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第15話 現実

 翌朝、すずめが鳴くより前に朔之介は目覚めました。うっかり眠りすぎたと焦った直後、頭が冴えて最悪な気分になります。最悪な気分というよりは壮絶な賢者タイムという方がふさわしいでしょうか。二日酔いのような頭痛と吐き気もします。興奮しすぎて羽目を外した翌日は、大抵こうなるのです。 「一体これで何回目だ……」  天井を見ながら、朔之介は呟きました。布団は二組あり、青年は綺麗な方の布団で静かに眠っています。朔之介は彼を一瞥し、たっぷり溜め息をつきました。稀一郎と別れて以降三度目、同居していた時期も含めると四度目の失態です。その度に朔之介は大いに恥じ、二度とこんなことはするまいと誓うのですが、猛烈な情念に理性が打ち負けてしまうのでした。  記憶の飛ぶほどしても、残るのは後悔と憂鬱と倦怠感だけです。そのくせに胸の奥が切なく泣くので、下半身へと手が伸びそうになります。そしてもう一度、己の浅ましさを恥じるのです。朔之介は、自身が真に満たされることはないのだと知ります。 「朔之介さん」  背を向けたまま、青年が言いました。朔之介もおはようございますと言おうとしますが、喉が詰まって乾いた音を立てるだけです。思い切り咳き込み、がらがらにしゃがれた声を発しました。 「喘ぎすぎです。隣から苦情がきました」 「ごめんなさい。途中から記憶があやふやなのです。迷惑をかけました」  青年は、はぁ、と短く嘆息します。 「あなたも酷い人だ。私を、別れた恋人の代わりにしましたね」 「それは……すみません」  ぶっ飛んでいる間に他の男の名を呼んでしまったのだ、と朔之介はすぐに気づきます。しかし仕方のないことだと思っていました。出会った当初から、この青年は他の男の代わりだったのですから。 「別に構わないのです。旅先での一夜きりの関係というのも粋かもしれません。でも、自分の影に知らない誰かを見られるのは辛いものです。稀一……稀一郎さんと言いましたね。余程素敵な方だったのでしょう。私の首に腕を巻き付けて引き寄せて、何度も口づけを求めてきました。体中を吸って痕をつけてくれとも」  朔之介はさっと胸元を確認します。歪な形の薄い鬱血痕がいくつか散っていました。 「……嫌な言い方をしました。あなたを責めたいわけではないのです。やはりあなたは美しい。美人だ」  青年が起き上がって枕元へ寄り、朔之介の頬を撫でました。朝の光の中で見てみると、彼は稀一郎とは似ても似つかないように思われました。朔之介は彼の手をさりげなく払います。 「あなたには悪いことをしました。昨日のことはお互い忘れましょう。もう会うこともないでしょうから」  朔之介は平坦な低音で告げ、服を着ました。褌から締め直しです。 「お代……いや、宿代はどうしますか。折半しましょうか」 「こういう時は男が払うものだと聞いたことがあります」  青年は朔之介の申し出を断りました。  旅館を出ると、外はすっかり明るくなっていました。山麓の高原に朔之介の探す村があるらしいので、山岳への街道を行きます。平地には町ができていて休憩できる場所がありますが、進むにつれて曲がりくねった山道が多くなります。虫の鳴き声や鳥の羽音が聞こえ、時折吹く風は青々とした枝葉を揺らします。道の脇には石碑や祠、お地蔵様が建っているのでした。  汗だくになりながら四時間ほど歩き、行き交う人に何度も道を尋ねて、やっとそれらしい村へ辿り着きました。稲刈りが近いらしい水田に囲まれて鎮守の森が鎮座しています。なだらかな斜面を背後に臨む山間の集落で、藁葺の民家が塊状に集まっていました。  継ぎ接ぎだらけの薄汚れた野良着で農作業をしている男がいます。千代という四十くらいの女がこの辺りに住んでいるはずだが知らないか、と朔之介が尋ねると、男はそんな女は知らないと田舎訛りで言いました。 「芦野村ってここで合っていますよね。じゃあ、弥平さんという人の家は知りませんか」  男は露骨に嫌そうな顔をして、やはり知らないと言います。何人かの村人に聞いてみますが、みな口をそろえて知らないと言います。それから、大体あんたはどこの誰なんだ、余所者が何をしにきた、と言って冷たく追い払おうとするのでした。  朔之介は少し手法を変えてみようと思い、子供に尋ねてみることにしました。宿場町で買った駄菓子を取り出します。 「お嬢ちゃんたち、ちょっといいか」  家の周囲で花一匁をして遊ぶ少女らに声をかけます。そのうち数人は、おそらく自身の弟妹であろう赤ん坊を負ぶって遊びに交ざっていました。甘いのあげるから、と言うと少女らは無警戒に集まってきます。 「あんちゃん、どっから来たの」「東京?」「なんで包帯巻いてんだべ」「お菓子、ほんとにもらっていいの?」  他にも色々、口々に言葉が飛び出します。これまでの人生で子供とほとんど関わったことのない朔之介は若干及び腰になります。 「あの、臼井弥平って人が、この集落に住んでるはずなんだけどね、知らないかな」  少女たちは顔を見合わせます。 「もうおじいさんで、隠居してるかもしれないんだが……」 「あんちゃん、弥平さんと知り合いなのけ?」 「親戚なんだ。わざわざ東京から会いにきた」 「おら知ってる!狐憑きの家だべ!」  一番年少の少女が声高に言いました。 「よっちゃん!そんなこと言ってっと、おっ父にまたぶたれんど!」 「あーっ!おっ父には言わねえでくろ」  よっちゃんと呼ばれた少女はしまったという顔をして、大人には内緒だと繰り返します。 「誰にも言わないから、詳しいこと教えてくれるか?どこの家で狐憑きが出たんだ?」  少女らの話によると、臼井家の娘が狐に憑かれて、終始奇声を発したり踊り狂ったり裸で山に入ったり、さらには放火未遂までしたそうで、村中が大変な騒ぎになったらしいのでした。  お礼にと菓子を全部あげ、教えられた家へ行きます。きな臭い情報を得てしまいましたが、意図せず心が急きます。母はもちろん、母の家族も朔之介と血縁のある家族のはずです。一目会えばきっとそれとわかるはず。そうすればきっと何かが変わっていくはずでした。  中央部よりは外れた場所にある、他と同じ藁葺の家でした。家の周囲に畑が造ってあり、一人の老婆が土を耕しています。朔之介が声をかけると、老婆は幽霊を見つけたようなぎょっとした顔でこちらを見、手にしていた鋤を落としました。 「朔之介!?」  朔之介も何とはなしに嬉しく、この人がおれのおばあさんだろうかと考えていました。 「朔之介なのけ!?おめ、生きて……」  それだけ言うと老婆はいきなり白目を剥き、後ろ向きにばたんと倒れてしまいました。朔之介は驚いて駆け寄り、騒ぎに気づいた家人も出てきます。老婆を介抱しながら家の中へ運んで寝かせました。朔之介の現れたのがあまりにも衝撃的だったらしく、それで卒倒したようでした。 「あんた、本当に朔之介なのけぇ」  老婆の夫が言います。しょぼくれた家屋にふさわしく、ずいぶんとしょぼくれた老人です。 「あ、えと、そうです。母は健在ですか。一目会いたいと思って来たんだ。他に行くところもやることもなくて」 「千代のことか……」  溜め息まじりに言い、これに被せるように、もう少し若い声が土間から聞こえました。 「姉さはもう死んだ。おめのいる場所はここにはねえ。早くけえれ」 「死ん……?」  腹の底がすうっと冷えていきます。目の前が真っ白に、高まった気持ちが急激に冷めていきます。ああ、やはり期待などするものではない。それにこの男、今なんと言ったろうか。早く帰れと言ったのではなかったか。 「千代は一昨年死んじまった。狂い死にだ」 「おっ父、本当のことを言いらっせ。こいつとこいつの親父が、姉さを狂わせて殺したんだべ。こいつはウチの疫病神だ。早く追い出すべ」 「繁、そんなこと言うでねえ。おめの甥っ子だっぺ」  男は舌打ちをし、つかつかと朔之介の方へ来て、額の包帯を鷲掴んでずり上げました。そのまま床へ押し倒します。 「おめが鬼子だっつう証拠、おらに見してみろ」  闇ばかり見ていた右目に強烈な光が射します。朔之介は目を伏せました。 「おっ父、よく見らっせ。この気味わりい面を。こんなもん身内でもなんでもねえ。おっ父の孫でねえど」 「っ、やめろ。おれは鬼の子なんかじゃねぇ。離してくれ……」 「いいや、おめは鬼の子だ。化け物の生まれ変わりだ。姉さはあの男に誑かされて鬼子を孕まされたんだべ。そのせいで気が触れたんだ。親父は元気か?西園次信少佐殿は?」  耳にするのさえおぞましい名前が唐突に飛び出しました。全身の毛が逆立つのがわかります。朔之介は青白い顔で慄然としました。 「……そいつが、おれの親父なのか」 「ああ?おめえ、何も知らねえのか?おめの親父はな、姉さを孕ませて化け物を産ませて、姉さを捨てたと思ったらひょっこり現れて、かと思えばおめえだけ連れて消えちまって、それで姉さはとうとう気が触れちまったんだよ」  朔之介は絶句します。喉が渇き切って張り付き、息もできません。 「おい、聞いてんのか!」  男は乾いた音を立てて張り手を一発、朔之介の頬へ食らわせました。重たい衝撃が脳を揺さぶり、朔之介は鈍くうめきます。 「おめはウチの災厄だ!なんでウチへ戻ってきた!」  男はもう一方の頬も同じように叩きました。口の中が切れ、血が流れます。もう一発あるのだと見せつけるように男が腕を振り上げると、朔之介は反射的に目を瞑って身構えました。 「おめえ、男のくせにやられっぱなしで悔しくねえのけ。金玉ついてんのか?男ならやり返してみい!女みてえになよっちくて、姉さのわりいとこを全部煮詰めたようなやつだな」 「繁、いい加減に……」 「おっ父は黙っててくろ!おらはもう二度と、姉さに振り回されたくねえだけだ」  老人はおろおろと見守るばかりで止めに入ろうとはしません。全てを諦めているような、こうなっても仕方がないのだと言いたげな雰囲気です。 「赤ん坊のおめえを、何度も何度も殺そうとしたが、誰も殺せなかった。その頃から姉さはどこかおかしかった。おめえを庇うでもなく、虚ろに遠くを見ているだけで……それもこれも全部おめのせいだ!そのせいでおらは、嫁ももらえなかったんだど」  朔之介は茫然自失で聞いていました。もう一度、今度は拳で殴られ、その痛みで我に返ります。 「……おれは、存在自体が呪われているのか。生まれてきたことが間違いだったと、言いたいんだな」  男は意外そうな顔をした後、満足そうに歯を見せました。歯列はがたがたで、黄ばんでいます。 「よくわかってんじゃねえか。わかったらさっさと村から出てけ。ほんでもう二度と来るんじゃねえど!今度姿を見せたら、次こそその目ン玉抉り取って、ぶっ殺してやっからな」  朔之介は家から放り出されました。玄関の戸をぴしゃりと閉められます。どうしようもなく、足早に村から遠ざかります。村人の目が恐ろしく光っているように見え、朔之介はぞっと縮み上がりました。  転げ落ちるように細い山道を駆け下ります。足がもつれて転倒しました。顔を擦ると、土が水と混ざって泥になっています。気づかず涙を流していたと知りました。黒い地面を見つめ、真実を思います。 「そうだ。おれは母を狂わせ、父と寝たのだ」  自らがおぞましくてたまらない。気分が悪くなり、胃液を吐きました。苦しくて、胸を掻きむしります。たまさかに、鋭く尖った木の枝が目に付きます。朔之介はそれを乱暴に手折り、自らに向けて構えました。湿った包帯を解いて、その目に切っ先を突き立てます。  手足が震えて使い物にならず、立っていられなくなって膝を付きました。目眩がして血の気が引きます。胃の奥が締め付けられ、生温い塊が喉元までせり上がり、再度嘔吐しました。息を整える間もなく次の悪心が込み上げてきて、抗うこともできずに続けて吐きました。口の中は苦いものでいっぱいです。内臓ごと全部吐き出してしまいたいと思いました。  聞こえるのは木々のざわめきばかりです。出るものもないのに、いつまでも胸のむかつきが治まりません。何だか寒気がして苦しく、朔之介はしばらく座り込んでいました。それでも結局、稀一郎が綺麗だと言った瞳を自らの手で潰すことなど、到底できるはずもありませんでした。

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