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八 ①
陽が暮れる前に神社に戻って来た涼は溜め息を吐いて社務所の戸を開ける。響の母の泣き叫ぶ声がまだ頭から消えない。
居間へ上がると、奥から陽気な声が聞こえ、涼は頬を一つ叩きいつもの表情を作った。
「涼、おかえり」
奥の座敷で、松山老人に将極、それにいつかのグリーンの衣を着た響が少し弱々しい笑顔で涼を迎えた。
その笑顔はとても綺麗で。
「それって前、響がコスプレしてた服じゃん」
「これ、常世の服なんだ。将極さんが持って来てさ。あっちには、現世の物は持って行っちゃ、駄目なんだって。持って行きたい物が何もなくて、良かった」
響は将極から差し出された、ビーズのような宝石が暖簾のように顔面に下がる旒の付いた長方形の冠を被る。夏から少し髪が伸びたその姿は、まるでどこかの姫のよう。涼の口から思わず溜め息が漏れる。
「そ、そういやあいつは? まだ来てねーの?」
「煌隆? 向こうでの準備が忙しくて、迎えに来れないんだってさ」
少し淋しげに声を落とし、ゆっくり話す。白粉を塗ったように白い顔に冠の影が落ち、濃い陰影を作る。表情は旒に隠されてしまいよく分からない。
響は歩きにくそうにゆっくり涼に近付き、そろりと手を取る。涼はその手に触れてぎょっとした。生きているとは思えない程冷たいのだ。
震えは止まったものの体温はどんどん下がり、もう体の方に限界が来ているようだと。
「だから、明日まで時間はあるけど、急ぐ事にしたんだ」
ゆっくり話す響は一層弱々しく覇気が無い。
涼は黙って響の冷たい手を握る。
何か、何か言わなくては。けれど言葉は喉の奥に詰まり出てこない。
視界に将極の手が入り、二人の手にそっと掌を乗せる。
「そろそろ刻限です」
響はするりと手をほどき、将極に手を引かれ境内へ出る。涼と松山老人も後について社務所を出た。
境内へ出るなり響と涼はあっと短く声をあげる。
境内には、本殿の正面から螺旋状に天高く貫く虹色の階段が伸びている。階段は踏板だけがあり、それも硝子のように半透明で、まるでオーロラが空から地にまで降り注いでいるようだ。
もう響はいくらも話せないようで、あんぐり口を開いて階段の終わりを探す涼の顔を見上げ一言だけぽつりと言った。
「涼、元気でな」
将極に促されゆっくり階段を上がる。階段はひとつ昇る毎に消えて行く。神社を囲む木々より高く、空に近づき雲と同じ目線まで昇った時、涼の声が聞こえて足元に視線を落とす。
「響! お前も元気でな! 絶対……絶対幸せになれよ! それと、お前すっげー綺麗だ! そのうち俺が死んだら、絶対会いに行くかんな! だから、さよならなんかしねーからな!」
涼の姿を探すが、暗闇に手燭の灯りが小さく見えるだけで声しか届かない。すぐに視界が揺れ、濃い霧に包まれたように辺りの景色は白で埋め尽くされた。
「うん……待ってる」
最早届きはしないが、口の中で呟いて顔を上げる。
将極に急ぐように手を引かれ足許が怪しい霧の中暫く昇ると、霧を抜けまた暗闇に戻る。見上げれば星も月もなく、空と思われる頭上は限りなく漆黒。
正面に一定の間隔で灯る篝火の炎が、岩を削って均した道を照らしている。目を凝らすと少し遠くに鳥居に似た閉ざされた門が見える。二人は篝火に挟まれた道を慎重に歩く。
門まで来ると、二人の門番がいつぞや見た三つ頭の犬のような彫刻の扉を重そうに開く。
ああ、やっぱりこれが禁門だったんだ。
中では馬車と、馬が一頭待機しており、馭者が駆け寄り低頭する。観音開きになっている馬車後部の戸を開け、響を促す。
馬車の内部は見覚えのある作りで、以前煌隆に無理矢理常世へ連れて来られた時の事を思い出す。あの時乗っていたのはこの馬車だったようだ。走り出した馬車の、がたがたと乗り心地の悪さもまるで同じ。
今度は小窓は開くようで、そろりと覗くと馬に跨がった将極がぴったりと馬車にくっついている。おかげでせっかく開いた小窓からは将極の脚と馬しか見えない。
景色は諦め響は小窓を閉めて反対の壁に凭れ掛かる。だがそうすると揺れが直に伝わってきて余計気分が悪くなってしまった。馬車を止めるかどうか迷っていると、目的地に着いたらしくその必要もなくなった。
降りるとそこは大きな屋敷の玄関門。見上げる程高く、左右の終わりが見えない塀を潜れば、厳かな平屋のお屋敷。石畳を歩いているとまるで時代劇の中に居るようだ。
余りの広さに目を眩ませていると、玄関脇に並んでいた女官達がぞろぞろと響に集まり物も言わずぐるりと囲む。
「え、あの」
「着いたばかりでお疲れでしょうが、すぐに禊をし、現世の穢れを総て落として下さい」
何も言わない女官達の代わりに、相変わらず険しい顔で将極が短く言った。返事をする間もなく、屋敷と塀の間をぐるりと回り裏に流れる川まで連れて来られた。
川岸で女官が数人掛かりで響の周囲に広い布を広げ目隠しを作る。抵抗する力もない響はされるがまま、あっと言う間に下着一枚にされた。
ひょっとしてこの川へ入るのか。
蝋燭の灯りしかない暗い闇の中、とろりと揺れる真っ黒な川へ入るのは抵抗がある。しかし、それよりも大勢の女性に囲まれたままの方が恐ろしく、大人しく川へ入った。
きっと凄く冷たいだろうと想像して体を強張らせていたが、今の響の体温では川の水温の方が高いようでむしろ温かく感じられた。
「人から生まれ変わる最初の儀です。しばしご辛抱下さいませ」
一緒に川へ入った女官が、言いながら響の体を清める。彼女達は響の体の隅々まで清めていく。髪も丁寧に流し、爪の間まで一本一本慎重に。さすがに下着の下は自分でやると言い、川から上がってもらった。
最後に口を濯ぎ、素早く衣を着せられ屋敷の玄関へ戻る。
玄関では将極が一歩も動かず待っていたらしく、ここを離れた時のまま立っている。
「ご気分は? 川は寒かったでしょう」
「いえ、今オレこんなだから、むしろ温かかったです」
「それは良かった。では、これを」
将極は響の冠から正面の旒を取り、薄い面紗を付けてその下部から伸びる二本の長いリボンのような布を両肩から背中に垂らす。こうする事で面紗が風等で捲れるのを防ぐのだとか。
「明日の婚儀が終わるまでは決して主上にお顔を見せぬよう。では、謁見の間へ案内致します」
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