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第16話 再会
東京府上野――
うねる人波と、むせ返るほどの夜桜。白い光を浴びて薄ぼんやりと滲んだ桜色の下、稀一郎はある人影を目にします。
「朔之介!?」
彼は稀一郎に気づかず、背を向けてどこかへ行ってしまいます。稀一郎は弾丸のように駆け出し、人混みを掻き分けて、彼の腕をがっしと掴みました。
「朔之介、だよな?」
振り向いた彼は大きな目を真ん丸に見開きます。見間違えるはずがありません。初めて会った時と同じように、黒曜石の瞳には稀一郎の姿が映っていました。
「お前、今までどこで何をして――」
そこではっと気づきます。朔之介の隣にいる中年男性が呆気に取られた様子で稀一郎を見ていました。稀一郎も睨みをきかせます。
「あー……あんた誰だ?」
朔之介もはっと息を取り戻し、一緒にいた男を稀一郎から引き離しました。何やら話をした後、また稀一郎の方へ戻ってきます。男はどこかへ行ってしまいました。
「……黒田稀一郎か?」
フルネームで呼ばれてどきっとします。
「お前こそ、臼井朔之介だろ?」
「ああ……久しぶりだな」
気まずい沈黙が流れます。久しぶりも久しぶり、丸三年ぶりです。何を話せばいいのか、互いに手探りの状態です。困って視線を外します。満開の桜が、湖に淡い影を落としていました。
「なんか、雰囲気変わった?大人っぽくなったっていうか」
「お前こそ、かなり背が伸びたんじゃないか。昔はおれと同じくらいだったのに」
「えっ、そうかなぁ。お前は縮んだの?」
稀一郎がからかうと、うるせえなと言ってそっぽを向きます。薄い花びらが朔之介の濃い睫毛に落ちました。取ってやろうと手を伸ばすと、朔之介が自分で払ってしまいました。
「……なぁ、飯食ったか?俺まだなんだけど、よかったらそこ入ろうぜ」
稀一郎の指さす先には牛飯屋台があります。二人で席に立つと、すぐに丼が出てきました。空腹だった稀一郎は丼を腹に抱えて飯を掻き込みます。
「いつこっちに来たんだ」
「昨日着いて、それからずっとうろうろしてた」
「何しに東京まで出てきた。あっちだって仕事はあるんだろう」
「んー、鳶の修行でもしようかと思って?」
「なんであんな遠いところからおれがわかったんだ?あの人混みで――」
「ちょっとちょっとちょっと、お前ばっかり質問すんなよな。俺だって聞きたいこといっぱいあるんだぜ」
稀一郎は米を含んだまま頬を膨らませます。口の周りには米粒がくっついています。
「まずはさっきのおっさんだ。誰なんだよ、あれ」
朔之介は目を泳がせて口籠ります。
「別に、誰でもねぇよ。道を聞かれただけだ」
「そうなの?だったらいいんだけどさ」
朔之介は何がいいんだと言いたげな目でじとりと稀一郎を見ます。そんな視線は知らないふりで、稀一郎はごちそうさまと丼を置きました。
「それでさぁ、厚かましいとは思うんだけど、お前の家にしばらく泊めてくれねぇかな」
「……本当に厚かましいやつだ。おれだって毎日ぎりぎりの生活なんだぞ」
「生活費諸々折半するからさ。二人で住む方が安いの知ってるだろ?」
朔之介はうんざりと嘆息し、仕方ないなと聞き入れました。
近所の繁華街で出る残飯を目当てに住んでいるような者ばかりの街。その一角にある古臭い長屋に、朔之介は住んでいました。共用の井戸と便所、申し訳程度に稲荷神社があり、全体に薄汚い印象です。部屋の中も当然狭くて暗くて、必要最低限の物しか置いてありませんでした。朔之介も稀一郎も既に少年ではなく立派な青年であるはずが、生活の質は向上していないのでした。
「布団は一枚だが、どうする?また同衾するか?」
綿のほとんど入っていない煎餅布団を敷きながら、朔之介がからかうように言いました。
「今日は床で寝るよ。明日、自分で用意する」
それからすぐに稀一郎は働き口を見つけ、部屋の物も漸次増えていきました。稀一郎は朝一に出かけて暮れ前には帰ってきますが、朔之介は夕方出ていって夜更けまで戻りません。明け方まで帰らない時もあれば、日中を通して眠りこけていることもあります。すれ違ってばかりのまま、あっという間に三週間が過ぎました。
ある夜半、玄関の戸を乱暴に蹴って、朔之介が帰宅しました。半覚醒状態だった稀一郎はぱちりと目を開けます。毎晩、朔之介が帰ってくる頃に目を覚ますのです。もちろん本人には黙っています。引き出しを開ける音やごそごそと物を漁る音がひとしきり聞こえたかと思うと、再度草履をつっかけて出ていこうとします。
「おい」
たまらず、稀一郎は起き上がりました。朔之介はきょとんと稀一郎を見た後、にやりと口角を上げて言いました。
「狸寝入りか?」
「違う。起きてただけだ。お前、今帰ってきたのにどこ行くつもりだ」
そんなつもりはなかったのに、ドスのきいた低音が飛び出てしまいました。わけのわからないことで責められ、朔之介も苛立ちます。
「急になんだってんだ。お前はおれの親か何かか?」
「答えろよ。また俺を置いて出ていくつもりならそうはさせねぇ」
稀一郎の切れ長な三白眼がぎらぎら燃えています。朔之介は呆れたように、馬鹿かお前はと言いました。
「ばっ、馬鹿ってなんだよ。いいから答えろって。大体いつもどこで何してるんだ。夜中でなきゃやれねぇ仕事なのかよ」
「いちいち噛み付くな、馬鹿。ここはおれの部屋だぞ、出ていくわけねぇだろう」
いやそうだけど、と稀一郎は口籠ります。
「この際だから言うが、おれは体を売って稼いでんのよ。だから夜中でなきゃやれねぇんだ。わかったらごちゃごちゃ口挟むなよ」
稀一郎の喉仏が上下にゆっくり動きます。
「お前も案外初心だよなぁ。おれの体を見ればわかりそうなもんだが、気づかないなんてな。三年前も同じ商売やってたんだぜ。知らなかったのか?」
朔之介は乾いた声で笑い、気だるげな動きで煙草に火をつけました。紫煙が立ち昇り、空へ消える前に稀一郎の手がぬっと伸びて、煙草の先端を捻り潰します。朔之介は抗議の眼差しを向けました。
「……何しやがる」
稀一郎は重たい口を開きます。
「ごめん。俺知ってたよ」
一緒に暮らしている者の傷が増えたり減ったりしていることに、気づかないはずはありません。しかしその時は、よもや売春をしているとは思いもよらなかったのです。働いていて殴られることは稀一郎もしょっちゅうでしたから――稀一郎はやられたらやり返すし、そうでなくても切れやすいので、一方的に殴られることはほぼありませんが――朔之介も同じことなのだろうと思っていました。
それに何より、彼らは同い年くらいの少年でした。まだ青い、対等な立場の少年同士だったのです。稀一郎が世話を焼きすぎるのは、この関係性において少々不適切です。朔之介も体を見られたくないようだったし、稀一郎はますます言い出せなかったのでした。彼らは当時から、誰にも言えない秘密を腹の奥底に隠し持ったまま、互いの私事に深入りしない一歩引いた距離感を保って、共同生活を送っていたのです。
売春していることに気づいたのは、朔之介がいなくなった後のことです。捜索も兼ねて朔之介の足取りを追ううち、わかったのでした。
「お前の行ってた茶屋がいわゆる連れ込み宿だったもんで、他にもちょっと調べてみたんだけど、やっぱりそうなのかなって……一緒にいた時に気づかなかったことを心底悔やんだ」
そう言い終わらないうちに、ばちんと派手な音が鳴り響きます。朔之介が稀一郎の手を叩き落としたのでした。稀一郎は面食らって身を引きます。
「知っていたなら!それこそどうして戻ってきたんだ!」
珍しく声を荒げます。稀一郎はますますびっくりして硬直します。
「こんなことをおれの口から直接聞くためにか?物笑いにするためか?そんなくだらねぇことのためにおれを捜してたってのか!」
「ちが、違うって。誤解だよ。そりゃ、言わなかったのは悪かったが……」
稀一郎は狼狽えながら弁明します。
「さすがにそんなこと、お前に直接言うのは気が引けて……俺がお前のことそんな風に見てるみたいだし……っていうか、俺はただ、もう一度お前に会いたかっただけだ。会って話をして、謝りたかった。始めからやり直したかったんだ」
朔之介は訝しげに表情を歪め、稀一郎を見ました。
「それで?その後はどうするつもりだ。何をやり直すんだ」
吐息まじりに、幼子に言い聞かせるように続けます。
「なぁ稀一郎、おれのことなんか忘れてまともに生きろよ。お前はそれができるやつだろうが。みすみす将来をドブに捨てるな」
朔之介は火の消えた煙草を、殊の外億劫そうに屑籠に放ります。
「わかったらさっさと出て――」
「出ていかねぇ!」
放った煙草は籠の縁に弾かれて床に落ちました。
「何もわかってないのはお前の方だ。俺のことが好きなくせに、どうして逃げようとするんだよ」
「はぁっ!?おま、自分で言ってて恥ずかしくねぇのか!?」
朔之介はあからさまに取り乱し、怒ったように語気を荒げます。
「恥ずかしくねぇ!だってお前、俺のこと好きだろ!」
稀一郎は朔之介を強く抱きしめますが、勢い余って押し倒してしまいます。硬い床の上なので、咄嗟に後頭部へ手を回しました。暗い中でも明白に、朔之介が紅をさすのがわかります。
「っ、クソ、早く……退けよ」
「ごめん、すぐに」
「馬鹿!退くんじゃねぇ」
そう口走ってから、朔之介はしまったという顔をします。ますます紅潮した顔を両腕で隠します。
「ほら、俺のこと好きなんじゃん」
「うるせぇ……クソ、やっぱり早く退け」
稀一郎は穏やかに答えて上体を起こしました。朔之介の体も引き上げ、座った姿勢でなお抱きしめます。
「お前の置手紙、覚えてるか?ずっと大事に持ってたんだぜ。今も持ってるよ。俺なぁ、あの時お前を拒んだことを……いや、動機をよくわかってなかったからなんだけどね?それでも他にやりようがあったんじゃないかって後悔してた。違うやり方をしていたら、お前は俺の前からいなくならなかったんじゃないかって……」
朔之介の薄い肩を、稀一郎は優しくさすります。
「なぁ、もうどこにも行くなよ。ふらっと消えちまわないでくれ。三回目は嫌なんだ。お前と、離れたくないんだ」
「……めおとにでもなるつもりかよ」
「それもいいかもな。一生大切にする」
返答を聞くや否や、朔之介はいきなり腕をぐんと伸ばし、つっかえ棒のようにして稀一郎の胸を押し返します。稀一郎は首を痛めました。華奢な腕で凄い力です。
「……や、やっぱりだめだ、そんなこと。お前早く出てけよ」
「なんでそうなるんだ。出ていかねぇって言ってるだろ!わかんねぇやつだな」
「何も知らないから簡単にそう言えるんだ」
紅をさしているくせに、朔之介は頑として稀一郎を突き放します。目も合わせず、小さくうつむいたままです。
「大体、そんな昔の話は時効だ。あの時はただ魔が差しただけだろ。置手紙がどんだけのもんだ。こっ恥ずかしいこと思い出させやがって」
「時効じゃねぇだろうが。嫌なら俺をぶん殴っちまえばいいだろ。小動物みたいに縮こまってないで、嫌いなら嫌いだってはっきり言えよ」
朔之介は言葉に詰まります。
「……お前はおれとは違うだろ。真っ当に嫁さんもらって子供作って、真っ当に暮らしていけばいい。それが幸せってもんだ。おれなんかと一緒になるなよ」
どうしてこんなに卑屈なのだろう、と稀一郎には理由がわかりません。卑屈なくせに強情です。昔からこうだったろうか。稀一郎は朔之介のことを全て知っているわけではないけれど、過去なんてどうだっていいと思っているのに。養父とのことや売春をしていることを後ろ暗く感じているのでしょうか。それだけの問題でもないように思われました。
「俺の幸せとやらを勝手に決めるなよ。俺だって人殺しだからさ、今さら真っ当になんて無理だぜ」
「おれではだめだ。きっとお前を不幸にする」
朔之介は弱々しく訴えます。稀一郎に突き立てていた腕はすがりつくように垂れ下がっているだけです。震える声で、これ以上期待させないでくれと呟きます。
「愛だの恋だの、好きだの嫌いだの、何もわからなくなった。知った気になっていたことが全部わからない。お前のことも、好きなのか嫌いなのか、もうわからん」
嫌いなの?と稀一郎が問うと、朔之介はふるふると首を振ります。
「それならいいよ。嫌いじゃないなら、まだしばらく一緒にいよう。一緒にいるだけでいいよ。俺はそれだけで」
「後悔するぞ」
「しねぇよ。絶対しない。お前を諦める方が後悔する」
「正気じゃない。ろくな死に方しないぜ、お前」
「いいさ。それまでそばにいてくれよ」
朔之介はやっと顔を上げます。怒っているのか泣いているのか、他にも色々の感情を詰め込んだような表情でした。つぶらな瞳には薄い膜が張っています。金と黒の対照は浮雲のごとく不安定で、奇怪な美しさを放っていました。
「口吸ってくれ」
睫毛の触れる距離で、朔之介がせがみます。熱い息を唇に感じ、吸い寄せられるように口づけました。ほんの一瞬接するだけの、柔らかくて優しい接吻でした。刹那の温度を、稀一郎は生涯忘れないだろうと誓いました。
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