをくるくると弄られるともうだめです。朔之介は一際大きく体を揺らし、甲高い悲鳴を響かせました。 「ああ、声もすごくかわいい。ますます惹かれるなぁ」  男は掌へ放たれた粘液を布で拭きます。朔之介は放心したまま、うるさい心音と呼吸を聞いていました。下半身どころか上半身にも力が入りません。漏らしてしまったと思っていましたが、どうやらそうではないようです。西園が朔之介の中へ注いでいたものと同じものを自分も出したのではないか、と思い至りました。 「……なんで、こんなこと……」 「お互い気持ちいいほうがいいだろう。好きじゃなかったか?その割には良さそうだったけど」 「………普通はこっちを使うもんだろうが」  朔之介は腰をゆるりと撫でながら、顔をしかめて言いました。西園との性行為しか経験のない朔之介にとっては、今の言葉がこの世の真実なのです。男は張り詰めた雰囲気で微笑しました。 「誘ってるのか。煽るのが上手だな」 「は?そんなつもりじゃあ――」  男は朔之介の膝裏を掴んで股を開かせると、褌をずらして尻を露わにします。白い肉に挟まれた谷間、その奥に隠された秘処へ、つぷりと指を挿し入れました。朔之介は苦しげにうめきます。 「こっちの方が好きなの?少し濡れている」  別に好きじゃない、慣れているだけだと、朔之介は抗議したい気分です。しかしそんな思いとは裏腹に、体は容易く開かれていきます。男はそそくさと一物を取り出すと、朔之介のそこへ宛がいます。 「ほら、深呼吸して」  男はそう言って腰を進めますが、朔之介にはそんな余裕はありませんでした。肉欲を具現化した凶暴なそれが、己の肉を割いて無理やり入ってくる様を見せつけられるのは、ひたすら恐ろしかったのです。 「ま、待て……そんなの無理……」 「大丈夫。もう入ってるよ」  あ、あ、と朔之介が声を漏らすうちに、男のものは根元まで埋まってしまいました。見た目ほど痛くないし、内臓も窮屈ではありません。西園に抱かれるのとあまり変わらない、と朔之介は思いました。しかし蛙のように脚を開いた恰好は、朔之介にしてみればとても滑稽で恥ずかしいものでした。急所が丸見えなのも不安です。 「朔之介くんのここ、すごくいい具合だよ……熱く締めてくる」  男は感じ入った声で朔之介を褒め、休みなく犯します。朔之介は顔の近くで敷布を掴み、揺れと衝撃に耐えています。 「っ、あんた……おれを好きだと言ったよな」 「ああ……君はとっても魅惑的だよ……顔も体も、まとう雰囲気も、男の情を掻き立てるためにあるような……いい匂いもするし」 「……見た目だけが好きなのか?……愛とは違うのか?」  男は眉をハの字にして笑います。 「俺はただ、君を抱きたいと思っただけだ。それ以上のことはない……君だって重いのは迷惑じゃないのか?大丈夫、お金は持ってるから……」  金とはどういうことだろうと朔之介は思いました。それが顔に出ていたのか、男は続けて言います。 「君の値段を聞いていなかったね……そうだな、一円か……五十銭までなら出せるが」  おれの体は金になるのか。朔之介は口の中で呟きました。なるほど、これで合点がいった。こいつの言う“好き”は“金を払ってでも抱きたい”という意味だったのだ。おれの体は金になるのだ。稀一郎ばかり働かせて申し訳ないと思いつつ、何もできることがないと思っていたけれど、体を売ればいいだけだったのだ。簡単な話じゃないか。なぜもっと早く気づかなかったのだろう。これで稀一郎にうまいもんを食わせてやれる…… 「二円だ……っ、二円払え。……おれの体が好きなんだろ」 「はは、強気だな」 「こんなの、初めてなんだ……おれは安くねぇ」 「わかった。わかった、払うから」  代わりに名前を呼んでくれと男が言います。気分の高揚している朔之介は、かつて別の男に抱かれていた時と同じように、盛大に善がってみせます。以前、稀一郎が野良犬の鳴き声と勘違いしていたことを思い出し、朔之介はかすかに笑いました。  何としてでも二円分回収してやるという男の意気込みのせいで、朔之介は最終的に失神させられましたが、目覚めた時には掌に金貨が二枚握らされていました。それだけで全てが報われたような気がして、朔之介は飛び跳ねながら家路に就いたのでした。

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