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第20話 報復

 二週間ほどが経ち、梅雨が明けて季節は既に夏です。空はどこまでも広く、青く茂った木々はざわめき、蝉が暑苦しく鳴いています。朔之介はすっかり回復し、怪我も粗方治りました。病み上がりは安静にしろと稀一郎が言うので、朔之介は長屋付近から出ずに過ごしています。  今朝、仕事へ行く直前のことです。稀一郎は藪から棒に言いました。 「お前、もう結構元気だよな」 「ああ。だからそろそろ――」 「そろそろ仕事復帰しようと思ってるだろ。そうはさせねぇ」  むっとして見せた朔之介を差し置いて、稀一郎は一方的に言葉を続けました。 「いいか、よく聞けよ」  稀一郎は深く息を吸って吐きました。 「……俺は、今夜、お前を抱きます」  胸を押さえ、もう一度深呼吸をします。朔之介は唖然として立ち尽くしました。 「おい、聞いてんのかよ。だからもう仕事は行くな」 「な、んで、急にそういう話になるんだ」  朔之介は片言で問います。二週間ほど前の稀一郎との約束を覚えていないのでした。発熱時の、ほとんどうわ言のような口約束だったので、仕方ありません。稀一郎もそのことをわかっています。 「なんでもだ。俺がお前を寂しくさせなければ、体売るのやめられるんだろ?」 「それとこれとは関係ないだろ。どういう思考回路してんだ」  朔之介はほのかに頬を火照らせ、しかし噛み付くような眼差しで言います。 「関係ある。俺が毎晩いっぱい愛してやるから、体売るのはやめるって誓え。今ここでだ」 「そんな無茶苦茶な話があるか。おれは他の稼ぎ方を知らねぇんだぞ」 「それでもやめるって誓え」  稀一郎は朔之介の肩を鷲掴みにし、多少語気を荒げました。 「どっちにしても、俺はお前を抱くぞ。確かにまだちょっと怖いが、お前を失うより怖いことはねぇ。それで、そうしてお前が俺のものになったなら、危ないことは二度としないって誓えよ」  稀一郎を見上げる朔之介の双眸が潤んで、映り込んだ景色がかすかに揺れます。改めて見るとかわいい顔をしている、などと場違いなことを稀一郎は考えます。 「金のことなら俺がしばらく面倒みるから心配すんな。そのうち、きっと他のこともできるようになるさ。二人で生きていくんだ。何とかなる」 「……あんまり強引だ。お前は」 「今夜、俺はお前を抱く。これはいいな?俺も腹決めてくるから、お前もその、えっと……心の準備をしとけよな」  朔之介はさっとうつむき、小声でわかったと言いました。じゃあ、と稀一郎が言いかけると、朔之介は腕からすり抜けて背を向けました。 「だが、もう一方の要求は承服しかねる。今夜、もしもクソつまらねぇことをしやがったらこっちから出てってやる。うまくできたら……その時は誓ってやる」  蚊の鳴くような声でした。稀一郎の目からは表情を確認できません。しかしその言葉だけで、稀一郎はどうしようもなく胸がいっぱいになります。じゃあ今夜な、とだけ言って部屋を飛び出しました。  *  そんなわけで、朔之介は一日中そわそわしているのでした。日が落ちてしばらく後、足音が聞こえて朔之介は起き上がります。足音は予想通り部屋の前で止まり、玄関の戸が開かれました。緩んだ口元を急いで引き締めます。おかえりと言いかけて、朔之介は絶句しました。本日二度目の衝撃です。 「ああ、ただいま」  稀一郎は朱に染まった姿で笑いました。血液と泥で顔まで汚れ、しかし一番酷いのは手の甲です。皮膚が擦り剥け、血の塊が付着していました。 「……転んだのか?」  朔之介は魚のように口をぱくぱくさせながら、素っ頓狂な声で言いました。稀一郎はまた笑います。 「違ぇよ。ただの喧嘩だ」 「にしては何か……怪我とか、大丈夫なのか?血がすごいぞ」 「大丈夫だよ。ほとんど俺の血じゃねぇから」  爽やかな笑みを浮かべる稀一郎を見、朔之介はぞっとすると同時にときめきます。 「お前、やっぱり危ないやつだ」  *  稀一郎の職場での出来事です。先々週頃から休んでいた同僚が、本日久々に復帰しました。入院していたのか自宅療養だったのか定かでないものの、大怪我をして休んでいたらしいのです。親しい仲ではないので詳しいことは知りませんでした。昼休憩時、川辺の木陰で熱い風に吹かれながら、稀一郎は独りで昼飯を食べます。そこでたまたま、件の同僚が話しているのを聞いたのでした。 「女にあそこを噛み切られたって噂、マジだったんすか」  後輩の一人がからかうと場が沸きます。場の空気に乗せられたらしい彼は、武勇伝を話すがごとく得意になって話し始めました。  いわく、街娼を安く買い、何人かで相手をさせたらしいのでした。夜の街で見た時には綺麗な顔をしていると思ったのですが、行為を重ねるうちに無性に苛々してきたそうです。どこか陰気であり、かつ野蛮な本能を刺激するような雰囲気だったと言います。 「あの目がよくねえな。変な色の目をしてたんだ。気持ち悪いんでなじってやると、恨めしそうに見てくるんだよ。ムカついて、自然と手が出たね」  その後はなし崩し的に、暴行と陵辱を交互に繰り返しました。首を絞めると締まりがよくなって気持ちいいのだと彼は笑いました。 「でも最後に反撃されたわけ。それまでは大人しくしてたんだが、いきなりオレのものをガブッといきやがった。今思い返してもむかつくぜ。殴り殺してやろうかと思ったが、それどころじゃねえ。お前ら知らないだろうが、マジで痛いんだぞ」  実際は噛み切られたわけではなく、強かに噛み付かれただけというのが正しいようでした。それでも相当な痛手です。下卑た笑い声を背中に聞きながら、稀一郎はその場は抑えました。  夕刻、仕事終わりに、稀一郎はその同僚の元へ行きました。ひぐらしの鳴く声が空気に混じっています。 「さっきの話聞いてたぜ。あんたも悪い人だな。女をなぶるのがそんなに楽しいか?」  のっけから喧嘩腰です。彼も神経を張り詰めて稀一郎を睨みました。 「それがどうした。お前も女くらい買うだろうが」 「俺が言いたいのはそんなことじゃない。あんたの大事なところを噛みちぎったのは、もしや男じゃなかったかってことだ」  周囲がざわつきます。この時、稀一郎は全く孤立していました。稀一郎は一人で立ち、彼には何人か仲間のような者がおり、他は無関係の野次馬です。 「男だったらなんだ。たまにはいいもんだぞ、男の尻も――」  全ての台詞を言わせずに、稀一郎は彼の胸倉を掴んで殴り、思い切り張り倒しました。 「だったら俺もてめえを殴る!」 「てンめえ、いちゃもんつけてんじゃねえぞ」  彼もすぐに立ち上がり、稀一郎に向かってきました。当然殴り合いです。時々足も出ます。お互い譲りません。彼の仲間は止めようとしますが、事情を知らない外野は勝手に盛り上がり、喧嘩を煽り立てます。 「身内を侮辱されて黙ってられるやつがいるかよ。その口二度ときけねぇようにしてやる」 「あの淫売野郎とどういう関係なんだ、てめえ」 「ただの家族だ!」  稀一郎の拳が綺麗に顎へ入り、彼は失神して後方へ倒れました。それにも関わらず稀一郎が馬乗りになって執拗に叩きのめすので、咄嗟に周りが止めに入ります。いい加減にしろ、などという声は稀一郎の耳には入りません。頭に血が上り、激しい情動に駆られているのです。 「もうやめろって!殺す気かよ」  二人がかりで押さえられ、稀一郎はようやく我に返ります。 「何があったのかよくわからんが、もう十分だろう」  彼は血だらけで倒れています。稀一郎も血まみれで立っています。袖で顔を拭うと鼻血で汚れました。奥歯が折れています。口内に溜まった血と一緒に地面へ吐き捨てました。  ただの痴情のもつれなんだろう?と遠くで声がします。稀一郎は思わず舌打ちをします。しかしここは堪えて、努めて冷静に落ち着いて、悪かったなと言いました。稀一郎を押さえていた手が離れていきます。 「その人、大丈夫か。生きてるか?」  彼は意識を取り戻したようでした。しかし既に戦意はなく、うなだれています。稀一郎は彼の前へしゃがみ込み、目線を合わせました。 「なぁ、あんたも自分が悪かったと思うだろ。手前の大事なもんを穢されて黙っているなんて、そんなの男じゃねぇよなぁ。あんたもそう思うだろ?」  彼はうなずくでもなく否定するでもなく、曖昧な反応をします。 「お前、男が趣味なのかよ」 「いや、あいつはただの家族で同居人だ。でも大事なものなんだ。わかるだろ?あんたにもいるはずだ、大事な人の一人や二人。それで……だから、今回は痛み分けでいいな?悪く思うなよ。あんたが先に手を出したんだからさ」  稀一郎が手を差し延べると、彼は仕方なく手を取りました。すると、どっと歓声が上がります。喧嘩を見て沸いていた血気盛んな男たちが、和解のパフォーマンスに再度沸いたのです。同僚の彼は納得いかないような顔をしていましたが、何となく有耶無耶のまま騒ぎは収まりました。

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