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七 ③

 ──煌隆は水鏡をかき混ぜ、盆の縁に肘をついて渦を眺めていた。ひらりと舞い落ちた紅葉の葉がくるくると綺麗に円を描く。  葉を拾い上げ、美しい紅色に約束を交わした日の事を思い出す。  涼にはああ言ったが、実はこの水鏡、殆ど響の姿を映す事はない。混ぜても混ぜても水紋が広がるばかり。  そもそも水鏡が、それこそ鏡のようにはっきり巫女の姿を、居場所をも映す物なら、わざわざ狭い洞穴のような部屋で一晩中待つ必要もない。水鏡はただ、巫女の危険と不貞を教えるものに過ぎない。  煌隆は水鏡から顔を離し、煙管に葉を詰め火を移す。長く煙を吐き出し、摘まんでいた紅葉の葉を水鏡に落とした。すると水鏡はゆらりと、銀を溶かしたように滑らかに揺れて鈍く光る。 「……将極。将極!」  水鏡が映した響は鳥居の下に立っている。そこは現世の禁門。松山老人と一言二言話し、踵を返す。その様子からは危険も不貞も感じられないが、水鏡が映したと言う事は何かある筈。滑るように縁を走ってきた将極に急ぎ現世の禁門へ向かうよう指示する。  将極は短く返事をすると裾をたくし帯に押し込み、縁を飛び下り庭園を走り抜け(うまや)へ向かった。  屋敷から禁門へは距離がある。間に合うと良いが。  煌隆は吸いかけの煙草を叩き落とし、下女に暦を持って来させた。  常世と現世では時の流れが異なるため、うっかり約束の日を間違えないよう、この現世と常世の暦で確認していた。  しかし、煌隆は現世との関わりを絶ってもう百年以上。もし、現世の暦の読み方を間違えていたとしたら?  すうっと背筋が寒くなった。  落ちた紅葉はもう、あの日と同じ紅い色。庭園は見事なまでに紅く染まっている。 「……今すぐ馬を用意させよ。私も門へ向かう」  いつもはあまり乗り心地の良くない馬車で門まで下りるが、そんな馬車でのんびり下るわけにはいかない。  煌隆は思いきり馬を蹴り、屋敷の門を破り、町を飛ぶように駆け下りる。ぎょっとして平伏する町人の一人を掴まえ、門への道を訊く。実は一人で行く事がない故に道を知らない。 「こ、この道を下って境界門を越え、大小道がありますが、一番上等な道を行けば、長屋門が見えてまいりますのでそれを潜ればすぐにございます」 「そうか、礼を言う! 騒がせたな!」  神に話し掛けられたその町人は腰を抜かし、数日立てなかったそうな。  煌隆は更に馬を飛ばし、禁門へ急いだ。将極はもう着いているだろうか。  背筋のピンとするような声に響が振り向くと、本殿の前に肩で息をする将極が立っていた。響が駆け寄ると膝を突き、石畳に座り込み大きく深呼吸をする。 「良かった……間に合いましたね」 「あなたは、将極さん。どうしたんです、そんなに急いで」  響は松山老人に急いで飲み水と手拭いを用意させる。突然現れた将極に驚いて反応が遅れていた松山老人は慌てて社務所へ走った。  将極は呼吸を整え、制止する響に首を振って立ち上がる。 「水鏡に貴方の御姿が映りました。何か良くない前触れです。今暫くここに。間も無く主上もお見えになる筈」 「え? 煌隆も? それならどうして将極さんが来たんです?」 「某は禁門で時間の掛かる手続きや特別な道も不要なのです。急ぎ貴方をお引き留めせよと。少なくとも主上よりは早く着けます」  響は胸がざわつくのを感じた。自分の知らないところで何か良くない事が起きている。自分に関わる何か。酷い胸騒ぎで、不安で指の一本さえじっとしていられない感覚。  社務所から転がり出てきた松山老人が、水と手拭いを差し出し何事か訊ねる。将極は水を一気に飲み干し、姿勢を正す。  全速力でこちらへやってきたものの、将極にその理由はわからない。ちらりと覗いた水鏡に響の姿が見えて、ただ、煌隆の尋常でない雰囲気と「急げ」という命令に従って馬を飛ばして来た。馬は連れて来られない為、門前で馬を乗り捨て後は己の脚に頼った。  三人黙って本殿の前に立ち尽くしている間にも、響の胸を襲う不安は急速に侵食していて、得体の知れない恐怖に押し潰されそうだ。 「響! どこだ響!」  本殿の戸が乱暴に開け放たれ、反射的に平伏する将極と松山老人を横目に、響は出てきたその人に無我夢中で抱きついた。 「煌隆っ!」 「ああ、良かった、無事であったか……!」 「煌隆、一体何があったんですか? もう、不安で、怖くて」  煌隆は震える響を抱いたまま、松山老人に持っていた暦を渡す。 「今日は何日だ?」 「生憎、日にちを気にする生活を送っておりませぬので、申し訳ありませぬ」  そこへ騒ぎを聞き付けた涼が、慌てて着たのだろう漆黒の浴衣に帯を雑に巻き付けた姿で社務所から出てきた。  涼に気付いた煌隆は、涼が口を開く前に松山老人から引ったくった暦をつき出す。 「松山涼、そこに印があるだろう。それはいつだ」  全くもって状況が飲み込めないが、涼は取りあえず押し付けられた暦を捲る。 「……これ、明日っすよ。て言うかもう今日?」  袂から携帯を取り、時刻を確認すると少し前に日付が変わったところだ。それを聞いた煌隆は言葉を失くし、小さく震える響を抱く腕に力を込める。  未だ恐怖に震えるのは、それと知らずも本能が感じ取っているからだろうか。 「……何と言う事だ。私とした事が、日を読み違えるとは」  とにかく一同は、松山老人の勧めで社務所の居間へ集まった。将極は差し出された座布団を断り土間に背筋を伸ばして立つ。涼は煌隆から離れようとしない震えたままの響の様子に、言い様のない不安を抱く。何となく近寄り難い雰囲気で、そろりと居間を降りて将極の横に立ち見守る。  松山老人はそそくさと茶を沸かしに行った。  煌隆は響を自分の正面に座らせ、冷えきった手を握る。 「単的に言えば……響、お前は今日死ぬ」 「え……え?」  思わず身を乗り出した涼の腕を将極が掴む。一つ首を振り、大人しくしていろと。 「これについてはゆっくり話すつもりだった。しかしもう時間が無い。私のせいだ、すまない」 「どう言う事ですか? そんな急に」 「……私がお前に与えられる生はこちらの時間できっかり十年だった。幼いお前が死した日が、十年前の今日」  煌隆は暦に印した日付を指す。それは確かに今日の日付。 「お前は今日以降、ここから出れば必ず死ぬ。何があろうとも、だ。そして死すれば、肉体は滅びあちらで転生を待つ事となる」 「それって……死ぬと、煌隆とは一緒になれないって事?」  響は力の入らない手で煌隆の手を握り返す。  死ぬのは怖い。堪らなく怖い。またあんな暗い死を迎えるのは嫌だ。けれど、それよりも嫌なのは。  煌隆と離れてしまう…… 「そう。肉体がなければ、婚姻は不可能。ここから出ればと言ったが、それも長くは続かん。せいぜいでこちらの時間で言うなら五十時間程」  黙って聞いていた涼が、将極の制止を振り払い口を挟む。 「だったら、また生き返らせりゃいいじゃねーか!」 「お前! 何だその口の聞き方は! 余りに無礼な!」 「よい、将極。そやつの無礼は許しておる……何度も現世の秩序を乱すわけにはいかん。響には早急に決めて貰わねばならん」  煌隆は漆黒の布の向こうで息を吐く。  緊急事態でも、しっかり顔を隠さなければならない事が忌々しい。 「死して転生し、新たな生をやり直し、また私達が出会う事を待つか、すぐに常世へ赴き人としての生を終え、私と同じ存在となるか。すまない、考える時間を与えてやれない」  響は未だ震えが止まらないまま煌隆を見上げる。  もう恐怖は無い。それでも震えが止まらず体が酷く冷えるのは、魂が離れ掛かっているからだろうか。 「煌隆……迷いはありません。もう心に決めているんです。すぐにでも常世へ行って、煌隆と一緒になりたい。けど……」  約束を思い出した日からもう、心は決まっていた。涼からの告白を聞いて少し揺らいだ気持ちも、ここに来てまた煌隆を見て、完全に迷いは消えた。  ただ未練は、両親の事。  響の為に故郷を捨てた両親。懸命に働き、自身が倒れても決して諦めずずっと家族を支えてくれた父。慣れない田舎で弱音を吐かず、いつも笑顔で守ってくれた母。別れを告げる事も出来ず、こんな形で突然二人の前から消えてしまう事が、ただ辛い。また悲しませてしまう事が申し訳ない。  本当の事は話せない。けど、別れは言いたい。 「もう、顔も見れない。せめてさよならくらい、言いたかった……」  俯く響の頭を、煌隆はそっと撫でる。 「……主上、そろそろ夜が明けます」  じっと黙っていた将極が静かに時間切れを告げた。 「分かった。響……また今夜来る。少し休め」  煌隆は手を放し、静かに立ち上がる。素早く下襲と羽織の裾を持つ将極と共に戸へ下りる。  手前で振り返り、躊躇いながら告げた。 「響、あちらでお前を迎える準備をしても良いだろうか」 「勿論です。あまり時間はないけど、色々、済ませて待ってます」 「突然で、急がせる形になってしまった事を、本当に済まなく思う……松山涼も。別れを惜しむ暇も与えてやれずにすまなんだ」  声を落として涼に謝罪する。  もっと早くに響に説明していれば、こんな急に、奪うように響を連れて行く形にはならなかったのに。  涼は頭を掻いて唇を尖らせる。 「いーっすよ、別に。ばたばたしてくれた方がかえってすっぱり諦められるよ」  煌隆は陽が昇る前に、本殿に入って行った。

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