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七 ④
カーテンの隙間から顔を照らす眩しい朝陽に響は目を覚ました。
社務所で眠ったのは初めてだ。
「よー、ちったぁ眠れたか?」
目の下にくまを作った涼が、朝食と桶を持って客間に入ってきた。
「まぁね、少しは……似合ってんじゃん、それ」
響は涼の漆黒の袴を指す。涼は袴を摘まんで持ち上げ、苦笑する。
「葬式でもこんな真っ黒なの着ねーぞ。守りの者の衣服は真っ黒じゃなきゃいけないんだとさ」
「へぇ、何か意味があるのかな」
改めて見れば、着物も袴も、半襟も襦袢も、足袋でさえ。見えるところは全て漆黒。
そう言えば常世の禁門で、外の門番も漆黒の衣を纏っていた。
まぁいずれ聞く事が出来るだろう。今はそんな事はどうでもいい。
「……ごめん、急で。せめて卒業まではこっちに居られると思ってた」
「ああ……良いって。夕べもあいつに言ったけど、長引いてまた響を手放したくなる前に、どたばたしてくれた方が良い」
別れは済ませた。涼の中で、あの一度きりの口付けがそうだった。
「お前がただ死んじまうより、どっかで生きてるならそれで良い」
「うん……ありがとう」
きっとこれが最後だろう、涼の手料理に箸をつける。ゆっくりと噛み締めて、その味を忘れないよう脳に刻む。
「夏に、涼が手形を見付けてから何だか、あっという間だったな」
海で涼が手形を見付けていなかったら、どうなっていただろう。誰かが、例えば煌隆が神社へ導いただろうか。それとも、何も知らないまま、今日また死んだだろうか。
涼は、きっかけや形が違っても、きっと自分がここへ導いただろうと言う。それが、巫女と守りの者の関係で、さだめなのだと。
「そうだ、お前おじさんとおばさんに手紙書けば? じゃないとただの行方不明だぞ。俺届けてやるから。ついでに要るモンがあったら持ってきてやるよ」
涼は膳を下げ、文台と硯箱を持って戻ってきた。神社にはボールペンどころか、鉛筆さえ無いらしい。
響は墨を持って、ふうっと長く息を吐く。磨りながら、両親の姿を頭に浮かべる。両親の笑顔が、怒った顔が、泣いた顔が、思い出が、次々溢れる。
筆を持つのは何年振りだろう。煌隆の、美しく流れる筆運びを思い出す。
──父さん、母さん、ごめんなさい。まだ何一つ親孝行出来てないけれど、今日オレは、この地を離れます。そんなの、まだ早いと怒られるかも知れないけれど、愛する人と一緒になります……
「何か、駆け落ちみたいだな」
まるで子供が書いたような字と、文面を見て苦笑する。
書き終えた手紙を涼に渡す。
考えてみても、これと言って趣味を持たなかった響は常世へ行くにあたって必要なものは特にない。勉強なんて役に立たないし、生活もがらりと変わるんだろうから体一つあれば問題無いだろう。
それに、一番大事なものはこの指に嵌まっている。
涼は了解すると、手紙を懐に差し込み、慣れない手付きで袂を腰紐でたすき掛けに縛る。
「まさか、その格好で山下りるの?」
「あー、ここ洗濯機ないじゃん? 洗濯板で服洗ってたらダメにしちまって」
頭を掻いて照れ臭そうに笑う。つまり洋服が無いのか。どうせ力任せに擦ったりしたんだろう。
「ちなみに下は褌だぜ。見る?」
「ばっ、いらねーよそんな情報! さっさと行けよ! 夜までに戻って来れなくなるぞ!」
響が怒鳴ると、涼はけらけら笑って出ていった。境内に面する窓から覗くと、袴にスニーカーで走って行く後ろ姿が見えた。
いつもとかわらない笑顔で、態度で接してくれる涼が、とてもありがたかった。
変な格好。
響はくすくす笑い、境内へ出た。ぐるりと歩きまわり、町があると思う方角を向いて目を細める。やっぱり神社を囲む森は鬱蒼としていて麓の景色なんて見えないが、こうして自分の過ごした土地に思いを馳せていると見えない筈の景色が見えるようで。
もう二度と戻る事はない、静かな町。嫌な思い出も良い思い出も全部ひっくるめて、響を育んでくれたこの地を離れる事を少し淋しく思う。
隣にはいつも涼が居て。
いつの間にか華と聖が居て、二人が三人になって、四人になって。この夏は本当に楽しかった。そうだ、華と涼がうまく行くといいな。自分はもう涼を見守る事が出来ないから、華が代わりに見守ってくれるといいな。
──ありがとう、さようなら。きっと忘れないから。
山を下りてまっすぐ大河家へやってきた涼は、玄関の前に立ち尽くしていた。早足で乱れていた呼吸もとうに落ち着いてしばらく。
響からの手紙を握り、漆黒の袴で呆然と立ち尽くす涼を近所の人が好奇の目で見て行く。
考えてみれば、響の両親に息子が死ぬ事を告げねばならない。
軽い気持ちで山を下りて来た涼は、ここに来て二の足を踏んでいた。
それとなく常世へ旅立つ事を伝えるのか、それともそんなお伽噺のような事には触れずにおくべきか。死ぬといってもそれはあくまで現世での死を意味するのであって、響の魂が失われてしまうわけではない。けれど現世の者にとって死ぬ事には変わりない……
考えあぐねた結果、何も告げず手紙だけを置いて行こうとポストに手を掛けた時。
「おわ!」
「あら? 涼君どうしたの、凄い格好ね。学校は? あ! ひょっとして響も一緒じゃないでしょうね! 学校から連絡があってね、あの子学校へ来てないって。二人でサボってるんでしょう!」
畑仕事に出てきた響の母が、涼を認識した途端顔色を変えて捲し立てる。
じりじりと後退り、視線が定まらずきょろきょろと妙な格好をしている涼はいかにも怪しい。
「ま、待ってよおばさん、その響から手紙預かってきたんだ!」
捲し立てる母の手に手紙を押し込み、これ以上何か言われる前に立ち去ってしまおうと踵を返した涼の腕を母が掴む。
「待ちなさい」
「一人で読んで欲しいなぁ……」
目の前で手紙を読み出した母にぼそぼそと呟く。母は険しい顔で手紙を黙々と読み、答えない。
読む毎に険しい表情はどんどん青ざめていく。読み終えれば今にも卒倒しそうな程血の気が引いている。
「涼君、何か知ってるんじゃないの? ね、冗談なんでしょう? あの子今どこに居るの?」
「その……響は、冗談でそんな事言わない……です。居場所は言えません」
「ねぇ、響は学校で何かあったの? それとも家が嫌だったの?」
母は視線を逸らす涼の肩を掴んで必死に問う。涼は唇を結んだまま首だけ横に振る。
「嘘よ! そうじゃないなら、こんな、遺書みたいな手紙は何なの!」
「ごめ…ごめんなさい!」
涼はとうとう耐えきれず、母の腕を振り払って駆け出した。その背中を追う母の悲痛な叫びと泣き声を、頭を振ってかき消した。
「響! 響はどこなの! 涼君! お願い、響はどこなの!!」
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